その日のオルシュファンは、少し様子が変だった。
隊長が変わってるのはいつものことですよ、なんて、兵士達は冗談めかして言っていたけれど。どことなく、憂鬱そうな、ぼんやりとする瞬間があるようにハルドメルは感じていた。
「シュファン、具合でも悪い?」
「む? そんなことはないぞ。私はお前の方が気になるがな。頭痛などしていないか?」
「それは大丈夫だけど……」
話しかければいつも通り。けれどなんだか、やっぱり気になる。気になるけれど、それが『何』かがわからなくて、ハルドメルはもやもやした気持ちを抱えたまま午前を過ごした。
「ハルドメル、聞いたかい? イシュガルドのことだが……完全とはいかないものの、復旧や瓦礫の撤去は粗方終わって状況は落ち着きつつあるようだ。オルシュファン殿が言っていたようにフォルタン家に話が通れば、明日にでも入れるかもしれない」
「本当? 一先ず良かった、のかな。……ここでの生活も終わっちゃうんだね」
まだ確実に行けるとも決まっていないのに、つい名残惜し気に辺りを見回してしまう。
キャンプ・ドラゴンヘッドの者達は、本当に三人に良くしてくれた。それは主であるオルシュファンの意向だからというだけではない。
初めて訪れた時から続くハルドメルの度重なる小さな助力に、皆感謝していた。ハルドメル・バルドバルウィンという人そのものを、皆が信頼してくれたからこそだ。
温かな人達と、居心地のいい場所だ。だからこそ、離れることがこんなにも寂しい。たった数日のことだったはずなのに、両親と旅をしていた時以上に心が揺れる。これが郷愁というやつだろうかと、生まれた時から旅をしてきたハルドメルはぼんやりと思った。
「シューファン、お茶にしよう」
「あぁ、ありがとうハル……ん、この香りは……」
「本当はお料理用だけど……乾燥ローズマリーを持ってたから、紅茶と一緒に淹れたんだ。そのままだとちょっとクセが強いけど、ブレンドするとおいしんだよ!」
いい香りでしょ? と問えば、オルシュファンは目を閉じてカップを口元に運び、そしてほう、と息を吐いた。
「頭がすっきりするような香りだ……なかなかイイな!」
「そうそう、集中力を高めてくれる効果もあるんだって」
紅茶を一口含んだオルシュファンは、ふとどこか遠い目をした。今朝から続く違和感に近いものを感じて、ハルドメルはどきりとする。
「……シュファン?」
「いや、何か覚えがあるような気がしたんだが……母が淹れていたのと同じ香りのようだ」
オルシュファンの母。それは恐らく、あの日視た人ではなく、彼の、本当の母のことなのだろう。懐かしむように細められた目は、穏やかな色をしている。
「……香りというのは不思議だ。今の今まで、忘れていたのに」
「……嫌いじゃない?」
「もちろん」
その返答にほっとして、ハルドメルもまた紅茶に口をつける。香りで記憶が呼び覚まされるというのなら、今日のこともまた、ローズマリーが香るたびに思い出すのだろうか。
「クルザスが雪に覆われたのは第七霊災の影響だが、それ以前は緑が多かった。ローズマリーもそこらに生えていたらしくて、母は自分で摘み集めて……ああ、思い出すものだな」
「今はないの?」
「どうだろうな、寒さにも強いと聞いたことがあるが……探せばあるのかもしれない。見つけたら、メドグイスティルに頼んで常備してもらってもいいかもしれんな!」
常備したいと思う程度には気に入ってくれたらしく、他のハーブに関する話もしながら、ハルドメルはやはりどこかもやもやとしたものを感じていた。
「……あれ?」
間もなく日が落ち始めるという頃、そろそろ夕食の声かけをしてほしいとメドグイスティルに頼まれたハルドメルは、砦内を回っていた。
「タタル、アルフィノ、オルシュファン知らない?」
「さっきまで執務室にいた気がしまっすが……」
「そういえばヤエル殿とコランティオ殿もいないようだね……珍しい」
揃って姿を消した三人に首を傾げたが、その答えはあっさりと兵士達から聞き出せた。
「あぁ、三人がいないなら多分、あそこですよ。ほら……」
彼らが指さしたのは丘の上。以前、ハルドメルがフランセルを救助したこともある、スチールヴィジルにほど近い場所だった。
「……え、ハルさん !? どうしてここに……」
チョコボに乗ってやってきたハルドメルの姿に気付くや、オルシュファンの護衛で付いてきていたヤエルとコランティオはぎょっとした顔で駆け寄ってきた。
「夕食時の声かけをしてたんだけど、三人そろっていないからびっくりして……他の人に聞いたら多分ここだよって」
二人は顔を見合わせて肩を竦めた。ハルドメルの行動が早いのは今に始まった事ではない。
「オルシュファンは?」
「あそこです、普段は傍に控えるんですが……今日は一人にしてほしいと」
「ふーん……」
ハルドメルはチョコボから軽やかに降りると、手綱を二人に任せてすたすたとオルシュファンの方へ向かって歩き出した。敵わないな、と二人はまた肩を竦めて笑った。
「……一人で来たのか?」
「チョコボに乗ってきたし、歩かせたし、危なかったらすぐ帰るつもりだったよ」
振り返らないまま問いかけてきたオルシュファンに、どうだと言わんばかりに胸を張って答えると笑う気配がした。
「わぁ……」
オルシュファンが立つ場所に並ぶと、眼前に広がるのは、雲海に浮かぶような壮麗な皇都イシュガルドの姿。橙色の夕日が雲や雪山を染め上げる、美しい光景だった。
「フランセルを助けに来た時は全然気づかなかったけど……すごく綺麗だね、ここ」
「私の、一番好きな場所だ」
そう言うオルシュファンの瞳は、ひたりと皇都に向けられている。穏やかに見える表情はしかし、静かな決意を固めたようでもあった。
「……今夜、フォルタン伯爵に話をしに行く」
「……お父さん、だよね?」
「あぁ」
「……だから今日、ちょっと元気なかった?」
「……そう見えたか」
血の繋がりは、以前聞いた。あの日視た朧気な過去の情景を思い返してもなお、今の彼の心中をちゃんと理解することは難しいだろうとハルドメルは歯噛みする。親の愛情を一身に受けて育った自分では、父のことを仕えるべき主、伯爵と呼ぶ彼に、一抹の寂しさを覚えてしまうから。
「……苦手なんだ」
それは悔恨だ。互いに親と子としての想いはあるはずなのに、主と騎士としてしか関われなかったのだ、と。凝り固まってしまった関係は、互いに踏み出さない限り、そう簡単に変わるものでもない。だが、彼らの関係を直接見たわけではないハルドメルでは、ありきたりな、ただ思ったことを口にすることしかできなかった。
「……きっと、心配してると思うよ」
だが気を揉むハルドメルとは裏腹に、その言葉にオルシュファンの口元は穏やかに弧を描いた。
「――ハル、一つ……訊いてもいいか」
「ん?」
「……、……」
あの日、何か『視た』のか、と。オルシュファンは躊躇いながら口にした。
逡巡する。あの情景を、どう伝えるべきか。あるいは、伝えないべきか。オルシュファンの目は相変わらずイシュガルドを、真っ直ぐに見据えていた。
「…………いろんな人が……傷ついて、悲しんでた」
あなたも、という言葉はすんでのところで飲み込んだ。何故だか泣きそうな気持ちになって、僅かに目を伏せる。どれだけ今が明るく、強くあろうとも、奥底にある痛みが消えてなくなるわけではない。その痛みを視て、感じてしまったハルドメルは、我が事のように心を震わせる。
「……そうか」
ハルドメルの言葉は、オルシュファンにとってどう受け止められたのか。目を伏せたままではその表情を窺い知ることはできなかったが、声は静かで、穏やかだった。
「……私も、一つ訊きたい」
「なんだ……?」
ハルドメルもまた、オルシュファンと同じように躊躇った。だが、一歩進む。知っておきたいと、思うから。
「……グレイストーンは……お母さんの姓……?」
キャンプ・ドラゴンヘッドにいる者も、四大名家にしても、イシュガルドに住まう者の姓は独特の響きがある。その中において、オルシュファンのそれは少し異質だった。
自然物を表す言葉を用いるのは、ヒューラン族やルガディン族でも珍しいことではない。
それでも、『灰色の石』というそれは、あまりに素朴すぎて。
「――違う。母は姓を持っていなかった。姓まで名乗る必要も、あまりなかったらしいからな……これは庶子用の姓だ。誰の子でもない、道端の小石の如き存在……そういう意味だ」
オルシュファンは、ハルドメルの考えを理解した。だから、包み隠さず伝える。
ハルドメルの手が、雪除け用の外套の裾を握りしめた。怒りなのか、悲しみなのか。きゅっと唇を引き結んで、夕日を浴びるイシュガルドを見る。
「……私、イシュガルドのこと、あんまり知らないけど」
立派な建築物には目を見張る。クルザスに設置された占星台や対竜砲も立派であったし、厳しい土地ながら強く生きている人達のことも、すごいと思っている。でも――。
「そういうところは、嫌いっ」
オルシュファンは一瞬目を丸くしていたものの、次の瞬間にはからからと笑い始めた。付き合いは短いけれど、彼女が『嫌い』を表明するのがとても珍しいことだとわかるから。
フランセルと三人で飲んだ日も然り、普段あまり見せない一面や言葉を知れるのは、それだけ気を許してくれている証し。オルシュファンにとっては、それが純粋に嬉しかった。
「はっはっは、嫌いか。うん、お前らしい感想だな」
肩を揺らすオルシュファンに、彼女は不満げに唇を尖らせる。ただ、先ほどまであった重苦しい空気は晴れて、オルシュファンが笑ったことに安堵した。自分も表情を緩めて、夕日に照らされた友の笑顔を見る。
「まぁ『そういうところ』については否定できんが……なんだかんだと、生まれた国だ。大事な友もいる場所だ。離れはしないし、民を守りたいとも思う」
「……そうなんだ」
ハルドメルにとって、その感覚は得難いものだった。
「私ね、海の……船の上で生まれたんだって。家も一応あるらしいけど、全然行ったことないし……どこ出身かって言われても、なんて答えたらいいかわからない……イシュガルドは……ううん、まだ好きになれないけど……故郷があるのは、ちょっと羨ましい」
「生まれた時から冒険者というわけか。何者にも捕らわれない、自由なお前らしいな!」
その言葉は、すとんと心に嵌まりこんだ。いつだってオルシュファンは、ハルドメルが思いもしなかった言葉をくれる。彼の友であることが、誇らしく、嬉しかった。
「……つい話し込んでしまったな」
橙色に染められていた空は、夜の紺に浸食されている。完全に日が落ちるまでの僅かな間の空。その中で、太陽の光に負けじと一番星が輝いた。
「――ねぇシュファン……私ね、シュファンに会ってからいろんな『初めて』を経験してるんだよ」
二人の後方で見張りをしていたヤエルとコランティオが噎せこんでいたが、ハルドメルは気付いていない。聞き耳をたてている部下二人を後で問い詰めようと思いながら、オルシュファンは訊き返した。
「ほ、ほう……例えば?」
「シュファンが初めて『友だ』って言ってくれた。自分から初めて、友達になってって言えた……」
毎日大勢で同じ食事を囲んだ。皆にアップルタルトを振る舞った。友達に、贈り物をした。
指折り数えるハルドメルに、オルシュファンは頬を緩める。殆ど同じ身長だが、彼女のほうがほんの少し、目線が高い。それなのに、その言動は時折、少女のように無邪気で眩しい。
「……あと、初めて妬いてる!」
「妬いてる……?」
その言葉のイメージとは裏腹に、彼女はどこか楽しげだった。初めて知るその感情が、嬉しいとでも言うように。
「オルシュファンと、フランセルに妬いてる!」
「んん……?」
わからない、と怪訝な顔をするオルシュファンに、ハルドメルは少しはにかんだ。
「二人は、親友でしょ。お互いすごく大事で、ずっと一緒にいて、相手のことなんでも知ってて、心から信頼し合ってる……だから羨ましい」
親友だと、胸を張って言えるし、心からそう思っている。ただ、改めてそうやって言葉を並べられると面映ゆいものだと、オルシュファンは口元を隠すように拳を当てた。やはり彼女の言葉は、時々素直すぎる。
「――初めて、思った」
海色の瞳は、輝く一番星をとらえている。風に揺れるように瞬く光から、ゆっくりとオルシュファンに視線を戻して、微笑んだ。
「誰かの『一番』になってみたい、って」
オルシュファンに向いた視線はだが、やはり恥ずかしそうにすぐ空へ戻される。はにかむ彼女の横顔を、オルシュファンは黙って見つめていた。
「だけどね、二人はお互いが『一番』でしょ? 私はそこに入れないから、羨ましくて妬いてる。……あはは、なんか恥ずかしいこと言ってるね?」
「――ハル」
照れ隠しのように伸びをするハルドメルの名を呼ぶ。いつしかすっかり日は落ちて、辺りは濃い夜の気配に満ちていた。新月のせいで、お互いの表情すらわからないほど。
「……お前の言う通り、フランセルは一番の親友だ。私を救ってくれた……かけがえのない、唯一無二の大事な友だ。だが……」
魔物の声も、風の音すらも聞こえてこない無音の中で、ただ、互いの息遣いとオルシュファンの声だけが空気を震わせた。
「お前もまた私にとって……かけがえのない……唯一無二の、大事なひとだ」
「……ほんと? ふふ、嬉しいな」
笑うハルドメルはしかし、やはりフランセルが一番だと知っている。
そしてそれは、オルシュファン自身が誰よりも知っている。だからこそ。
「……そろそろ行かねば折角の料理を食いっぱぐれてしまうな。身体も冷えただろう」
「このくらい平……っくしゅ」
「それ見たことか。ヤエル、コランティオ! チョコボを連れてきてくれ」
なぜか物凄い速さでチョコボを連れてきた二人は、ただただ黙ってチョコボを引き渡した。
「……必ずイシュガルドに入れるようにするからな。期待して待っているがイイ!」
「うん、期待してるよ、我が盟友オルシュファン殿!」