聖竜との対話は、失敗に終わってしまった。
そもそもの前提が間違っていたのだと、信じてきたことは幻想だったのだと、真実を知らされたイゼルは失意の底に沈む。それでも、邪竜の侵攻は食い止めなければいけない。迷っている猶予などなく、イゼル以外の三人は邪竜の居城を目指す。
暴風が吹き荒れる竜の巣に入る、その足としてガーロンド・アイアンワークスが作るマナカッターの完成を待つ間、ナナモ女王に関する情報が入ったとタタルから知らせが入った。暗殺に関わった侍女を追い詰めたところで――暗躍していたロロリトが姿を現し、真実が語られたのだ。
「私は、クリスタルブレイブを解体しようと思う」
黒幕であったロロリトと、ラウバーン達の『和解』によって、暁の血盟や英雄への汚名は雪がれた。
帝国が新皇帝の元で動き出す懸念もある中、ナナモ女王が目覚めたウルダハは新しい体制づくりを始めようとしている。砂蠍衆の話し合いに立ち会った後、石の家に向かうチョコボキャリッジの中でアルフィノは新たなる決意をハルドメルに打ち明けた。
裏切られ、利用され、瓦解した組織。それを作り上げたのは紛れもなくアルフィノ自身。
それを終わらせるのもまた、アルフィノ自身だ。キャンプ・ドラゴンヘッドに転がり込んだあの日とは比べるまでもない、強くなったその姿にハルドメルは目を細める。その決意を最初に聞かせてもらえるのもまた、嬉しく思いながら。
「道化の『クリスタルブレイブ総帥』は卒業だ。これからは暁の血盟員のひとりとして、学び、戦い、歩んでいくつもりさ」
今後の動きも含めて一通り語ったところで、アルフィノは一息入れる。少し気恥ずかしそうに頬をかくのは、彼にしては珍しい、年相応の姿だった。面と向かって決意を語るのは恥ずかしいのだと言いながらも、アルフィノはハルドメルを真っ直ぐに見た。
「……でも、ハルにだけは聞いておいてほしかったのさ。君という存在が、今の私にとっては、ひとつの目標だからね」
「私が?」
「あぁ。そういう風に思われるのは迷惑だろうか?」
「うぅん、私でいいのかなってちょっと思っちゃうけど……でも嬉しいよ、すごく!」
自分よりも小さな友の決意を、心から嬉しく思う。ハルドメルはいつかのように隣に座るアルフィノにハグをした。アルフィノは恥ずかしそうにしたものの、やがてその大きな背に腕を回す。温かなその抱擁は、いつだって皆に安心と元気をくれるのだ。
「……私ね、ずっとしっかりしないとって思ってた。アルフィノとタタル、二人とも私が守らなきゃって」
でももう、大丈夫だね。そう言う彼女に、アルフィノは頷いた。ずっと守ってもらっていた。これからはもっと、ハルドメルの、仲間の力になるのだと思いながら。
「君がいつも支えてくれたように……私も、君が辛い時に支えられるようになる。今はまだ、頼りないかもしれないが……きっと」
「うん!」
「俺達は、まだまだ、あんたについていくつもりだぜ」
石の家に残っている隊員達に解散を告げにきたアルフィノは、彼らが今でも掲げた理想を信じ、手を差し伸べてくれることに心打たれた。ウ・ザル・ティアのように非難の言葉を投げかけられることも当然覚悟していた。否、非難されるべきだと思っていた。だというのに。
「皆の捜索は、任せてちょうだい」
「この手の仕事は忍びの得意とするところだ」
「クリスタルブレイブに参加したこと、これっぽっちも後悔なんてしてないよ!」
「……アルフィノ」
「……す、すまない……」
ハルドメルの優しい声に、堪えきれなかった雫が頬を転がり落ちるのをアルフィノは慌てて拭った。もう涙は流すまいと決めていても、人の温かさの前にはどうにも難しいものだ。
「……いつだって、祖父の言葉は正しかったと思わされるよ。最も辛い時に共に歩んでくれる者こそ、真の友だと……こんなにも多くの友がいてくれたのだな……」
鼻をすすり、目を赤くさせながらも、アルフィノは微笑んだ。ハルドメルもまた笑顔で返せば、アルフィノはもう一つの言葉を思い出す。
「こうも言っていた……『助けられる人が目の前にいるときに、我が身を案じて助けぬというのは怠惰というもの』……ハルはいつだって、困っている誰かに手を差し伸べてきた……だからこそ君は、私の目指すべき目標なんだ」
「そんな大したことじゃ……って言ったら怒られちゃう? あはは……でも嬉しい」
その大きな手は、ついつい優しくアルフィノの頭を撫でる。しみついてしまっている手癖を、しかしアルフィノは甘んじて受けた。それは彼女の親愛の証しだから。
「ハル、アルフィノ」
「ん……? あれ、ウ・ザルにアレンヴァルド!」
「イシュガルドでも大活躍してるらしいな、ハル。こっちもこそこそしなくてよくなったから、石の家再起のために来たんだ」
「いつからいたの? 声かけてくれればよかったのに」
「……本当はハル達のすぐ後に来てたんだけど、話始まって入りづらくてさ」
アレンヴァルドと言葉を交わし、再会を喜びながらも僅かに緊張した空気は、砂の家でのウ・ザルとアルフィノのやり取りがあったせいだ。じ、と視線を合わせる二人だったが、あの時のような剣呑さは薄れていた。
「話は聞こえていたようだね……」
「これから何を為すか見ていて欲しいって言ったのは、お前だろ」
「あぁ、そうだ。今やっと、一つ終わらせることができた」
ウ・ザルは一つ息をつく。それは呆れでもなければ失望でもない。強いて言うならば、そう、僅かな安堵。
「……何言ってんだ。今始まったばかりだろ。しっかりしろよ『アルフィノ』」
「……あぁ! ここにいる皆の信頼に応えられる男になれるよう……前へと歩み続けるよ、『ウ・ザル』」
二人の会話を訊き、ハルドメルとアレンヴァルドは互いに視線を合わせて、微笑んだ。
『今後の動きについてリオル達と話があるから、先にイシュガルドに戻っておいてくれ』
そう言われ、ハルドメルはオルシュファンに貰った黒チョコボを走らせ雪に覆われた坂を上っていた。
汚名は雪がれた。嫌疑は晴れた。それを真っ先に報告しなければいけない人がいる。誰よりも信じて、手を差し伸べてくれた友がいる場所へ。
「た、隊長大変です!」
「何事だ、ドラゴン族の襲来か !?」
「それが!」
「シュファン !!」
壊す勢いで開けられた扉の向こうから雪が舞い込む。見張りの兵士が伝えるより先に入ってきた大きな身体はあっという間に部屋に駆け込み、オルシュファンを抱きしめた。
「……ハルさんがすごい勢いで坂を上ってきます……と言いたかったですが……あの黒チョコボ、速いですねぇ……」
おやおやと笑うヤエル達をよそに、オルシュファンは驚きながらも飛び込んできた友の身体を抱きしめ返した。
「おおっ !? ハル !! いつの間に帰ってきたんだ! ……あぁ、わかる、わかるぞ……旅をして一段と逞しくなったお前の肉体……そこから迸る力を…… !!」
「やったよシュファン !!」
喜びを露わにしたハルドメルは少し身体を離して、オルシュファンに満面の笑みを見せた。
「嫌疑が晴れた! もう隠れなくていいんだよ! エオルゼアでも、普通に歩けるよ!」
「っそうか……そうか !! やったなハル !! あぁ、漸く潔白が証明されたのだな…… !!」
我が事のように喜ぶオルシュファンは、友の身体を力いっぱい抱きしめる。ハルドメルもまた負けじと抱きしめかえして、喜び合った。
「シュファンが助けてくれたからここまで来れたんだよ……本当にありがとう……」
「何を言う。私は場所を与えたに過ぎない。全てはお前が真摯に行動してきた結果だ。本当に……よくやったな」
少しだけ濡れた目元を擦って、ハルドメルは笑った。その横でヤエル達も微笑んでいる。
「ハルさん、ついに濡れ衣を晴らしたのね! 追っ手が来たら喜んで応戦するつもりだったけど……本当に良かった!」
「私達も嬉しいよ、ハルさん」
「ヤエルさん、コランティオさん、ありがとう!」
ハルドメルは二人にもハグをする。先ほど飛び込んできた見張りの兵士は砦中にその吉報を知らせ、皆が祝福しに来てくれた。いつだって、キャンプ・ドラゴンヘッドの皆は温かく、優しかった。この大きな恩を返せるとしたら、そう。この戦争を止めることくらいなのかもしれないと、ハルドメルは思う。
「旅から戻ったばかりだろう? フフフ、どうだ、今夜くらいゆっくりと……」
「……ううん、準備ができたら、またすぐドラヴァニアに行かないと」
オルシュファンは残念そうに肩を竦めたが、その眼差しは友を案じる優しいものだ。
――次に会えるのはいつになるのか。そう考えた時、ハルドメルはもう背筋を正していた。
「……私はエスティニアンさんと一緒に、邪竜を討ちに行く」
周囲がどよめく。ハルドメルや蒼の竜騎士の強さを知っていても尚、邪竜の恐ろしさを思えば不安になるのだ。
オルシュファンもまた、強大な敵に立ち向かう友を見送ることしかできないことを歯痒く思っている。片眼を失っても七大天竜の力は恐ろしく強い。千年もの間イシュガルドを苦しめ続けている存在を前にして、ハルドメルはいつも以上に『帰って来られないかもしれない』可能性に震えた。
「だから、行く前に一つお願い。私ともう一度、手合わせして」
「……ハル」
「このままじゃシュファンの勝ち逃げだよ。気になって、邪竜との戦いに専念できない」
ふふ、と悪戯っぽく笑ってから、真っ直ぐ蒼の瞳を見た。僅かに戸惑いが見え隠れするそれに、ハルドメルは懇願するように頭を垂れる。
「どうか、私と一本手合わせ願いたい。我が友、オルシュファン・グレイストーン」
微かに戦慄いたオルシュファンの唇は、しかし緩やかに弧を描いた。起こりえる別離。その恐れを押しのけて、大切な友の願いを、そして自身の願いでもあるそれを受け入れる。
「その申し出、受けて立とう。我が友、ハルドメル・バルドバルウィン」
フランセルがその話を聞きつけ、ドラゴンヘッドにたどり着いた時。戦う準備を終えた二人が向き合い、周囲の人は固唾を飲んで見守っていた。以前のようなお祭り騒ぎではない、どこか厳かな、神聖な儀式のようで。
「本気で行くから、本気で来てよ」
「フフ、今までは本気でなかったとでも?」
「まさか! でも『遊び』は混ざってたでしょ? お互いに」
「あぁ、そうだな」
親友との手合わせは、この上なく楽しかった。いつまでも続けばいいのにと思うくらいに。だからお互い、少しでも長く続けられるように、本気でありながら僅かな『遊び』があったことは否めない。だが今日は、今度こそ、ちゃんとした『結果』を出すために。
コランティオの合図で、火蓋が切って落とされる。
とん、と軽やかなステップでハルドメルの身体が前に踏み込む。模擬戦用の木剣が盾とぶつかって鈍い悲鳴を上げた。しっかりとした造りではあるが、壊れはしないかと見ている者が不安になるほど、力強い一振りだ。
「……本気で、こないとッ、怒るよ!」
剣を振るいながら、ハルドメルが叫ぶ。オルシュファンの手が微かに迷ったのは、以前の模擬戦で友を傷つけたからだ。だがそれも一瞬のこと。本気の彼女と戦える喜びは筆舌に尽くし難く、どうしようもなく心が躍った。
「あぁ……ッ! 行くぞハル!」
どちらが勝っても良かった。だが勝利を譲る気はお互いになかった。二人はどちらも負けず嫌いで、強い相手と戦うのが好きだった。今までで一番白熱したぶつかり合いは、見る者全ての目を釘付けにする。
気合い一閃。オルシュファンが吼え、斬撃が襲い掛かる。盾で受ければ衝撃で後ろに押し返された。踏みとどまり、もう一度前へ。既に体勢を整えているオルシュファンへ突っ込む。
『超える力』に邪魔をされたあの日を、二人は同時に思い出す。だが、何故だか今日は『絶対に大丈夫だ』という確信もまた、二人にはあった。だから迷いはない。互いに持てる全ての力と技で、勝利せんとぶつかり合った。
木剣が地面に落ちる音は、驚くほどに軽い。
二人の乱れた呼吸の音だけが聞こえる中で、ハルドメルはふわ、と破顔する。
「……っ……わたしの、勝ちッ!」
「……ふ……ははっ……参ったッ……参ったぞ、ハル……!」
それを合図にしたように、わっと周りから歓声と拍手が溢れた。互いに抱き合い、健闘を称え合う。こんなに気持ちの良い戦いは初めてだと、心が満たされるのを感じながら二人で笑った。
手合わせの熱狂が少しずつ落ち着いてきている中、フランセルを交えた三人でオルシュファンの淹れたローズマリー入りの紅茶に舌鼓を打つ。オルシュファン手ずから育てたというのだから驚きだ。
本当は早く皇都に戻り、マナカッターの調整を確かめなければいけない。だが今は、ほんの少しだけ、友と語らうことを許してほしかった。
「すごいね、こんな寒い場所でも育てられるんだ」
「鉢植えでも育てられると知ってな。フランセルに頼んで苗を取り寄せてもらったのだ!」
「母は花が好きでね、庭の手入れも自分でしていたんだ。その関係で懇意にしている花屋があって……いいものを送ってもらったよ」
すっきりとした、爽やかな香りが特徴のそれは、紅茶とブレンドすることで程よくまろやかになる。淹れ方も学んだらしいオルシュファンは、自信を持って紅茶を振る舞った。
「……実は父にも少し、コツを教えてもらった。フフフ、私が紅茶の淹れ方を聞くことに大層驚いていてな、お前達にも見せたかったぞ」
「仲良くやってるんだね」
「お前のお陰だ……そうそう、エマネランとアルトアレール卿にも実験台になってもらったぞ……弟は、香りがあまり好みではなかったらしいが……兄は、悪くないと言ってくれた。腕を上げたから、また振る舞いに行かねばな」
『兄』と『弟』。その言葉をオルシュファンが使ったのを初めて聞いて、ハルドメルは表情を綻ばせる。少しずつでいい。緩やかに変化する関係が、我が事のように嬉しかった。
「……ハル、本当に行くのかい?」
邪竜討伐の話を聞いてから口数が少なくなっていたフランセルが、不安を乗せた声色で訊ねる。心から身を案じてくれている友の気遣いを嬉しく思いながら、ハルドメルはしっかりと頷いた。
「行くよ。止められるなら、止めないと」
「……キミは、この国の人間じゃない。キミが命を賭して戦う必要なんてないはずだ」
ハルドメルは手元のカップに視線を落とした。ゆらゆらと揺れる琥珀色の液体に映る自分の姿は、微かに微笑んでいる。
「……イシュガルドのことは……ううん、嫌いなところもあるよ。でもね、私の大好きな友達がいる国だから。お世話になった人が沢山いるから。私にとってももう、大事な場所なんだよ。だから、私にできることをしたい。それじゃ、ダメ?」
「……時々は、待つ方の身にもなってほしい、かな」
苦笑いするフランセルに、案じるばかりが友ではないとオルシュファンが諭した。
オルシュファンもまた、待つしかできない我が身の立場をもどかしく思いながら、彼女を送り出すことしかできないけれど、それでも。
「イシュガルドに招かれてお前は幸せだったのだろうかと、お前が西方へ旅立った日考えていた。祖国の諍いに巻き込んでしまっただけではないかと」
「シュファン……」
「だが……杞憂だった。お前はどんな場所でも、どんな困難でも、受け止め考えて、立ち向かっていける。乗り越えていける。そして最後は、笑顔で帰ってきてくれる。そうだろう?」
「……そうだよ! だから、信じて待ってて、フランセル」
「……もう……本当に強いんだから、キミ達は……」
僅かな語らいの時は終わり、ハルドメル達は建物から外に出て、抱き合い別れの挨拶をする。砦にいる人達も離れた場所から声をかけてくれたり、手を振ってくれていた。またここに戻ってくるのだという想いを新たにして、オルシュファンに向き直る。すると彼の手から、一つの小さな袋が手渡された。
「あまり多くはできなかったのだが……乾燥させたローズマリーも作っているのだ。料理にも使えるのだろう? 役立ててくれ」
「すごい! ありがとうシュファン! 大事に使うよ」
友からの贈り物を、宝物のようにそっと鞄にしまう。
「そろそろ行くね……本当にありがとう。シュファン、皆も」
「あぁ」
真っ直ぐに向けられた蒼の瞳は、いつだって澄んだ空のように綺麗だ。
「……本当はいつだって、お前を留めておきたいものだが……フフ、お前は旅をしてこそ、その輝きを増すからな」
「帰ったら、旅の話たくさん聞かせてあげるよ」
「もちろん、楽しみにしている。この砦はもうお前の家なのだ。……いつでも帰ってこいよ、ハル」
言葉に、詰まる。目の奥が熱くなって、誤魔化すように笑って、頷く。
じゃあ、と背を向けて、待たせている黒チョコボの手綱を握ろうとして。
「――シュファン……ッ」
もう一度彼に向き直り、その身体を抱きしめた。驚いた彼の手がいつかのように宙を彷徨った。
「ねぇ……本当に、わかってる……?」
「ハ……」
「私の気持ち、ちゃんと、伝わってる……?」
湿った声が震える。砦中の人がそれを見ていた。誰もが言葉を忘れ、その光景に見入っていた。
「私、本当に……ッ」
傍にいたメドグイスティルとニヌ婦人が手を取りあい、小さく、微かな黄色い声を上げる。
「本当に、感謝してるんだよ……!」
――あぁ、なんて彼女らしい。見ていた全員が、そう思ったに違いない。
ぎゅうぎゅうと、少し苦しいくらいに抱きしめてくる。その温かさを感じながら、オルシュファンはその言葉を聞いていた。
あなたがいなかったら、飛空艇は見つからなかった。
あなたがいなかったら、私達は雪の中で凍えるだけだった。
あなたがいなかったら、私は今でも、友達なんてできてなかった。
「私に……帰ってこられる、居場所を、くれた……」
故郷と呼べる場所がないのだと、いつか話した。そんな彼女にとって、先のオルシュファンの言葉がどれほど嬉しいものであったのか。
「だから……ちゃんと、わかってよ……本当に……」
本当に、ありがとう。
涙の滲んだ瞳で、震える声で、それでもハルドメルは身体を離し、少しぎこちない笑顔を見せた。
ただ聞くばかりのオルシュファンをもう一度抱きしめて、その肩に顔を埋める。
「……取るに足らない、道端の小石なんかじゃない……」
オルシュファンの肩が震える。いつだって彼女は、オルシュファン達が慣れてしまったそういうものを悲しみ、怒ってくれた。
「世界で一番、最高に、イイ騎士で」
その優しさが、何よりも。
「世界で一番、大好きな、私の親友」
オルシュファンは目を伏せた。宙に浮いていた手を、その背に回す。温かくて、満たされている。海に揺蕩うというのはきっと、こんな心地なのだろう。
「……ハル。我が友、ハルドメル・バルドバルウィン」
想いを込めてその名を呼ぶ。ハルドメル。古ルガディン語で『優しい海』。
時には嵐のような激しさを見せるところも、人を温かく受け入れるところも、その名の通りだと、ずっと思っている。
「わかっている……わかっているとも。……あぁ、感謝してもしきれないのは、こちらの方だと言うのに。お前はいつも、私よりずっと多く、それを伝えてくるんだ」
あの日、自分がされたように。その背を優しく撫で叩く。腕の中の身体が小さく震えて、肩口に温かいものが触れた。
「ありがとう、ハル。世界で一番、強くて優しい、我が友よ。またしても人のために困難に立ち向かうお前と共に行けないことが、こんなにも悔しい。だが……」
腕の力が強くなる。どうかこの人を想う気持ちが、その身に宿り、ほんの少しでも守ってくれればと思いながら。
「いかなる困難も、決してお前を挫かせることはできない。立ちはだかる壁があっても、必ず誰かが手を差し伸べる」
どんな場所であっても、どんな困難であっても。その身が築いた信頼が、どこへだって運んでくれるだろう。オルシュファン自身がいつだって、そうしたいと思っているように。
「……っ……み、見ないで、よ」
「……ダメだ」
身体を離そうとオルシュファンが肩を押せば僅かに抵抗したハルドメルだが、構わず押してくる強引さに負け、腕の力を緩めて赤くなった目元を擦った。
オルシュファンの左手が顔に触れる。その指先は、右目よりも少し上。微かに痕が残る場所に触れた。オルシュファンがつけてしまった、忘れ得ぬ傷痕。それが見えるように、深い海の底と同じという、紺の髪を少し避けて。
ハルドメルのほうが、ほんの少しオルシュファンより背が高い。恰好がつかないな、なんて内心で苦笑しながら、オルシュファンは少しだけ背伸びをした。
「……お前の旅路がいつだって、最良のものであるように」
温かくて、少し乾いた、柔らかな感触。
その傷痕に口づけられて、目を丸くしたハルドメルに微笑んだ。
「無事を祈っている」
僅かな間呆けていたハルドメルは、やがてオルシュファンにつられるように微笑む。小さく何度も頷いて、万感の想いを込めてその名を呼ぶ。
「シュファン、オルシュファン・グレイストーン。私も……あなたと、あなたの大事な人達が、いつも笑って、幸せでいられるように」
少しだけ上を向いて、その額に口づける。照れ臭くてはにかんだら、オルシュファンも同じような表情をしていた。
「……願ってる。そうなるように、頑張ってくるよ」
「……あぁ、気を付けて、ハル」
「……いってきますっ」
身体を離して、あとはもう振り返らない。
「行くよ! フリニーフェダル!」
古ルガディン語で名を付けた黒チョコボに飛び乗って、風のように走り出す。よく鍛えられたそのチョコボは、主を乗せて雪原を駆け、あっという間に見えなくなった。
しん、と静まり返った砦の中で、オルシュファンの一声が大きく響いた。
「お前達いつまで呆けている! 仕事に戻れ!」
それに異を唱える者は当然おらず、皆そそくさと日常に戻っていく。それを見届けると、オルシュファンは笑って執務室に戻った。
「……ふふ、妬けるね」
「何の話だ」
書類に目を通しているオルシュファンの傍で、フランセルは笑う。妬けるなんて言いながら、その表情はちっともそんな気配をしていない。そういう所がハルドメルと少し似ていた。
「ちなみにそれ、逆さだよ」
「む?」
指摘され、手元の書類をよくよく見れば、確かに逆さになっている。心ここに在らずという自分に気付いて、オルシュファンは肩を竦めて書類を机に投げ捨てた。くすくすと笑うフランセルに苦笑して、一つため息を吐いて頬杖をつく。
「……困ったものだな、フランセル。あぁ、実に困った」
「何が困ったんだい? 我が友オルシュファン」
走り去ったその姿を思い返しながら、オルシュファンは全く困った様子のない笑顔で言った。
「……たった今、送り出したばかりだというのに……もう会いたくなってしまったぞ」
「……それは僕も……きっと、この砦の皆が思っているよ」
「フフ、あいつは人気者だからな」
未だ温かく、柔らかな感触が残る額にそっと触れながら、オルシュファンはただ友の無事を祈った。