エスティニアンの手によって残る眼を抉り取られた邪竜ニーズヘッグは、雲海へと消えていった。――終わったのだ、千年続いた永きに渡る戦争は。その立役者である、ヒトには過ぎた力を持つ二人はしかし、喜びも安堵も感じていない。
「浮かない顔だな相棒。嫌疑も晴れた今のお前が邪竜狩りを成したと知れたら、ますます安泰だろう」
「……本気で言ってる? エスティニアンさん」
「……悪い、俺もまだ気が立っているな。だがそろそろ『さん』付けはやめてくれ。むず痒くてしょうがない」
「……努力、します」
エスティニアンが肩を竦める。漸く宿願である邪竜狩り、復讐をその手で掴み取った彼は、当事者だからこそハルドメルよりも浮かない表情をしていた。
ずっと教えられてきた偽りの歴史。聖竜から聞かされた真実。それらと照らし合わせても話の筋が通らない、手中にある二つの眼。隠された何かを知るために、二人は再び聖竜の元へ向かっている最中だった。
「……フレースヴェルグの言うことが本当なら、最初の被害者はドラゴン族の方だよ」
「同情してるのか?」
「違うよ。違う……と思う……。だけど……ニーズヘッグが人間をたくさん……エスティニアンさんの家族を殺したのも事実で……」
「……」
大切な家族を奪われた。そのせいで憎しみに囚われたのはニーズヘッグもエスティニアンも同じだ。誰が悪いと言われたら、最初に罪を犯したトールダンと、それに仕えた騎士達だろう。少なくとも、二人が現状知り得る情報で判断するならば。
だがこの戦争は千年続いた。続いてしまった。真実は覆い隠され、悲しみも憎しみも増えるばかり。漸く終わったと思っても、本当にこれでよかったのかという思いが募るばかりで。
「……やるせないって、こういうこと、なのかな」
エスティニアンは答えなかった。答えられなかった。誰よりも復讐を望んだはずの自分自身が、ハルドメルの言うやるせなさを感じているのだから。
返事がないのをハルドメルが気にすることはなく、そっとエスティニアンの横顔を見て、表情を緩めた。
「……でも、とりあえず」
「ん?」
「……お疲れ様、エスティニアン。無事でよかった、お互い」
刺し違えてでも、復讐を成し遂げるつもりだった。この命は全てそのためだけに研ぎ続けていた。だからだろうか、その言葉をかけられるのは、何とも不思議な心地だった。
戦争の始まりは、フレースヴェルグがニーズヘッグに眼を渡したことだった。
ウルダハの時と少し似ていると、ハルドメルは頭の片隅で思う。
何が始まりで、誰が悪かったのか。いくつもの意図、虚偽、真実が絡み合って、事態は複雑化していく。絡み合った糸をほどくように、一つ、また一つ手にとって。そうして見えてくるものは、ただただ悪意だけでこうなったわけではないという、『やるせない』事実だ。
歴代教皇が真実を隠し続けたのもまた、悪意があったからではない。だが真実を知ってしまった以上、見過ごすわけにはいかないと立ち上がる者達がいる。そしてその者達――友のためにハルドメルもまた、剣を取る。
「……こんな時になんだけど、シュファンとまた一緒に戦えて嬉しいよっ」
夕日の差し込む廊下を走りながら、横にいるオルシュファンに声をかける。彼もまたハルドメルと同じように微笑み返し、力強く頷いた。
「無論、私もだ。並び立ってこれほど昂り、これほど誇らしく思える友はお前以外いない」
立ちはだかる神殿騎士を制し、教皇の身柄を確保せんとその姿を探す。既に行ける場所は限られている。最上層、氷天宮。その場所を目指しながら、美しい庭園も平時であればゆっくり見て回れたものをなどとオルシュファンが冗談を言うのは、イシュガルドの父とも呼べる教皇に盾突く行為にさすがに緊張するからだろうか。その表情は僅かに硬い。
「帰ったらまた、色んな話をしよう」
それを紛らわせるかのように、ハルドメルは終わった後のことを口にした。友の言葉に、オルシュファンは再び頷く。約束はいつも尊く、希望となって胸に宿る。
「旅の思い出でも、私への不満でも、なんでも聴かせてくれ」
「あはは、一日じゃ足りなさそう!」
共にいればいつでも笑い合えた。共にいれば、どんな苦境も乗り越えられた。苦しい戦いの時、いつも真っ先に駆けつけてくれた。
「危ないっ!」
『それ』に気付くのが、ほんの僅か、彼が早かっただけだ。
その光を視界に捉えた時、ハルドメルは直感した。
それは、これまで培ってきた経験と、その輝きとは正反対の禍々しいエーテルを感じたが故の、直感。
あれを受けたら、彼は、
「シュファン駄目ッ――――」
たとえその言葉が伝わったところで、オルシュファン・グレイストーンという人が退くわけがなかった。
たとえその盾に罅が入り、退かねば砕け散るとわかっていても。
たとえその盾が無かったとしても。
その身を挺して友を庇おうとするのが、オルシュファンという人だった。
それが、ハルドメル・バルドバルウィンの、世界で一番、大切な友の生き方だった。
くずおれた彼の周りに他の人達が駆け寄る。皆何事かを言っているのに、彼女の耳には何も届かない。誰が見ても致命傷だった。何より彼女は、あれを見た瞬間に、その先を理解してしまっていた。
何もできない。何もできない。あんなにも沢山のものを与えてくれたひとの、手を握る事しか、できない。
無意味なことだとわかっていながら、その魂が離れぬように、手を引き寄せる。駄々をこねる幼子のように首を横に振れば、今にも消え入りそうな声が名前を呼んだ。
聞こえない。何も聞こえない。彼の声以外は。
「無事……だったのだな……」
その指先が僅かに動いたのに気付いて、ハルドメルはその手を顔に寄せた。
力なく動く指先が、そっと右目上の傷痕に触れる。祈るように。
「英雄に……悲しい顔は似合わぬぞ……」
英雄扱いなんてしてこなかったのに。いつだって『友』として傍にいてくれたのに。
こんな時に、どうして。
「……ばか」
漸く絞り出したその言葉に、オルシュファンが微かに肩を震わせた。笑った、のだ。
そこでやっとハルドメルは、彼が冗談のつもりで言ったのだと気付いた。
「フフ……やはり、お前は……笑顔が……イイ……」
『シュファンが、そんなだと……悲しくなっちゃうよ……』
かつて自分自身が言った言葉が頭を過る。ハルドメルが願ったように、オルシュファンもまた、いつも、皆が笑っていることを望んでいた。
ただ、笑ってほしいだけなのだ。
「……、っ……」
きっと邪竜討伐に行く前の、あの時以上に下手くそな笑顔だっただろう。
それでもオルシュファンはその表情を見て、微笑んだ。
(あぁ、ほんとうだ)
その目には、いつか彼女が話したのと同じ色が映っていた。
口惜しいとしたら、それが朝日ではなく、夕日であることくらいだったけれど。
夜の紺と、太陽の朱、正反対の色が混ざり合って。
ちいさな海の水面に、きらきらと光が反射している。
舐めたらきっと、塩の味がするのだろう。
その景色が。
(ほんとうに、)
そこに浮かぶぎこちない笑顔が。
(――きれいだな、ハル)
その静寂がどれ程の長さだったのかを言える者はいない。
それを破ったのは、アイメリクだった。指導者として人の上に立つが故の、意志だ。
「……教皇は、去った」
「……はい、ですが、今すぐ動かせる飛空艇は……」
「……一先ず、被害状況を……ここからも一度、出なければ」
その視線が、静かに横たわる友を見る。誰もが悲痛な面持ちをする中で、唇を噛み締めていたアルフィノが顔を上げた。
「……行こう、ハル……オルシュファン卿も……家族の、元へ……っ……」
びく、とハルドメルの肩が震える。アイメリクが付き従う神殿騎士達に頷くと、彼らがハルドメルとオルシュファンに近づこうとした。
「……待って、アルフィノ」
その声は、周囲が思うよりずっとしっかりとして、アルフィノは僅かに瞠目した。騎士達も思わず足を止める。
「私にやらせて」
「……ハ、ル……」
「私が、つれていく」
お願い、と。呟く彼女は、その目に焼き付けるかのように、友の顔を静かに見ていた。
アルフィノは僅かに目を伏せた後、アイメリクに首を振る。アイメリクの手が神殿騎士を制し、彼らもそっと後ろに下がった。
ハルドメルの腕が、オルシュファンの身体を横抱きに抱え上げる。立ち上がった拍子に彼の片腕は力なくだらりと垂れ下がり、ひゅ、と息をのんだ。
魂ごと引き裂くような痛みが、失われていく体温が、現実を知らしめてくる。
アイメリクがそっとその腕を持ち上げ、胸の上で組むようにした。ありがとう、と小さく礼を言って、ゆっくりと、一歩、また一歩踏み出す。
――こんなに、重かった、だろうか。
石の床を歩く音が、静かな回廊に響いている。
そこから先、どうやって、どんな経路でフォルタン家まで戻ったのかを、ハルドメルは覚えていない。
ただ、その腕から重みが消え去った時、取り返そうとするように腕が空を切ったこと。
自分の中の何もかもが、空っぽになってしまったような――。
その空虚な感覚だけは、覚えている。
どこかでずっと、誰かのすすり泣くような声がしている。
何よりも、フォルタン伯爵の慟哭が、いつまでも耳から離れない。
一刻も早く教皇達を追わねばならない。とは言え、ハルドメル達は教皇庁での激闘を終え、そして、大切な友を失ったばかり。
あの後伯爵に代わり、休むように言ってくれたアルトアレールの言葉の後押しもあって、放っておけば今にも飛空艇に乗り込みかねない彼女を何とか部屋に入れた。
『……蛮神と戦うことは、私ができることの一つです。私にできることは、やります』
蛮神の力を得た教皇達の討伐をアイメリクに依頼され、彼女はいつものように返事をした。自分にできることならやる。それが大切な友の、大切な人達や国を守るためならなおのこと。
疲れているはずなのに、彼女はそんな素振りを見せなかった。どころか、いつも以上に強い意志を宿した目に、アルフィノは酷く不安を感じる。だからこそ、一度休むようにと強く言ったのだ。
大丈夫、休むよ。そう言った彼女を見送ったものの、どうしても不安がぬぐい切れないアルフィノは、寝ていたら申し訳ないと思いながらも真夜中に彼女の部屋の前に立った。
一瞬躊躇い、それでも小さくノックをした。部屋の中で微かに物音がして、扉がそっと開かれる。
「……アルフィノ? どうしたの? ……眠れない?」
「…………」
手元のランプが照らし出す彼女は、いつものように優しい眼差しでアルフィノを見ている。
それだけのことなのに、どうしようもなく胸がかきむしられるようだった。
「……君が、心配なんだ」
「……ごめんね、心配かけて。でも大丈夫だよ、私は大丈夫」
しゃがんだ彼女の腕がアルフィノを抱き寄せる。いつもは安堵するその温かさがなぜか、刺すように痛い。大丈夫と繰り返された言葉が、自分自身に言い聞かせているようで。
「ハル……」
「……明日からまた、戦いになるよ。だからアルフィノもちゃんと休んで。アルフィノがいないと、私すぐ怪我しちゃうから」
「……ッ……ハル……!」
僅かに声を荒らげたアルフィノに、ハルドメルは驚いて固まる。その大きな身体を、アルフィノは力いっぱい抱きしめた。
「……辛いなら、ちゃんと頼って、くれ……私も……私だって、君の……仲間の支えになりたいんだ……!」
「アル、フィノ」
辛くないわけがない。二人が格別の親友であることは明らかだった。それなのに。
「……ありがとう、アルフィノ。すごく、嬉しいよ」
アルフィノは唇を噛む。守られ、助けられてばかりではなく、仲間の助けになりたいと思うようになった。それでも今はまだ――否、友を失った直後だからこそ、なのか。
彼女にとって、アルフィノとタタルは護るべき大切な仲間なのだ。失ったら今度こそ、耐えられなくなるような。
その仲間を前にして、弱った姿を晒したくない。その意思が言葉の端から感じ取れて。
「……明日は朝早いよ。大丈夫、ちゃんと休むから」
ね、と優しく言われ、アルフィノはとうとう、引き下がるしかなかった。それは、優しい拒絶だった。
「……夜遅くに、すまない」
「ん、大丈夫」
「……必ず、教皇達を止めよう。全力で君をサポートする」
「うん、ありがとう……」
「……おやすみ、ハル」
「……おやすみ、アルフィノ」
静かに扉が閉められる。
与えられた部屋に戻った後、アルフィノは一筋だけ耐えられなかった涙を零した。
――悔しい。こんなにも悔しいのは初めてだった。
自分の力ではまだ、彼女を支えるには足りない。あまりにも、足りない。そのことが、こんなに悔しいなんて。
(……必ず)
いつか、彼女が安心して頼れるくらいに。守られなくてもいいくらいに。きっとこの先も、己の無力を感じるたびにそう思うのだろう。
(強く、なりたい)
――扉を閉めた後、遠ざかっていく気配を感じながら、ハルドメルはずるずるとその場にへたり込んだ。
「……大丈夫」
言い聞かせるように、呟く。
「……私は、大丈夫だよ」
為さねばならないことがある。だから、それまでは。
――あぁ、でも。
「……ごめんね、アルフィノ」
呟く声は、微かに震えていた。