41.隔絶された草原で

 広大な草原を、びゅうと風が吹き抜けていく。青々とした草の香りと、決して豊かとは言えない大地に生きる力強い命の息吹を感じて、ハルドメルは鼓動が大きくなるのを感じた。何せ今目に映っているのはほんの一部で、これ以上に広大な土地がまだまだ続いているというのだから。

 ゴウセツとユウギリが使えるドマの国主、ヒエンを連れ帰るべく、ハルドメル達はアジムステップに足を踏み入れていた。『再会の市』と呼ばれる市場はちょっとした集落の様相である。
 アジムステップに暮らすアウラ・ゼラの者達は基本的に、季節や土地の状態によって住む場所を変える遊牧民だ。故に住居には組み立て、解体ができるゲルと呼ばれるものが用いられていた。にも関わらず、ここ再会の市に建てられたゲルは、家屋の基礎のような、しっかりとした台座の上に建てられている。この市場が外部の者にも開かれ、この場所に長く根を張り続けられてきたのだということが推察できた。
 ボーズが美味いよ! ショルログもおすすめだよ! という誘惑をなんとか振り切りながらヒエンの手がかりを探す。ここに来るまでの間にナマイ村でもらったおにぎりは食べてしまった。だからこそだろうか、そこかしこで肉と香辛料のスパイシーな香り漂う再会の市は中々に過酷な場であった。あの柔らかで甘みある米と合わせ食べたらどれ程美味なのか――思わずお腹が鳴りそうな思考を追い出して、ハルドメルは聞き込みを続ける。

 その中で、ハルドメルはモル族のシリナと出会った。ヒエンのことを知っていると言う彼女から情報を得るため――というのももちろんあったが、何やら困った様子である彼女に手を貸そうとするのは、ハルドメルにとって当然の選択だ。
(すごい! 綺麗な弓さばき)
 頼まれた霊樹の根を採集した後シリナを探すと、ちょうど魔物を仕留めるところだった。その細腕から放たれた矢は吸い込まれるように魔物の急所を貫く。
「あっ、ハルドメルさんおかえりなさい。そちらは大丈夫でしたか?」
「大丈夫です! シリナさんも怪我はないですか?」
「はい、このくらいなら私にも……」
 そう言いながら、シリナは慣れた様子で霊樹の根を魔物から採集した。思わず感心していると、シリナは少し不思議そうに首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「いえ、弓も上手いし、手慣れてるなぁと思って」
「そんな……オロニル族やドタール族の方と比べたら……」
「謙遜しないでください! 今どうやって根を採ったんですか? 私も一応採ってきましたけど、少し千切れちゃって……これでも大丈夫ですか?」
「あぁ、ありがとうございます! 大丈夫です! これはですね、引っ張る前にこの繊維の部分に切り込みを入れて……」
 謙遜していたシリナだったが、ハルドメルが持ってきた霊樹の根にぱっと表情を輝かせた。教え方も分かりやすく、草原に生きる者達はこうやって誰かに教えられ、教えて来たのだろうか、と想いを馳せる。
 教えてくれたことに礼を言うと、シリナもまたアジムステップ流なのだろう感謝と祈りの言葉を紡いでくれた。いい人だなぁ、と思っていると、ふと視線を感じてハルドメルは顔を上げた。霊樹の根を持って店主の元へ行ったシリナをよそにきょろきょろと辺りを見回しているところへ、ちょうどリセ達が合流する。
「おーい! 何か手がかり見つかった?」
「――もちろん!」

 ハルドメル達はシリナからヒエンと出会った経緯と現在の彼について話を聞いた。瀕死の彼を連れ帰り手当をしてくれたモル族は、正しく命の恩人と呼ぶべき存在だろう。
「今頃はお気に入りの場所にいると思うので――あ、いますね。ふふ、あそこです」
 再会の市の外に位置する小高い崖。その上に一つの人影がある。シリナが手を振ると、その人は頷いたように見えた。逆光でよく見えないその姿に、しかしゴウセツは感極まったように小さく唸り、次の瞬間にはさあ行くぞ! と大股で歩き始める。
 大切な存在の無事を己が目で確認できたのだ。どれほど安堵しただろうか――その心情を想いながらほっとすると同時に、ハルドメルは胸の内に、真綿で締められるような息苦しさを感じていた。


 ぱち、ぱち。薪が爆ぜる音と、草原を駆ける穏やかな風の音を聞きながら、ハルドメルはシリナと話していた。
 モル・イローで皆と夕餉を囲んだ後。ヒエンとゴウセツは早々にどこかへ行ってしまい、子供達はゲルの中で語り部の寝物語に耳を傾けている。そろそろ夢の世界へと旅立っているだろう。
 同じく焚き火を囲んでいるリセは、先ほどからうとうとと舟を漕いでいた。疲れたのだろうと、話し声は少し控えめにする。
「知らないことばかりだし、すごい人ばかりだなって、旅をしてるといつも思うんだ。シリナもそう!」
 もっと楽に話してくださいなんて言われて、ハルドメルは丁寧語を控え、リセ達と同じように話すことにした。親しみを込めてシリナ、と呼ぶことも。その代わり、丁寧語が常となっているシリナには、ハルと呼んでほしいとも伝えて。
「そうなんですか? 私から見れば、ハルさんもとっても強くて……外のことを沢山知っている、すごい人です」
 ぽんと両手を合わせて早速そう呼んでくれたシリナに、ハルドメルは頬を綻ばせる。
 精密な弓術の腕を持ち、草原の知恵を教えてくれるシリナ、大怪我を負いながらも生き延び、終節の合戦で仲間を得るという壮大な計画を実現しようとするヒエン、難しいと言いながら、『国』という概念を語ってみせたリセ。例え些細なことであっても、ハルドメルには皆自分が知らないことを知り、できないことをできる、尊敬できる人達だ。
「シリナの弓だって、そんじょそこらの冒険者じゃ絶対適わない! 草原には強い人が沢山いるのかもしれないけど、もっと自信持っていいと思うな」
「ふふ……草原じゃできて当然、みたいな感じですから、そこまで言われると照れちゃいますね」
 改めて弓術のことを褒められ、シリナは少しはにかんで、青々とした草に覆われる大地を見つめる。その瞳から感じるものに、ハルドメルは覚えがあった。あの丘でイシュガルドを見つめていたオルシュファン、あちこちに魔導兵器の残骸が残るギラバニアの大地を見ていたリセの瞳も、シリナのそれとよく似ていた。
 ギラバニアでは今なお帝国軍との睨み合いが続いているのだろう。ドマにしてもアルフィノ達が手を回してくれているとは言え、いつヨツユやゼノスの命令で再び人々が虐げられるかもわからない。――そう、頭では分かっていても、まるで外界から切り離されたような草原の独特な時の流れは、不思議と心を落ち着かせてくれた。
「――子供の頃は、草原の外の世界があるなんて思いもしなかった……でも、再会の市で外の商人さんと出会うこともあって……そういう人の話を聞いて憧れて、草原を飛び出していった若者の話も、聞いたことがありますけど」
 その視線は今度は空に向けられる。そこには数多の星々が、風に揺られるように瞬いている。
「この草原はきっと世界の一部で、本当はもっと沢山の場所があるんだって、商人さんや、ハルさんみたいな旅人さんの話を聞いて時々思うんです。でも――それでもやっぱり私にはここが、モル族のことが大切なんですけどね」
 あぁ、やっぱりそうなんだ、と。ハルドメルはそこにあるものを見る。心に根差す、大切なもの。
 土地や人だけじゃない、歴史や文化、先を生きた人達との絆。
 余所者にモル族や神託を軽んじられても、自分はモル族が好きなのだと言った子供達の気持ち。
「――そういうの、とてもイイ! ね!」
 故郷と呼べる場所が無くても、今は分かる。両親、ドラゴンヘッドの皆、暁の仲間、旅を経て出会った人や土地と結んだ縁。いつのまにか、抱えきれないほど多くの大切なものがあった。それに気付き、その気持ちを理解できるようになったことが嬉しかった。教えられているのだ、旅で出会う人々に。
「はいっ。だからこの気持ちが、ヒエンさんがドマを……リセさんがアラミゴを想う気持ちと同じなら……きっと取り戻してほしいって、そう思うんです」
 優しさの中に強い意志を秘めたシリナに、ハルドメルも頷く。
 風に乗って、ヒエンとゴウセツの剣を打ち合う音と掛け声が聞こえていた。


 密かにヒエンとゴウセツの様子を見に来たハルドメルはあっさりと気付かれてしまい、ばつが悪そうに頬をかく。
「今は、心腹が知れるくらいがちょうどいい」
 そう言ってゴウセツはからからと笑う。苦笑いするヒエンに、ハルドメルはそろそろと伺うように聞いてみた。
「幼名、って確か……無事に成人を迎えられるようにって祈りを込められた名前ですよね。だから成人できたら名前を改めるっていう……」
「おぉ、西の人間にも知られているとは。もしやそちらにも似たような文化があるのでござるか?」
「いえ、昔クガネに少し滞在してた時、大人の人に聞いたことがあって」
 ほう、と感心したようにヒエンが笑った。その横でゴウセツが成る程、と合点がいったように手を打つ。
「そうか、ご両親が行商人であったな。やけに箸の扱いに慣れていると思っておったが、ひんがしの地へも来たことがあったとは!」
「ふふ、クガネまで、子供の頃一度だけ、ですけどね。……情勢は落ち着いていた頃だったんですけど、危ないからって私はしばらくクガネで過ごしてて」
 先般クガネに訪れた時、懐かしいなんて口走ってアルフィノ達に驚かれたことは記憶に新しい。
 未踏の地に足を踏み入れる時も、過去に訪れた地に再びやってきた時も、決まって『勝手にエーテライトを触るんじゃない』とよく言い含められていたことを思い出す。両親は正しかった。使えば当然お金も取られる上、子供の好奇心の前ではどこに飛んで行ってしまうかわかったものではないのだから。否、どこかにテレポするだけならまだしも、上手くエーテライトに行き着けずに地脈を彷徨うことになったら目も当てられない。
 そんな子供時代を思えば、流行病や国の情勢だけでなく普段の生活の中にいくらでも危険が潜んでいるのだから、幼名を付けて無事を祈るという風習も頷けた。
「幼名じゃないですけど、私もクガネにいる間は大人の人に『はるどめちゃん』って呼ばれたりしてましたよ」
「ほうほう! 確かに、普段呼ばれている『はる』も良いが、『はるどめ』は東方でも馴染みやすい名にござるな!」
「『春を留める』といったところか……そなたも良い名をもらったのだな!」
「……シュン坊も良い名と思いますよ?」
 ハルドメルが笑うと、ゴウセツも豪快な笑い声を上げた。ハルドメルにまで幼名を呼ばれてしまったヒエンはやや照れくさそうに肩を竦める。
「だーからそれはよせと……! 親からもらった大事な名だが、それに守られる時期はとうに過ぎた。いつまでも童子扱いはさせん!」
 言いながらヒエンは、鞘に収めた刀に手を添える。に、と笑う表情は何か悪だくみを思い付いた少年のようにも感じた。
「かくなる上はわしと勝負だ。一本取ったら、秘蔵の過去も聞かせてもらうぞ! それにそなた、先ほどのわしらの手合わせを見て少々昂ぶっているのではないか?」
 どきり。隠していたつもりのそれを見抜かれてハルドメルは動揺した。だがヒエンもゴウセツも気にした風はなく、少し安堵する。
「武器は違えど刃を扱う者同士、相対する程太刀筋が見えやすく、咄嗟の判断が磨かれるというもの! 相当腕が立つと聞いておるぞ、遠慮はいらん! 来いハルドメル!」
 期待する眼差しを受け、ハルドメルは一度、この荷を下ろすことにした。
 戦うことに高揚する。それは否定しようのない自分の性だ。
 今はただ、純粋にそれに向き合ってみよう。
「――東方の剣、学ばせてくださいっ!」

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