「おはよーハルドメルさん!」
「あっ……お、おはようっ!」
クラスメイトかつ同じ寮だった二人の女子生徒に挨拶され、少しの緊張と、声をかけてもらえた喜びとで、ハルドメルは少し上がる体温を感じながらはにかんだ。
「準備早いね! 朝食はこっちだよ!」
「ありがとうござ……あっ」
「あっはは! 敬語取れるまでしばらくかかるかな〜」
「うぅ、頑張る……!」
編入初日、初めて友と呼んでくれた人、オルシュファンに教室へと案内されたハルドメルは、初めての挨拶をしっかりとこなすことができた。
『と、友達になってもらえると……すごく、嬉しいですっ』
眉尻を下げ、そう言って微笑んだハルドメルを、クラスの生徒達の大半は好意的に受け入れてくれた。
「騎士科の人を倒したって聞いてたから、怖い人なのかな〜って皆も噂してたし、教室に入って来た時身体が大きくてびっくりしたけど……ふふ、言うことがかわいいなって。ね?」
「うんうん」
「う、は、恥ずかしい……」
初日から早速声をかけてくれたクラスメイト達と一緒に食堂へ入る。朝早い時間だからかまだ人はまばらだ。
長テーブルの上にはパンやチーズ、スープのポット等が並べられている。焼きたてのパンの香りが食堂いっぱいに広がって、ハルドメルはじわりと口内が潤うのを感じた。
「すっごくおいしそう……!」
「家政科もあるし、学園側が食事には力を入れてるからね! 食べよ食べよ!」
各々で欲しい分取りわけ、隅のテーブルに座る。徐々に人が増えてざわつき始める食堂でも、やはり物珍しさが勝るのだろう。好奇の視線が向けられているのを感じて、ハルドメルは変に零したりしないよういつもより少し慎重に食事を口に運んだ。
「や、やっぱりルガディンは皇都だと珍しいのかな」
「まぁ珍しいよね。基本的にはヒューランかエレゼンしかいないし……」
「商人さんはたまに出入りしてるけど、あんまり近くで見ることってないよね~」
「でも編入制度始まったばかりだし、どんどん新しい人が入ってきたら皆気にしなくなるんじゃない?」
「ねぇ、あれが噂の……」
「うわでっか」
「貴族に恥かかせたんだって?」
薄らと聞こえてくる会話の内容は、概ね昨日の時点でも何度か耳にしている。闘技場でのことは変に目立ってしまったとは思うが、ハルドメルは後悔していなかった。部外者であると分かっていても、あの状況を黙って放っておくことはどうしてもできなかったのだ。
「ハル! おはよう、イイ朝だな!」
「おはようハル。夕べはよく眠れた?」
「あっ……!」
声をかけられ、ハルドメルはぱっと表情を明るくした。
「おはようっ、シュファン、フランセル!」
緊張でどきどきしながらも、ハルドメルはしっかりと笑顔で応える。
初めて友だと言ってくれた、ハルドメル自らも友になってほしいと言えた人、オルシュファン。オルシュファンの友であり、ハルドメルが助けた人でもあるフランセル。
偶然にもフランセルとは同じクラスとなり、直前に出会ったオルシュファンのこともあってすぐに打ち解けた。あの日の感謝を何度も伝えてくれて、改めて彼の人の良さを知ったハルドメルは、だからこそ歳が離れていてもオルシュファンと親友なのだと納得したものだった。
放課後に改めてオルシュファンと再会した時、もっと気楽に話すとイイ! なんて言われて、ハルドメルは少し迷いながら、『シュファン』と呼んでみた。するとオルシュファンは大層喜び、ハルドメルのことも『ハル』と呼んでくれた。それがまたハルドメルには嬉しくて、初日からすっかりと二人に心を許してしまっている。
「ベッドはふかふかだったしよく眠れたよ……あれ、運動着……?」
「うむ、朝の鍛錬をしていてな! 朝日が昇るより前からする鍛錬はイイぞ! 人が少ないから集中できるし、何より清々しい朝の空気がイイ」
「僕も付き合ってもらってるんだ。剣は苦手だけど……いつまでもやられてばっかりで、オルシュファンに護られるわけにはいかないからね」
あの日の生徒を恨むのではなく、あくまでも自己鍛錬に励む二人を、ハルドメルはますます友として尊敬した。
「ハルも今度どうだ? ゼーメル家の者を打ち破ったという剣技、是非とも私も浴びてみたいものなのだがっ」
「う、うん……! 私も手合わせしてみたい……!」
やや興奮気味に話すオルシュファンは拳を握りしめて破顔する。そのまま放っておくといつまでも話していそうだからと、フランセルに腕を引かれながら去っていく姿を、ハルドメルは笑って見送った。
「いまの、オルシュファン・グレイストーン先輩、だよね?」
「うん! 昨日校内で迷った時に助けてもらって……」
事情を聞いたクラスメイト達は納得した顔で頷く。
「私達が入学するちょっと前にゼーメル家が改修したばかりって聞いてたけど、渡されたのが古い方の地図だったのかな」
「うん、そうみたい。案内してくれる予定だった先生に後で平謝りされちゃって」
「部活の先輩も、工事の度に教室の場所とか通路とか、内装も結構変わるから気をつけてって言ってたよ~」
学園の評議会を務めているという四大名家。その一つであるゼーメル家は古くから騎士団の武力だけではなく、建築技術の高さでも名を馳せているのだという。修繕、改装、改築など、最終的には学園側や評議会が決めるものの、工事のほぼ全てをゼーメル家が担っていることも多い。
「まぁそのせいで、本家だけじゃなくて態度が大きい分家とかも結構いるんだけどねっ」
周囲に聞こえないよう、小声でこそりと話してくれるクラスメイトにハルドメルも苦笑した。態度の大きい貴族――編入試験の日に戦った生徒もゼーメル家の遠縁だったというから、つい納得しそうにもなるが。
「でも貴族だからとか、どこかの家だからって皆そういうわけじゃないでしょ?」
「まぁね! ゼーメル家のボンボンの許嫁になってるハルア・ステラティア先輩なんかはいかにも淑女! って感じで、私達平民生徒にもすっごく優しいし~」
「フォルタン家の人とか、フランセルくんのアインハルト家も皆紳士的で温厚だよね。ってそうそう」
何かを思い出したように一人がまた声を潜める。ハルドメルもつられるように顔を近付けると、彼女はにやっと笑って見せた。
「いきなり『シュファン』とか『ハル』呼びなんて……初日から随分仲良しじゃな~い?」
「え?」
きょとんとした顔でハルドメルは首を傾げる。その表情は何かおかしいのだろうかと言わんばかりだ。
「だって友達になったし、シュファンもフランセルも気楽に話してくれてイイって」
「え~それだけ~? ホントにぃ~?」
尚も食い下がるクラスメイトだったが、ハルドメルの様子にどうやら本当にそう思っているようだと悟ると、苦笑しながら前のめりになっていた体勢を戻した。
「あっはは、そっかそっか。でも二人がハル呼びなら……私達もいいかな?」
「! もちろん! うれしい!」
今までは、両親と行商の旅をしていたから。縁を結ぶ間もなく移動をしていたから。そう思っていたのに。
(踏み出してみて、よかった)
こうして今、勇気を出して自分の世界を変えようとするハルドメルを、受け入れてくれる人達がいる。この学園に来てよかったと、心からそう思った。
「わ、闘技場大きい……! 設備も立派……」
放課後、事前にオルシュファンに誘われていたハルドメルは一人闘技場へと足を運んでいた。家政科ではあまり使われることはないが、騎士科の授業だけではなく、剣術部や弓術部といった運動部が各々の技術をより高めるための訓練場でもある。部活動時間では大半が彼らに使用されているが、一般生徒用に解放された木人エリアもあり、ハルドメルはそこへ向かう。相変わらず視線を感じはするが、物珍しいからという理由が大半であることは分かったのであまり気にしないようにと意識の外に追いやった。
「シュファンはまだ来てない、か……」
訓練をしていた他の生徒に挨拶すると、木人の一つを借りて軽く打ち込む。母に習った剣技は旅の中で少しずつ鍛えられ、しっかりとハルドメルの身についている。
「っ……!」
ふと息を呑むような気配を背後に感じて振り返ると、感極まったような熱い眼差しを向けているオルシュファンがそこにいた。ハルドメルが剣を収めると歩み寄り、がしりと両手でその手を握りしめる。
「わっ」
「素晴らしいッ……! なんと美しい身体のしなり! 剣捌き! 思わず見惚れてしまったぞ!」
「あはは、大げさだなぁ。騎士科の人はもっとすごいでしょ?」
「なんの! お前も負けず劣らずだ! 見ればわかる。安全な旅ばかりでもなかったのだろう……その中で培われた力がしっかりと身についている。お世辞などではないぞ、本当に」
あまりに真っ直ぐに褒めてくるものだから、ハルドメルは体温が上がるのを感じながら微笑んだ。
――その様子を、揶揄するように嗤う者達がいた。
「おい見ろ、異種族の女にも粉をかけているぞ。さすが妾腹だ、節操がないな」
「実に開明的なフォルタン家らしいじゃないか。おっと、フォルタン姓は名乗れないんだったか?」
耳に飛び込んできたその声に思わずハルドメルの表情が強張る。胸の奥が酷くざわつき、無意識にオルシュファンの手を握り返した。妾腹、フォルタン姓を名乗れない。その言葉で、彼らの言いたいこと、オルシュファンの置かれた状況は、なんとなくでも分かる。分かってしまった。信頼する友への、あからさまな悪意と侮辱に、まるで我が事のように――否、自分が言われる以上に動揺する。
当然、オルシュファンもそれに気付かないわけがない。安心させるように微笑んで、緩く首を振る。
「ハル、大丈夫だ。気にすることは……」
だがオルシュファンが言い切る前に、ハルドメルはぱっと手を離して声のした方へ振り返り歩き始める。へらへらと嗤っていた三人の男子生徒達も、睨め付けるようなその眼力に思わずぎょっとして怯んだ。しかしすぐに尊大さを取り戻すと、下卑た表情でハルドメルを待ち構える。
「……なんで、そんなこと言うんですか」
「おぉ……そんな怖い顔をせずに。編入生殿はすっかりその男に騙されているようだ」
「は、ハル!」
慌ててオルシュファンが止めに入るが、ハルドメルは意に介さない。初めてできた友達を侮辱された。彼女が怒るには、それで十分だった。
「私は詳しい事情なんて知りませんけどっ……シュファンは生まれや血筋で人を嗤う貴方達とは違う! 優しくてイイ人です!!」
その答えを聞いてなお、男子生徒達は大層おかしそうに顔を歪める。
「ハル、構うことはない。私は気にしていないんだ」
「私が気にするっ!」
ハルドメルにとって、こんな気持ちは初めてだった。同年代の子供達に怖がられて悲しい。手伝いを褒められて嬉しい。そういった気持ちは知っていても、こんなにも心をかき乱されるような――怒りの感情は。フランセルが貶められていた時以上に、大きく揺らめく。
「詳しい事情を知らない……それはそうだろうな。であれば騙されてもしょうがない……私達が教えてあげましょう、その男は」
「ハル」
オルシュファンが構うなと手を握っても、あくまでもハルドメルは、真っ向から彼らの視線に向き合った。
「……人が良いフリをして傷害事件を起こすような、野蛮で卑しい人間なんですよ」
「……」
僅かな沈黙が降りる。だがハルドメルの視線は、そこにある怒りは揺るがない。真っ直ぐに男子生徒達を睨め付けたまま、静かに口を開く。
「……それが事実だったとしても、シュファンは理由なくそんなことをしない」
「……」
「たった一日二日で何が分かる、って……思われてもしょうがないけど……でもっ……私はシュファンを信じる! 信じられる!」
オルシュファンが握った手を、ハルドメルは強く握り返した。その温かさに、愚直なまでの信頼に、オルシュファンは思わず眩しそうに眼を細めた。
「――うん、そうだよハル」
柔らかな声が聞こえ、全員がそちらを振り向いた。優しげな微笑みを湛えたフランセルが、ゆっくりとハルドメル達の元へ歩む。
「傷害事件、と言われているのは事実だ……でもそれは、僕を助けるためだったんだよ」
フランセルは、自身がまだ幼い頃の話をした。貴族の息子であるのを理由に、身代金目当てに誘拐されたこと。それを救い出したのが、他ならぬオルシュファンであったのだと。
「ふん、必要以上に犯人を痛めつけたのは違いあるまい!」
「返り血を浴びて悪鬼のようだったというではないか」
「そもそも誘拐事件すら、伯爵に評価されるための自作自演だった可能性も……」
ハルドメルが再び突き刺すような視線を向ければ、彼らは思わず口を噤む。彼女の信頼は何を言っても最早揺るがない。そう思わせるには十分な程に。
「確かに僕を助けてくれたことは、僕自身も心から感謝してるし、周囲も評価してくれた。でも周りの助けを待たずに行ってしまったのもあるし、オルシュファンも犯人もかなりの怪我を負ったから、しばらくの謹慎も命じられたし、大事な親善試合にも出られなかった……それで罰は受けたと思っているよ」
フランセルが微笑んで頷けば、ハルドメルも笑顔で応える。男子生徒達は思うように事が進まなかったことに舌打ちすると、心底面白くなさそうな表情で三人の横を通り過ぎる。
「後悔するぞ」
すれ違いざま、ぼそりと呟かれた言葉は確かに耳に届いた。だが、当然のように、ハルドメルには響かなかった。
「遅くなってごめん。また模擬戦があったわけじゃないよね? 怪我はない?」
「大丈夫だよ、心配してくれてありがとうフランセル。それに私の方こそ……ごめんシュファン……余計なことしちゃったかな」
後悔こそしていないが、オルシュファンの制止を聞かずに言い合いをしてしまったことは反省していた。肩を落とすハルドメルを前に、オルシュファンのいつもの賑やかさは鳴りを潜め、ただ静かに微笑みを湛えていた。
「謝ることなど何もない。お前はフランセルの時ばかりか……、私のことまで、我が事のように怒ってくれた」
「そりゃ、怒るよっ……友達のことあんな風に言われたら……! シュファン達も怒ったっていいんだよ! あんな酷いの……!」
憤り、悲しむハルドメルを見て、二人は顔を見合わせて苦笑した。揶揄も侮蔑も聞き慣れて、放っておけばいいのだと受け流すことばかり上手くなった。
表立って争っても、相手にいいように利用されることもある。お互いに気持ちや考えを理解しているからこそ、二人は表では何でも無いことのように振る舞ってきた。
けれどそこへ飛び込んできたハルドメルの言葉は、流星のように煌めいて二人の心を照らしてくれる。
「あぁ……ありがとう、ハル。ハルドメル・バルドバルウィン。貴女が怒ってくれて、私は本当に……本当に、嬉しかった。私のために、怒ってくれてありがとう」
手を伸ばし、悔しそうに握りしめられたハルドメルの拳を包むように握る。温かさに、ハルドメルは漸くふっと力を抜いて、オルシュファンを見返した。
「貴女の、一番最初の友になれたことを光栄に思う」
言葉で、温度で、胸の内を占めていた怒りの心が霧散していく。代わりに生まれ溢れてくるのは、面映ゆいような喜びだ。
「うん……うん、私もシュファンと友達になれて、よかった! もちろん、フランセルも!」
「うん、僕だってそうだよ……ありがとう、ハル。……ふふ、でもそうだな、ハル自身ももっと怒っていいと、僕は思うな」
「え?」
「何、ハルも何か言われたのか!? それはいかん、友として一言言ってやらねば!」
「え、わ、私は別に」
「ダメだよハル、僕らのことを怒ってくれるのに、自分はいいだなんて。ね、オルシュファン?」
「その通りだっ! 友に無礼を働く者は見過ごせるわけがない!」
嫌なことかあったら必ず言うのだぞ! と頼もしい言葉が嬉しくて、ハルドメルは表情を和らげて頷いた。
