5.おしはかる

 最後に会ったのはいつだったか。
 最後に会った時、どんな表情をしていたっけ。

 ーーあぁ、笑った顔が見たいなあ。

ーーーーー

 ゼノスとの戦いの最中、超える力ーーとはまた別のような、誰かの呼び声に引き寄せられるように意識を失った。目が覚めた時にはイシュガルドにいて、事の顛末を聞かされた。
「エスティニアンが助けてくれたんですね……お礼くらい言わせてくれればいいのに」
「全くだ……あぁ……それと……」
 アイメリクはとても、とても言いにくそうに言葉を濁す。何だろうとハルドメルが首を傾げると、彼は眉を寄せて困ったように笑った。
「驚かないでくれと言っても無理だろうが……エスティニアンがゼノスに一撃を加える、その隙を作った……君をかばった人がいる」
 ひゅ、と息を呑んだ。それが誰なのか、聞かなくても、わかってしまった。

 アイメリクとの話もそこそこに、急いで身支度をして転がるように病室を出た。聞いた部屋に向かおうとしたところで、曲がり角で人とぶつかりそうになる。
「ご、ごめんなさ……」
「おやおや、倒れた英雄殿を見舞いにきたものの、もうその必要もないということですかな?」
「あ……伯……エドモンさん」
 そこにいたのはエドモン・ド・フォルタンであった。ハルドメルが今まさに会いに行こうとした人の父でもある。
「あの……オルシュファン、は」
「……ご自分より愚息の身を案じてくださるなど、余りある光栄だ」
「だって……また、私を……」
 今にも溢れそうな海が、ゆらゆらと光を反射している。優しいその人の肩にそっと触れて、エドモンは微笑んだ。
「大した怪我はしていない……が、療養は必要だと。騎士団のことはアルトアレールが後を引き継ぐことになった」
「……は、い」
 彼女は上擦りそうな声を必死に抑えて、頷く。本当に、果報者だと、エドモン・ド・フォルタンは目を伏せた。
「貴女がまだ目覚めていないと知って、一度上に戻った。……恐らく真っ直ぐ家に行ったと思うが」
「……っ……私、行きます」
「……病み上がりだ、無理はしないように……」
 あっという間に離れていった彼女に、エドモンは小さく息を付く。強く、優しく、温かな人だ。あれには勿体ない程に。
「……いつまで手をこまねいているつもりなのだろうな」
 誰に聞かせるでもなくそう呟くと、杖をカツンと鳴らして歩き始めた。

―――――

 上層へと向かう道は人がまばらだ。その中を駆ければ、道行く人々が何事かと振り返る。だがそんなことはどうでもよかった。ただただ真っ直ぐにかの家を目指す。通いなれた道とその家が見えてきたところで、探す姿がその少し先、雲海を望むラストヴィジルの広場にあることに気付いた。
「――シュファン!」
 その名を呼べば、少し驚いたように振り返る。右腕は三角巾で吊られていて、心臓が潰れそうな程に痛くなった。
「……ハル、目が覚めたのだな」
 乱れた息を正すために、少しだけ返事が滞った。添え木で固定された腕が痛々しい。また熱くなる目を伏せて、開口一番。
「……私を、助けてくれて、ありがとう」
 ――それは、かつてオルシュファンが目覚めた時と同じ言葉。蒼天騎士の一撃に倒れ、生死を彷徨ったその果てに意識を取り戻した彼に向けられた言葉。
「……でも……でも嫌だよ」
 一つ、また一つと堪えきれない雫が落ちる。真っ先に伝えなければいけないのは、命を救ってくれたことへの感謝。けれどそれだけではない。言い尽くせぬ悲しみが溢れ出してくる。ギラバニアでの出来事など頭から吹き飛んで、ただ親友としての言葉。
「私の、せいで……シュファン、が、傷つくの…………やだよ……」
「……」
「シュファンが、いなく、なったら私……」
「ならばお前が斬り捨てられるのを、黙って見ていろと?」
 ハルドメルが顔を上げる。男の表情は、怒っているとも、悲しんでいるとも取れた。――覚えがあった。あの、ギラバニアでの夜に見せた表情に少し似ている。
「お前が身を案じてくれるのと同じように、私はお前を失いたくない。この身に代えてでも護りたい」
「……っ、でも」
「私は」
 僅かに語気が強くなる。夕日は殆ど雲海の向こうに沈み、間もなく世界は闇に染まる。
「私は、エスティニアン殿のように、あの男を退ける程の力はない。ウ・ザル達のように蛮神に惑わされない、お前と共に戦える星の加護もない。政や金で支援してやれるような、貴族でもない」
 左手がハルドメルの腕を掴んだ。びくりと思わず震えたのは、ただ驚いたから、なのか。
「ならば……私には何ができる。この身を剣と盾として、お前に捧げる以外に……っ」
「シュ、ファ……」
「教えてくれ、ハル……」
 掴む手の力が強くなる。ーーどうすれば、いい。
「私は、お前にとって何者になれる……? 口付けも、愛の言葉も伝わらない。気軽に抱擁されるような間柄にもなれない。お前を護りたいという想いすら否定されるなら」
 その問いに、ハルドメルは即答できない。
「シュファン、は」
 大事な、親友。大好きな親友。そう答えたかった。だができない。もう、彼がそれ以上を望んでいることを知っている。自分の中に、『親友』だけで足りるのか疑わしい物があることも。気付いたけれど、言い切れるほどに、それはまだ確たる形をしていない。ようやく掴みかけた小さなカケラを無理矢理引きずり出そうとしても、それは解けて砂のように零れ落ちる。そんな不確かなものを、彼に返すわけにはいかない。
「私、の……」

 ――オルシュファンは、その躊躇いと揺れる瞳を見て、
「……私は」
 手を、放した。
「もう、お前をただの友として見ることができない」
「…………え……?」
 小さな瞳が尚更小さく見える程、目が見開かれる。
「だから、お前も……友と思わなくていい」
(お前を犯そうと目論んだ、あの貴族達と同類なんだ)
「……、……っ……ま、待っ、て」
 オルシュファンはハルドメルの脇を通り過ぎた。
「待って、やだ」
 痛い。胸を穿った凶刃の痕が。
 裾を掴んだ手をやんわりと押しのけて、せめて微笑んで見せる。
「お前には、素晴らしい仲間も、良き友も大勢いる。だから大丈夫だ」
 私などいなくとも。
 その言葉はすんでの所で飲み込んで。
「……今夜は吹雪く。早く仲間の元へ帰るといい」
 オルシュファンは再び背を向けて歩き出した。彼女は、追ってこなかった。

 仕事がいつもより難航し、フランセルが蒼天街から家に戻る頃には夜が更けて、辺りはすっかり闇に包まれていた。寒さに手をすり合わせて帰路につく。温かな光が零れる我が家が見えてほっとするが、その奥の暗がりに、知った姿が見えて歩みを速めた。
「……ハル?」
 その人はぼんやりと雲海の方を見ていた。否、暗闇に包まれて何も見えないのだから、見ていた、という表現が正しいのかはわからない。名前を呼ばれて肩を震わせた友人は、ぎこちなくフランセルの方を見た。
「…………ル……」
 あまりに微かな声は殆ど聞き取れず、だがその眼から大粒の涙がぼろぼろと落ち始めたのは、闇に慣れた視界ではっきりと捉えることができた。
「ハル」
「……しよう……どう、しよう……フラ、……セル……わたし……っ」
 フランセルは堪らずその身体を抱きしめた。一体いつからここにいたのか。その身は氷のように冷たかった。

ーーーーー

「ただいま」
「おかえりなさいぼっちゃん……あらあら」
 その日の夜番を担当していた一人は、フランセルの乳母でもあったメイド長である。使用人の中でも昔から、とりわけフランセルを可愛がってくれていた優しい人だ。
「夜遅くにごめん、彼女をお風呂に入れてあげてくれないかな。身体が冷え切っているから……終わったら僕の部屋に連れてきて。それと、温かい飲み物も」
「えぇ、ぼっちゃんのお友達ならいつでも歓迎ですよ……まあ本当、凍った湖に落ちちゃったみたいだわ。さあさあ早く参りましょうハルドメル様」
 この家で彼女のことを知らない人間はいない。皆が可愛がる四男坊の命の恩人。ひいてはこの国の英雄でもあるのだから。
 メイド長は泣き腫らした目をした彼女を見ても、いつも通りに接してくれた。フランセルにとって、そしてハルドメルにとってもそれは、ありがたいことだった。

 アインハルト家の紋章でもある赤い薔薇は、庭園でも大切に育てられている。それを用いて作られたアロマオイルが焚かれた部屋であれこれ世話を焼かれ、ふわりと薔薇の香りを纏わせたまま、ハルドメルはフランセルの部屋へ通された。
(そういえばフランセルも……)
 その香りで、ふと出会った時のことを思い出す。友と同じ香りを纏うのは、なんだか不思議な気分だった。
「いらっしゃい。よく温まった? 紅茶を淹れてもらったから一緒にいただこう」
「……ありがとう」
 ふわふわと毛足の長い絨毯の上を歩いて、フランセルが座っているカウチソファに並んで腰掛ける。テーブルに用意されたカップを手に取りそうっと口に運べば、熱すぎないそれは飲みやすく、ほんのりとバーチシロップの甘さを感じさせた。
「薔薇の香りは緊張を和らげて、幸福感を与えてくれると言われているよ。少しは落ち着けたらいいんだけど」
「……うん、すごくいい香り」
 フランセルは、何も聞かなかった。それは彼の優しさなのか、それとも、『自分から話してごらん』という促しなのか。
「……フランセル」
「うん」
「……私」
 オルシュファンを傷つけている。あの日からずっと。
 それがわかっていながら、望む言葉を返してあげられなかった。曖昧なまま応えることはできなかった。
 黙って話を聞くフランセルはずっと隣にいてくれて、それに安心を覚えながら、あの日からのことをゆっくりと話す。
「今……暁の皆もどんどん倒れて意識が戻らなくて……シュファンまで、って……思ったらすごく、怖くて……」
 助けてもらったのに、その行為を否定するようなことを言ってしまったのだと、ハルドメルはまた少し肩を震わせた。自分がいつまでも答えられないから、愛想をつかされてしまったと。
「もう……と……友じゃ、ない……って……」
「……大丈夫だよ、ハル」
 ハルドメルの話を静かに聞いていたフランセルは、宥めるようにその身体を抱きしめて、とんとんと背中を叩いた。風呂で温められた体温を感じながら、一度目を閉じる。
「……ねぇハル……オルシュファンの見合いの話を聞いて……嫌だなって思ったんだね」
「……うん……私、嫌なやつなんだ」
 友であるなら、喜ぶべきことのはず。大切な親友のそれを応援するどころか、断ってくれれば――そう思ってしまった自分が嫌でしょうがないのに、少し身体を離して目線を合わせたフランセルは、いつもと同じ穏やかな表情をしていた。
「リセさんの話を聞いた時に違うことを思ったなら――比べて分かることがあるなら……試しに考えてみない?」
「……?」
 疑問符を浮かべるハルドメルに、フランセルは微笑んだ。いつもと同じように。
「僕は、オルシュファンの古くからの親友で……でもキミのことも同じくらい大事に想ってるし、キミも同じように、僕のことをオルシュファンに負けないくらい大事な親友だと想ってくれてる……そう自負してるよ」
「うん……」
「だったら……同じくらい大事な親友が、同じことをした時……そこに違いがあるとしたら……少し答えに近付けないかな」
 まだわからないか、或いは何かを感じ取ったのか。少しだけ、不安そうな顔をしたハルドメルの頬に手を添えた。
「……考えてみて、ハル。僕がオルシュファンと同じように、二人きりになって、突然抱きしめたら」
「……っ」
 そのふっくらとした唇を、そうっと親指の腹で撫でた。
「突然キスして」
「……フ、ラ」
「あなたを愛している」
 びく、と腕の中の身体が震えた。
「……そう言ったら、キミは」
「だ、だめっ」
「わぷっ」
 ハルドメルの手が、フランセルの口元を覆って軽く押し返した。黒い肌をこれでもかと赤く染めて、今にも泣きそうなほど戸惑って。
「き……キス……したら……だめ……」
「ふふ……しないよ、大丈夫」
 身体を離すと、強張っていたハルドメルの身体から徐々に力が抜けていく。胸を撫で下ろして息を吐く様子を見て、フランセルは苦笑した。
「……オルシュファンとは違った?」
「……」
 まだ赤くなれるのかと驚く程に頬を紅潮させて、言葉も紡げなくなってしまったハルドメルの姿を、オルシュファンに見せつけてやりたいとすら思った。
「……その気持ちを、大事にしてほしいな。キミはいつも人のことばかり考えて、自分のことは後回しになってしまうから」
「……うん」
 無意識か、自分の唇に指で触れながら、ハルドメルは視線を彷徨わせた。
「……オルシュファンは少し、頭を冷やす時間が必要だと僕は思う。キミもね。もう少し落ち着いたら、今度はちゃんと話をしたらいい」
「……ありがとう、フランセル」
 今日何度目かのお礼を言って、ハルドメルははにかんだ。フランセルも頷いて、少し悪戯っぽく笑う。
「さて……一応部屋は用意してもらってるけど……泊まっていく? それとも石の家に帰る?」
 彼女はややあってから、ぽつりと答えた。
「……帰る」
「うん、それがいい。こんな遅い時間に男の家に泊まるものじゃないよ」
「……意地悪」
「お礼はアップルタルトでよろしくね」
「……うん、わかった」
 メイド長を呼びつけて、ハルドメルを見送るように頼んだ。石の家なら、帰りはテレポで一瞬だ。心配することは何もない。

「……うーん」
 カップに残った、少し冷めた紅茶を飲みながら、フランセルは一人ごちた。
「……やっぱり平手より拳のほうがよかったかな……?」
 苦笑する。今日のことは秘密にしてしまおうと密かに誓った。これはちょっとした意趣返しだ。大切な親友を泣かせたことへの。
「でも……早く笑ってほしいよ」
 二人とも、フランセルにとって大切な人だから。
 
 空になった二つのカップを並べて、フランセルはベッドに倒れこんだ。底に残っていたバーチシロップは、驚くほどに甘ったるい。

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