あの時、パチンと叩いた手の感触は、今でもまだ思い出せるのに。
――――――
最初こそ困惑し驚いたが、人間とは逞しいもので、しばらく暮らしてみればあっという間に新しい環境に適応していった。
ここは異界――魂の行き着く場所。
スピラではグアドサラムの地でその片鱗を体験した。
死者の姿を見ることのできる場所。そこにある光景は神秘的で、幻想的で、子供の頃に聞かされたことのある、所謂天国というものと同じようなイメージを抱いた。
呼び出された死者は皆一様に優しい顔をしていた。それは生者がそう望むからだというのは、旅先で出会ったアルベド族の言葉である。
ただ、死者の幻影を見ることのできる場所。ジェクトの中で、異界とはそんな程度の認識だった。
それがまさか、こんな風に生前と同じような生活ができるだなんて、スピラの人間でも思わないだろう。
一つ違うのは、新しい命が生まれないということくらいだろうか。
シンが消え、エボン=ジュが消え、消えるはずだった夢のザナルカンドもまた、街ごとこの異界に取り込まれていた。
夢のザナルカンドでは命が生まれ人は死に、本当に存在する世界と何ら変わらない営みがあったが、異界に来てからそれらは失われたらしい。
その割に混乱が少なかったのは、祈り子達が最後にここやスピラの知識を分け与えたからか、そのように『夢見た』からなのかもしれない。
全てが終わり、消えるものだと思っていたジェクトの存在もまた異界にあった。
その事に驚けばいいのか、はたまた喜んでもいいものか――。
困惑はしたものの、ブラスカやアーロンという盟友に再会できたことは素直に嬉しかった。
彼らが現れたのは偶然にも、異界に再現されたザナルカンドの、ジェクトの家の傍にある海岸だった。
究極召喚をした際に命を落としたブラスカは、当然シンの近くにいたために幻光を取り込まれ、十年間眠っているような状態だったという。娘が悲願を達成し、彼女の手で送られたことを心から喜んでいた。
一人だけ十年分の時を過ごしたアーロンは、当時と変わらない姿の友二人に苦笑いした。老けただなんだと言ってくるジェクトを小突きもしたが、仏頂面の中に喜びの色があることは、二人にも分かっていた。
一頻り再会の喜びを分かち合ったところで、ジェクトが落ち着かない様子で周りを見回した。その理由を察したアーロンは眉根を寄せて首を振る。
「お前達に会う前にこの辺りを少し歩いたが……、……別の場所に出たのかもしれん」
シンに取り込まれながらも、その中枢にいるジェクトから流れてくる意思で、ブラスカもおおよそのことは把握しているらしい。一人の子を持つ親として、今のジェクトの気持ちは痛いほど分かるのだ。
「我々がこうして会えたんだ。すぐに見つかるさジェクト。私も妻を捜すつもりだし、お互い情報交換しながらやっていこう」
十年以上前に亡くなったブラスカの妻は、もう転生し新しい命として生きているかもしれない。異界では本人の意思さえあれば早々に生まれ変わることもできるという。それでも捜すのだというブラスカの言葉に頷き、ジェクトもまた家族を探し始めた。
異界に来たばかりで当てのないブラスカと、夢のザナルカンドの時に使っていた借家があるというアーロンも、暫らくはジェクトの家で生活を共にした。
当時とあまり変わらない――変わったとすれば一部の家具の配置や、トロフィーの数くらいだろうか――家の様子に、懐かしさと少しの嬉しさを覚えた。
男三人では華が無く少々むさ苦しくはあったが、十年前の旅を思い出すやり取りも悪くなかった。
やがて無事に妻を見つけたブラスカは小さな家を借り、そちらに住むようになった。アーロンも、家事をしないジェクトを見かねて時折食事を持ってきたり掃除をしに来てくれるが、自分の借家へと拠点を移した。
家は静かになってしまったが、それも家族が見つかるまでだと言い聞かせて、ジェクトは捜し続けた。
妻の情報はすぐに見つかったのだが、それは何年前に似た姿を見かけた、という程度のものばかりで、それ以上は何も得られなかった。
アーロンの話によれば、ジェクトが失踪して一年ほどして亡くなったという。ジェクトの存在は異界になかったから、転生したと思って後を追ったのかもしれない。そういう妻だった。一途に真直ぐに、ジェクトだけを見つめる可愛い女だった。
すぐに情報を得られた妻については、それ以上望めそうになかった。
できることなら家族三人で、という願いは果たせそうに無い。
今、ジェクトにとって問題なのはティーダだった。
ブリッツのプロ選手になったと聞いて、心底嬉しかった。自分と同じ道を選んでくれたことも、見つかった暁には共にプレイできるかもしれないことも、どうしようもなくジェクトを熱くさせた。
本当はプロへと導くことも、自分でやりたかったのだけれど。
『ジェクトの息子』という肩書きもあり、余計に有名なティーダならすぐに情報が見つかると思っていた。ジェクトが戻ってきたとザナルカンドでは大々的に報道されていたから、それを見てティーダの方から何かしらアクションを起すかもしれないと。
異界に来て二週間。最初こそブラスカの妻が見つかったり、ジェクトの妻の情報も少なからず得て希望を持っていた。
アーロンもブラスカも協力を惜しまなかった。それでも一週間が経ち、一日一日と時が進むたびに、絶望の色が濃くなっていく。
「……何にもわからねぇって……どういうことだよ」
悪い夢だと、空を仰いだ。
澱んだ気持ちとは裏腹に、憎たらしいほどに晴れ渡った空を睨みつける。
寝る間も惜しんで手がかりを探していたらアーロンに窘められてしまったため、仕方なく今は休息をとっている。
とは言っても、体はともかく心の方は休まりそうになかった。
「飲むか」
ウッドデッキに出てきたアーロンは、持っていたカップの一つを差し出す。受け取ると、コーヒーではなく珍しくハーブティーだった。リラックス効果のあるらしいそれを用意してくれる友の気遣いに感謝しながら口をつける。
慣れない味と香り。それでも少しは気分が落ち着いたような気がした。
「……あいつ……もう行っちまったのかな」
「……弱気だな」
肩を竦める友はしかし、その言葉を真面目に受け取る。
もしも、ここに来て、すぐにでも転生を望んだのなら――。そんな可能性もゼロではない。
「顔も見たくねぇってか」
「ジェクト」
咎めるような、諌めるようなアーロンの声に分かってるよ、とため息混じりに答えた。
憎まれて当然だと、思っている。それだけのことをした。
けれど最後の瞬間には、確かに分かり合えたと、そう思っていた。だからここに来た時は、きっとすぐに会えるし、息子と共に暮らせると都合よく思い込んだ。分かり合えただなんて、自分勝手な勘違いかもしれないのに。
「まだ、何もしてやれてねぇのによ……」
「…………」
「何も言ってやれてねぇ……父親らしいこと、なんにもやってねぇのに……」
「……憎まれているというのなら、きっと俺もだ、ジェクト」
何を言うのかと驚いてアーロンを見やるが、ゆらゆらと揺れる海面を睨んでいるだけの横顔からは何を考えているかは読み取れない。
「あいつに……ティーダに殺されたいと望んだのはお前だが……それをやらせたのは俺だ。ザナルカンドからスピラへ放り出して、逃げ道を塞いで、真実を突きつけて……お前を殺すように仕向けた」
恨まれて当然だと呟く声には濃い疲労が滲んでいた。アーロンにもアーロンなりに思うところがあったのだろう。他人とは言え十年もの間ティーダを傍で見守ってきた男だ。実の親であるジェクトよりも、アーロンの方がティーダと多くの時を過ごしている。 ジェクトと同じように、あるいはそれ以上にその身を案じているだろうことは明白だ。
彼とて連日捜し回ってくれているというのに、気を使ってもらってばかりで申し訳なくなる。
後ろ頭をかく。困った時、考え事をする時についしてしまう癖だった。多分アーロンも知っているだろう。
ティーダが見つからないのは正直堪えるが、だからといっていつまでもこのままという訳にもいかない。たまには気を紛らわせようと話題を探してみるものの、ジェクト達の間にある共通の話題は限られているから、結局はそこへとたどり着く。
「よお……あいつの……オレがいなかった十年の話、ちっと聞かせてくれや」
「話、か」
「シンの中でちったぁ話したけどよ……オレの中であいつは、ずっとあん時のまんまだ。チビで泣き虫でオレが嫌いで、ほっとけねぇってな。でもあいつは成長してた。オレの見られなかった成長とかよ、教えてくれ。おめぇから見たらあいつはどんな子供だった?」
「そうだな……」
大人になってからの十年と、子供の十年は全く違う。成長し目まぐるしく変化していくその過程を、アーロンはどんな気持ちで見ていたのか。
その長さを噛み締めるように目を閉じていた男は、ぽつぽつと語りだす。時刻は夕方に近く、穏やかな海面はオレンジ色に輝いている。
「初めて会った時は、酷く警戒されたな。お前の知り合いだと言うと、ますますな」
「なんだよそれ」
苦笑しながら時折横槍を入れる。陰鬱とした気分も、幾分かはましになった。
「お前に散々聞かされていたから泣き虫なだと思っていたが……存外、そうでもなかった。確かにすぐ泣きそうになるが、すぐ我慢してしまうんだ。本当に辛い時以外は、堪えてしまう。母親が亡くなった時も、葬儀が終わって人がいなくなるまで泣かなかった」
「…………」
「お前と似たところだってあるんだぞ。周りが暗い時、敢えて明るく振舞う……困った人を放っておけない、とかな」
ティーダを通して、自分の良い所も言われているような気がしてジェクトはむず痒くなる。十年年をとって、アーロンも随分と変わったものだと思う。
その時、きらりと。
沖合いの波間に輝くものが見えた気がした。
「……あいつが戻ってきたら、もっとちゃんと話してやれ。強がりで、甘え下手な子供だ。――泣き虫で、強くて、優しい子だ」
その言葉を、ジェクトの耳は拾わなかった。ジェクトの意識は沖で煌いた何かに集中していた。一点を、凝視する。
「……ジェクト?」
ざわりと魂が騒いだ。衝動のまま、アーロンの静止も聞こえず手すりを越えて海へ飛び込んだ。
今まで泳いだ中で、一番速いのではないかというくらい全力で水を蹴った。それなのに、なかなか距離が縮まらずにもどかしさに呻く。
どくどくと暴れる心臓は、泳いでいるからだけではない。
「ッ……!」
やがてはっきりと見えた姿に心が震えた。魂が歓喜した。
それは紛れもない、求め続けた息子の姿だった。
「ティーダ!」
距離を縮めながらその名を叫んだ。水に顔をつけたままのその姿は素人が見れば水死体にでも見えるかもしれない。けれどジェクトは大丈夫だという確信があった。そもそも異界に死という概念があるのかは分からないが、 ティーダはブリッツの選手だ。そう簡単に溺れるはずがない。
それでも不安がゼロというわけではない。ようやく手が届く距離にくると、震えそうになるのを叱咤してその体を抱き起こす。
「おい……!」
目を閉じたままの顔を軽く叩くが反応はない。口元に耳を近づけると、安定した呼吸を感じた。全身から力が抜けそうになるのを堪えながら、その体をゆっくりと抱きしめた。
温かい。
漸く、この手に抱くことが出来た。取り戻せた。目頭が熱くなるのを堪えながら、息子の体を抱えなおすと我が家に向かって泳ぎだした。
ウッドデッキではアーロンが遠目にも分かるほど驚いているのがわかった。大きく手を振るとはっと弾かれたように手すりから乗り出していた体を引き、慌しく家の中へと戻っていく。恐らくタオルを取りに行ったのだろうが、 その手はカップを持ったままで、冷静なあの男がいかに動揺しているかを如実に表していてつい笑ってしまった。
いつでも海に出られるようにと作った開き戸からウッドデッキへ登り、ティーダの体を引き上げる。
ちょうどアーロンが大きなバスタオルを持ってきたところで、それでティーダの体を覆いながらバスルームへ運ぼうかという時だった。
僅かに瞼が震え、ジェクトは動きを止めた。ぐっと息を詰めて見守る。
小さな呻きと共に震えは大きくなり、ゆっくりと開かれた瞼から海色の瞳が現れた。
妻に良く似たそれは焦点の定まらない様子でゆらゆらと揺れていたが、幾度か瞬きしてやがて驚いたように見開かれ。
「っ……、う、わあっ!?」
「あだっ」
突然手を突っぱねてきたため、避けられずに顎に当たりジェクトは呻いた。
そんなジェクトのことはお構いなしに、ティーダは逃げるように後ずさって忙しなく周りを見回す。
「何すんだよイテェだろうがっ」
「ッ」
ジェクトの言葉にびくっと大げさなくらいに体を震わせるティーダに首を傾げる。確かに、ジェクト達もここへ来たその時は驚き困惑したものだが、そんなに怯えたような目をしなくてもいいではないか――。そう思いかけて気付く。様子がおかしい。
「おい……?」
「だ、」
ティーダが見つからなかった二週間。これ以上の苦しみなどないと思っていたジェクトは、その言葉に新たな苦痛を与えられた。
「誰……だ……誰だよアンタ達、はっ!」
思考が止まる。先ほどまで喜びに満ちていた心が、一瞬にして冷え切ってしまったような感覚。
「ここどこだよ……何で、おれ……は……、……」
怯え、ジェクト達を半ば睨むように見ていた瞳が急に力を失い、ゆらゆらと頼りなく揺れだす。もうその目はジェクト達を見ていない。ゆっくりと項垂れたティーダに、漸く僅かながら動き始めた頭で、躊躇いながら近づき膝をついた。
「……ティーダ……」
「……れは……」
どうして、と思わずにはいられなかった。
「……おれ……は……誰、なんだ……?」
どうして自分でなくティーダばかりが、と。