「あ、豚肉が安い。今日のメインこれでいい?」
「おぅ」
カートを押しながらティーダについて歩く。あれやこれやと商品を放り込むティーダを見ながら、ジェクトは気付かぬうちに笑みを零した。
ティーダが見つかってから一週間が経った。
「だ、だって本当に似てねーと思ったんだ」
似てないだなんだと騒ぐティーダを軽く小突くと唇を尖らせてそう訴えた。
そもそも、シンの中で時が止まっていたジェクトは見た目も精々三十代半ばがいいところだ。一応年齢的に有り得なくはない……とは言え、ティーダくらいの年齢の子供がいるなんて思いつきもしなかったのだろう。不貞腐れてしまったティーダを宥めるのにジェクトはしばらく苦労した。
結局あれからティーダの記憶は何も戻らないままだ。
だが、収穫がなかったわけではない。
「なー、何が食べたい?」
「つってもなあ、豚肉使う料理って例えばなんだ?」
「んーと……」
ティーダはよくこうして食べたいものを訊いてくる。それはジェクトの好みのものを作ってやろうという気持ちもあるのだろうが、ティーダ自身、何が食べたいかという欲が薄いからでもある。
ティーダには記憶がない。だが、知っていることはあった。
例えば地名を訊ねれば、名前は知っているがどんな場所かまるで分からないと言う。料理の名前や作り方を知っているが、どんな味なのか分からないと言う。味が分からないのだから、食べたい物も思いつかないのだ。
「記憶はないけど知識はある……ということかな」
体を動かすことが専門なジェクト達と違い、頭脳派であるブラスカは記憶喪失に関する文献を調べながらそう語った。
「でもよぉ、それなら『父親の名前はジェクト』とか覚えてるもんじゃねぇのかな」
「まあ、今の理屈で言えばそうなんだけどね……」
一般常識的な知識はあるが、今までに体験した出来事や人に関しての記憶がなくなったらしいティーダは、ジェクトの家で暮らし始めても特に不自由を感じてはいないようだった。
「記憶……『思い出』だけがすっぽり抜け落ちた……という印象だね」
ブラスカのその言葉が、妙に脳裏に焼きついて離れない。
ブラスカと話している間、外で軽く体を動かしているアーロンの横で真似をし始めるティーダは、記憶が無いなどと信じられないくらい明るく笑っていた。
ティーダがジェクトの家で共に暮らすことになって、アーロンも再びジェクトの家に泊まるようになった。
それは家事のできないジェクトにティーダを任せておけないということもあったし、いざという時のためのストッパー役という意味もあるのだろう。
信頼されていないようで不満ではあったものの、ことティーダに関しては自制できると断言できない自分を理解しているためジェクトも文句は言わなかった。
家事の殆どはアーロンがやると言っていたのを、ティーダが半分やらせてくれと申し出た時には驚いたものだったが。
「全部任せて何もしないってのは悪いしさ」
記憶もなく不慣れなことも多いだろうと、スクールには行かせていないし、働いてもいない。いくら親子と言われたからとて、ただ養われているだけの居候のような状態なのが心苦しいのだろう。
掃除も洗濯もできると言い、料理もできるのだと実際にそれらを作って見せられれば無下にも断れない。アーロンも四六時中家にいるわけではないから、ティーダが手伝ってくれるのはありがたい申し出だった。
共に暮らすようになってから、驚くほど早くティーダは生活に馴染んでいった。
まだ時折遠慮を見せることもあるが、アーロンともジェクトともよく話し、よく笑う。
今はジェクトのトレーニングに付き合ったり街に出かけて記憶を思い出すきっかけがないかとぶらついたり、こうして買い物をしたりするくらいだが、いずれはスクールにも行ってみたいと話していた。
ジェクトにとって幸いだったのは、ティーダがブリッツのことを覚えていたことだった。
ルールなどを覚えているだけでプレイした記憶はない、とティーダは話したが、それでも充分だ。
たとえ記憶がなくとも、できるかもしれない――ずっと夢見ていたことが。そう思うだけでジェクトの心は熱くなった。
トレーニングをする時にティーダを誘い、一緒に泳いでジェクトはほぼ確信した。そのスピードも持久力も、明らかに常人のそれを超えている。きっと訓練し経験を積めば以前の勘を取り戻して、すぐにでもレギュラーになれるはずだ。
海で練習しながら逸る心を抑えてティーダに接するのは難しかったが、焦ってはいけないのだと自分に言い聞かせながら少しずつティーダとの距離を縮めていった。
「結構いっぱい買っちゃったなー。ていうかそっち持つよ」
「いーってこんくらい」
ジェクトは両手に、ティーダは片手に荷物を持ちながら帰路につく。
陽が落ち始め橙色に染まる海岸線。ジェクトの少し後ろからティーダがついて歩く。砂浜では子供達がブリッツボールを蹴りながらはしゃぐ声が聞こえた。
幸せな、光景なのだと思う。
かつて自分を嫌っていた息子がこうして当たり前のように傍にいて、笑いかけてくれる。そこに妻もいる、というのは叶わなかったけれど、それでもジェクトの望んだものがそこにあった。
――だというのに、ジェクトの心の奥底から違うのだという声が、僅かながらに漏れている。そんな筈はないと自分に言い聞かせても、苦いものがせり上がってくる。
記憶のなくなった、ティーダ。
あの時交わした言葉も、触れ合った心も、覚えていない。
子供の頃にジェクトシュートを見せてやったことも、泣くぞとからかったことも、何も。
(なんで)
シンとなり多くの命を奪った。親殺しと、自分の世界を消すという背負いきれない罪を息子に負わせた。その罰だというのなら、どんな苦しみでも受け入れるだろう。でも、何故それにティーダが巻き込まれなければいけない?
(オレ一人で、いいじゃねぇかよ)
それまで生きてきた時間を全てなかったことにされて、その中で培ってきた強さも、覚悟も、全て奪われたのだ。それは、『ティーダ』という存在を殺されたようでジェクトは堪らなくなる。
けれど同時に、ブラスカの言葉が蘇る。酷く辛そうな顔で伝えられた言葉は、ジェクトにとって受け入れがたいものであった。
「記憶喪失は、外傷性と心因性によるものが多いと言われている……異界だからかもしれないが、彼は外傷がなかったから外傷性はとりあえず外す。 ……そして異界は幻光の世界。幻光というのは知識や記憶の塊のようなもの……こちらに来たばかりの時にシンの毒気にあてられた時のように記憶が曖昧になる者も少なからずいるが、それはあくまで一時的なものだ。 幻光に影響されたという可能性もなくはないが……それにしては彼の症状は重い」
「じゃあ、心因性ってのは……」
「心的外傷や強い精神的ストレスを受けた場合によるもの……彼の場合は……そう、父親を自分の手で殺めてしまったこと、かもしれない」
考えてみればそれは当たり前のことであったのかもしれない。
全てを知り、覚悟して、受け入れても、それでも親殺しという罪に、ティーダの心は耐えられなかった。そう考えれば何も不思議なことではない。
結局は自分が蒔いた種なのかと、ジェクトは我が身を呪う。
もしそれらが事実なのだとしたら、無理に記憶を呼び起こさないほうが、ティーダにとって幸せであるのかもしれない。
――だがジェクトは、無意識のうちに願ってしまうのだ。
どうか記憶が戻って欲しい。ティーダは、これまで生きてきた『ティーダ』として残された時間を過ごして欲しい。……ティーダとして、ジェクトの息子として、共にあって欲しい、と。
そう願ってしまう自分に最初は愕然とした。
シンになっていた頃は、ただ幸せであってくれと願った。
エボンジュの呪いに侵食され、いずれ自我を失うと悟った時、殺されるなら息子の手で、と望んでしまった。
消えるはずだった魂は異界へ辿り着き、息子との失った十年を取り戻したいと思った。
息子が見つからない間、彼が見つかるのならどんな苦痛だって受け入れられるとすら思った。
そして今、無事見つかった息子は記憶を失い、どうかそれが戻ってくれと願っている。
人というものは、可能性があればこうも貪欲になってしまうのか。
かつて究極召喚の祈り子になると覚悟した時は、ザナルカンドに帰ることも、息子を一流の選手に育て上げるという夢も何もかも、手放すことができたのに。
時には昔の話をしたい。自分がいなかった十年のことをその口から聞きたい。
伝えたい言葉が、ある。
けれどそれを今のティーダに言ってもきっと理解できないし、意味のないことだ。だからジェクトは望んでしまう。 忘れてしまうほどのショックを受けただろうその記憶を取り戻すことを。
「…………っ」
あまりに身勝手なその願いを打ち払うように緩く頭を振る。これでいいんだと言い聞かせる。ティーダが幸せでいてくれるのなら、記憶があろうと、なかろうと……。
「ねぇ」
「っ! な、なんだ?」
不意の呼びかけに大げさなくらいに驚いて振り返る。その反応にティーダも驚いたように目を丸くしたが、気を取り直すと少し言いづらそうに口を開いた。
「あのさ……」
それは今日までにも何度かあった流れだった。その度に何かとタイミング悪く邪魔が入ったり、ティーダが尻込みして結局また今度、なんて言葉で濁されたりもした。
が、今日は意を決したように顔を上げる。いつもの困ったような表情をしているのかと思ったが、今は凪いだ海のような、静かで真摯なものだった。 ティーダはいつも、記憶やかつての自分に関係する話をする時、思い出せないのが申し訳ないとでも言うように、眉を寄せ曖昧な表情をしていたから。
「何て呼べばいい、かな」
「……何をだ?」
「……あんたのこと」
ひゅ、と息を呑んだ。
あの日以来、ティーダはジェクトを呼び捨てにすることも、さん付けすることもなくなった。呼びかける時は先ほどのように「ねぇ」や「あのさ」だけだった。
呼び方についてジェクトが口を出したことは、最初の日以来一度もない。けれど、親子なのだと知ってからずっとティーダの中で気にしていたことだったのだろう。
ジェクトとて、いくら親しげに接してくれたとしても、記憶のないティーダに自分を父親として見ろなどとは言えない。
だから、呼び方も何でもいいのだ。
――そのはずなのに、心の奥底から漏れ出す囁きがある。
かつてのティーダのように、呼んで欲しいのだと。
「っ……」
がりがりと頭をかきながらティーダの真摯な瞳から視線を逸らし、前を向いて歩き出した。
「別にいいだろ、呼び方なんて、なんでも。好きに呼べ」
誤魔化すように荷物を持った腕を挙げてひらひらと手を振る。
これでいい。
記憶のないティーダに、親子という関係を押し付けるのは、駄目だ。
「おやじ」
足が、止まる。
呼吸することも一瞬忘れて、世界すら停止してしまったような錯覚さえ覚えながら、ジェクトはゆっくりと振り返った。
ティーダは、ふと表情を崩して、いつもの困ったような顔ではにかんだ。
「……当たり?」
「…………」
言葉が出てこなかった。ただその呼び声が頭の中でリフレインする。目の前にいる存在が、またシンの中で出会った息子と重なる。
「じゃ、おやじで」
そう言ってティーダがすたすたと歩き始めてしまっても、ジェクトは動けなかった。
「何ぼーっとしてんだよ。まだ暑いんだから、食材悪くなるって。早く帰ろ」
おやじ、と。
呼びながら笑いかける姿に、不意に目が熱くなる。
それは確かに、ジェクトが望んだ光景だった。