九:矛盾

 初めてその真紅を目にした時は、ただ、怖かった。
 心臓が縮み上がるような、息が詰まるような感覚。
 こわくて、でも。
 嫌では、なかった。

――――――

 ちゃぷんとお湯の跳ねる音がする。今聞こえるのはそれと、外から聞こえる鳥の鳴き声だけだ。
 湯船に浸かり、ぼうっとする思考のまま、少年は目が覚めてからのことを考えていた。

「ゆっくり温まるといい」
 温和そうな笑顔を浮かべる男は、そう言って着替えを置いて出て行った。
 それから十分ぐらいは経っただろうか。最初の動揺や混乱は一先ず落ち着いたものの、不安なのは変わらない。
 少なくとも目が覚めた時よりは冷静になった頭で、現状を整理してみる。
(ここは、どこ)
 先ほどちらりと聞こえた会話で汲み取れたのは、自分を抱えていた男がこの家の持ち主だということだった。
 地名などは言っていなかったが、目を覚ました場所も、この浴室の窓から見えるのも、覚えのない景色ばかりだ。
(おれは、だれ)
 これが問題だった。
 記憶喪失、という単語は知識にあったが、自分がまさにその状態だなどとはあまり考えたくないし、信じたくなかった。
(あの人達……だれ……なんだろ)
 温和そうな男、サングラスをかけた隻眼の男、それから、上半身に刺青のある大男。
(……あの人……)
 風呂に入らされるまでのやりとりを思い出す。
 あの時は混乱していたが、落ち着いて振り返ってみると、気がつくこともあった。
(あの人……なんで、あんな顔してたんだろ……)
 刺青の男は、終始自分だけを見つめ、そして苦しそうな、悲しそうな表情のままだった。
(ティーダ……って、名前のことかな)
 男は自分を見てそう声をかけていた。
 もし名前だとすれば、彼とは知り合いだということだろうか。
 記憶を探そうとしてみても、そこにはぽっかりとした空洞があるだけで何もわからない。
(どういう関係、なんだろ)
 あんな表情を向けられては、何か特別な間柄だったのでは、ということは容易に想像がついた。
 けれど、親子にしては若く見えるし、兄弟にしては歳が離れすぎている。どちらも絶対に有り得ないという年齢差ではないのだが。
(……そもそも似てなかったし……)
 他の二人にしても、血が繋がっているにしては似ていない気がする。だから家族というのはあまり考えられなかった。
 ――似てないと言っても、つい先ほど鏡の前に立って初めて少年は自分の姿を認識したばかりだ。更に言ってしまえば、男か女かという意識すら服を脱ぐまですっぽり抜け落ちていた。
 どれだけ酷い記憶喪失なんだと陰鬱とした気分になりながら、では何故あの男があそこまで悲痛な面持ちをするのかを考え、脳裏を過ぎった答えに思わず狼狽した。
(……まさか……こ……いびと……とか……)
 考えて、赤面する。
(いやいやいや、飛躍しすぎだろいくらなんでも!)
 考えを打ち消すようにふるふると首を横に振る。
 同性間での恋愛があるのは知っているが、一般的ではない。
 しかし家族でないとすれば、あんな表情を見せるほどの間柄はあまり思いつかなかった。

 ――悲しみ、憤り、焦燥、埋もれるように見え隠れする微かな喜び。
 激しい感情のせめぎ合う瞳を思い出す。
(なんであんな顔……するのかな)
 その表情を思い出すだけで、ぎゅう、と胸が締め付けられる。
 僅か数十分前に出会ったばかりなのに、その表情が、存在が脳裏に焼きついて離れない。
(笑ったとこ、見たいなぁ)
 そう思ってしまうのはやはり、彼と何か特別な関係があったからなのだろうか。

 いくら考えても答えが出ないことに、諦めにも似た気持ちを抱きながら少年は顔を上げた。
(今は……しょうがない……今は……とりあえず、受け入れよう)
 少しだけ、楽になった気がした。

「う……嘘だぁぁ!!! ぜんっっっぜん似てねぇー!!!!!」

 だから、少年が素っ頓狂な声でそう叫んでしまったのは仕方のないことだった。

――――――

「あーそうそう、この試合の後飲みに行った時によー」
「うん」
 昔のブリッツの試合映像を二人で見て、話を聞きながら相槌を打つ。
 共に暮らし始めてまだ三日ほどだが、記憶が戻る兆候は全くない。微塵もない。
 この時点で、少年は自分の記憶を半ば諦めかけていた。
 否、その存在を疑ってすらいた。
 ここまで何も思い出せないのは、記憶を忘れたのではなく、そもそも最初からなかったのではないか、と。
 生活に必要な知識も料理のレシピすら知っているのにそれはないだろうと思ったこともあるが、思い出が何一つないというのは気味悪く不安であった。
 確たる過去のないまま、言われるまま『ティーダ』として暮らしてきた。彼らが嘘をついているとは思えないが、自分が本当に『ティーダ』であるとは、どうしても思えなかった。
 だから少年はこう考えたのだ。記憶ではなく、以前のティーダの人格そのものが死んでしまったのではないか。今ここにいる自分は、つい先日生まれたばかりの新しい人格なのではないかと。
 ここまで何も思い出さず、何をしてもぴくりとも記憶にかすりもしないのだから、記憶を持っていた人格が死んでしまったと考える方がまだしっくりくる。
 記憶喪失というだけでどこかフィクションじみているが、人格が変わったなどという事態もまた同じくらい現実離れしている気がする。

 ――どちらにせよ、少なくとも今の自分は彼らの知っている『ティーダ』ではないのだと、そう少年は思っていた。
 ただ、それを彼に……ジェクトに話すことはできないけれど。

 今もまた、本人は無意識なのかもしれないが、話をしながら時折こちらの様子を窺っている。
 何か思い出さないだろうか、反応しないだろうか――。そんな想いの篭った眼差しにどうしていいのか分からない。
 記憶がない以上、下手に話を合わせるわけにもいかない。それをすれば、きっと彼は傷つくだろう。いや、怒るのだろうか。
(父親、か……)
 ジェクトはティーダの父親だ。そう教えられた時は大層驚いたし、戸惑いもした。
 何せ似てないから家族ではないんだろうと思っていた上に恋人かもしれないなんていう斜め上な考えまでもよぎっていたのだから。
 よく考えたら、再婚相手だとか連れ子だとか、似ていなくとも家族である可能性はあったというのに。

 ――いっそ家族でなければよかったのに。
 ――『ティーダ』でなければ、よかったのに。

 そう思うことすら、ある。
 他人であれば、自分もジェクトも、こんなに思い悩まずに済むのに。

「ぁ」
「ん?」
 ちらりと横目で盗み見れば、目が合ってしまった。何だか気恥ずかしくなって画面に視線を戻す。ちょうど、ジェクトシュートという技が決まったところだった。
 技に自分の名前を付けるなんて子供みたいだ、と聞いた時には笑ったものだったが。
(すごい……)
 素直にそう思った。相手のタックルをものともしないタフさ、むしろそれを押し返すほどのパワー、休むことなく動けるスタミナ、あっという間にゴール前まで切り込むスピード、そして技の数々。
 全てにおいて、圧倒的だった。
 ゴッドだキングだと持てはやされるのも納得せざるを得ない。そしてこんな父を持つ『ティーダ』のことを、心底羨ましいと思った。
 そんな自分が可笑しくて笑ってしまう。『ティーダ』は自分であるはずなのに。
(でも……)
 それでもやはり、思う。何を言われても、見せられても、お前はティーダなんだと言われても、それを実感できない。まるで他人事のようだ。
 胸が痞えたように、苦しい。ジェクトのことを深く考える時はいつも、何だか不安で落ち着かなくなる。

「ティーダ」
 呼ばれて暫らく気付かなかった。
 その名の意味を理解し、はっと顔を上げたとき、ジェクトは苦笑していた。そこには僅かな疲労が見える気がして、少年の胸を締め付ける。
 この三日の間に、彼らの事情はある程度聞いていた。
 異界のこと、スピラのこと、十年間離れ離れだったこと、母親はすでに亡くなっていて異界にもいなかったこと。
 それから、ようやく再会できて、本当に嬉しいということ。

 ――だからこそ、少年は分かってしまう。
 十年間離れていた息子にようやく会えたのに、相手は綺麗さっぱり何もかもを忘れてしまっていることへの、落胆、絶望。何も思い出さない事への不安や苛立ち。それらを見せてはいけないと、気丈に振舞うことへの疲れ。
 そんな顔をさせたいわけではない、のに。
(笑って欲しいな……)
 思えば、最初に出会った時も同じことを考えた。
 苦しそうに笑う姿は見たくない。彼らの間にある絆がどれほどのものかは想像することしかできないけれど、思い描いていたものとのギャップに苦しむジェクトを、少しでも楽にしてやりたい。
「熱心に見てたけどよ、興味あるか? ブリッツ」
 ああ、と合点がいく。ティーダはブリッツの、しかもプロのチームで活躍する選手だったという。同じくプロで活躍するジェクトは、息子とブリッツをすることが夢だったのだろう。
「オレもそろそろエイブスに復帰しようと思ってんだけどよ、おめぇもちょっとやってみねぇか? いきなり試合に出ろってんじゃねぇ。体動かすのに……練習に付き合う奴が欲しいんだよ。一人でやるのも限界があるからな」
 慎重に言葉を選んでいるのが分かって申し訳なくなる。彼が何を望んでいるのか。それを考えると何故か胸がちくちくと痛んだ。
「ルールは知ってる……けど、できるかわかんないよ」
 苦笑してそう答えれば、ジェクトは僅かに頬を緩めた。
「そりゃ、やってみねぇとわかんねぇだろ。ボール受け取るだけでもいいんだぜ。やっぱパスだと投げる相手がいた方が」
「あはは、わかったわかった。付き合うって」
「ホントか!」
「――うん」

 ぱっと明るくなる表情を見て嬉しい反面、胸の奥がじくじくと疼く。
 その理由を、あまり考えたくなかった。

 喜んだジェクトはだが、はっとした顔で目線を合わせてくる。
「……ホントにいいのか? 無理してんじゃねぇだろうな」
「いいんだ、おれもやってみたい。何か思い出すかもしれないし」
 ブリッツをやってみたいというのは本心からだった。その言葉にジェクトは安堵を見せる。
 そうだ、ティーダであるという実感がなかろうが、記憶の存在を疑おうが、まだ決め付けるのは早い。もっと沢山の物事に触れてみないとわからない。
 だから今は、思い出せるよう努力しよう。そうすればきっと、心から笑い合える日がくるはずだから。

――――――

 結果から言えば、ブリッツはちゃんとできた。いや、素人ではありえない動きだったと言っていい。
 そのことをジェクトは大層喜んだが、少年自身はそれどころではなかった。
(きもち、わる……)
 海から上がっても立ち上がることが出来ずに、ぽたぽたと落ちる雫をぼんやりと眺めた。
(何…だ…これ……っ)
 ジェクトとのパス練習。最初はそれだけだったが、次第に軽いボールの奪い合いになった。
 それらをこの体はきちんとこなしてみせた。――少年の意志に関わらず。
「どした? 大丈夫か?」
「ん……ちょっと……疲れた、かも」
 体を拭きもせず、ウッドデッキに仰向けになって四肢を投げ出すと、ジェクトが上から見下ろしてくる。
「ま、久々だったからな……具合悪ぃなら早めに言えよ」
「ん」
 へらりと笑って見せれば、ジェクトは肩を竦めて苦笑した。家の中からやりとりを見ていたアーロンからタオルを受け取り、談笑しているのをぼんやりと聞きながら少年はゆっくりと目を閉じた。

 少年が反応するよりも速く、体はボールに手を伸ばす。次にどこへ動けばいいか、考えるよりも速く水を蹴った。
(気持ち悪い……)
 他の誰かに体を乗っ取られたような気味悪さに頭がぐらぐらする。感覚が鈍い。
 この体を動かしているのは、誰なのだろう。
 自分の意識はここにあるのに、体は全く別物のようで――。
(っ……)
 衝動的に、少年は海に飛び込んだ。
 驚くジェクトの声が聞こえた気がしたが、それを無視して深みへ潜る。
 海の冷たさが心地いい。
 水をかく音以外、聞こえるものはない。
 くるりと上を向けば、遠くに揺らめく太陽が見える。目を閉じて、力を抜いた。
 意識して、指先を動かしてみる。手、肘、肩、つま先、足首、ひざ、あらゆる場所を少しずつ。
 じんわりと感覚が戻ってくる。自分の意思と動きがリンクする。
(大丈夫……)
 この体を動かしているのは自分だ。そう思って目を開けると、ジェクトが向かってきているのが見えた。
 急に飛び込んだからか心配そうな表情のジェクトに、安心させるように笑顔を向ける。
 ジェクトの手を取りながら考える。まるで別の意思に動かされているように感じるのは、今回が初めてではなかった。
 料理を作るとき、掃除をしている時――何をすればいいのか体が知っているようで、その度に気味が悪いと思っていたが、こんなに酷いのは今回が初めてだった。
「ぷはっ! びっくりしたぜ、いきなり飛び込んでよ」
「ごめ……ん」
「さっき具合悪そうだったのによ。ホントに大丈夫か?」
「大丈夫だって、過保護だなぁ」
 毎度毎度先ほどのように倒れていてはジェクト達も怪しむだろう。
 水の中では回復が速かった。音や視覚などの余分な情報をカットし、力を抜いて母なる海に抱かれれば、自然と感覚は戻っていく。
 その日から、ブリッツの練習を終えた後にしばらく海に潜るのは一つの習慣になった。

――――――

 ここ一週間ほどのことを振り返りながら、少年は前を歩く男に気付かれぬよう小さくため息をついた。
 ジェクトの元で暮らすようになって一週間。
 少年が、少年としてこの世界に覚醒してから一週間。
 毎日が目まぐるしく、楽しいこともあるけれど、やはり不安も多くて。
(結局何も思い出せてないし……)
 ジェクト達から話を聞いても、昔よく行っていたという場所に連れて行かれても、一欠けらでさえも記憶に触れるものはなかった。
 そして時間が経つにつれ、ますます強くなっていく想いがある。
 『ティーダ』と、今の自分が重ならないという気持ち。

 前を行くジェクトの背に視線を向けた。
 振り返ることはなくとも、どんな表情をしているのかは何となく想像がついた。
 きっとそれは、無意識のものだ。そして無意識だからこそ、それが本音なのだという事実が少年に重く圧し掛かる。
 ――昔話をする時、どこかへ出かける時、それらが終わった後。何も思い出せなかった時の、隠しきれない想い。
 それらを感じ取る度に、胸の痛みは強く鋭くなる。
 そんな顔は、見たくない。
 笑って欲しい。

(どうすればいいんだろう)
 ずっとそう考えていて、もしかしたらと思いながら実行していないことがある。
 言いかけては躊躇い、止めるのを繰り返してきたことがある。
(喜ぶ、のかな)
 その日は何故か言えるような気がした。
 夕日の中で振り返るジェクトをまっすぐ見つめて、問う。

「何て呼べばいい、かな」

 驚いて、そして僅かな期待の滲む表情。
 それを打ち消すように背を向けてしまう姿に、どうしようもなく胸が締め付けられる。
 本当は思い出して欲しいんだろう。けれど無理強いされたことは一度もなかった。
 先へ歩き出してしまったその背にザッ、と不安が押し寄せる。

 ――躊躇うのは、怖いからだ。
 呼んでしまえば、変わってしまう気がした。
 『今ここにいる自分』ではなく、『ジェクトの息子』に。『ティーダ』にならなければいけないような気がして、怖かったからだ。

 けれど。
(呼ばなきゃ)
 今、言わなければいけないと思った。
 今言わなければ、きっと二度と言えなくなる。
 もう二度と、目を合わせてくれなくなるような気がする。
 拒絶されるのは、嫌だ。
 ジェクトが笑ってくれるなら、もう何でもよかった。

(ティーダ、なら)

 今まで聞いてきた『ティーダ』の話を思い出す。
 『ティーダ』ならきっと、こう呼ぶ。

「おやじ」

 ゆっくりと、振り向いた男の表情は――

(――あぁ)

 少年は理解した。

 確信、した。

 気付かなければよかったと、何だか泣きたくなる気持ちを堪えて、笑ってみせる。

「……当たり?」
 問いかければ、微かに肩を揺らした彼の横をさっさと通り過ぎる。
 ばれなかったかと冷や冷やしながらも、心に落ちた小さな黒い染みが、じわりと範囲を広げるのが分かった。

(このひとが見てるのは、おれじゃない)

 視線も、声も、愛情すらも、それは自分に向けられたものではない。
 その目はいつだって『ティーダ』を探している。
 その声はいつだって『ティーダ』を呼んでいる。

(おれじゃ、ない)
 その向こうに垣間見える、『ティーダ』の面影を見ている。
(でも……)
 ジェクトは反応を示した。絶望と落胆と疲ればかりだったその目に、希望と喜びの色を宿した。
(あんたが、喜ぶ、なら)
 それは確かに、少年に喜びを与えた。同時に、ぎりぎりと締め付けるような痛みも。

「早く帰ろ」

 おやじ、と。
 笑って呼びかける。
 上手く笑えたか分からないけれど、夕焼けよりも赤い真紅の瞳は眩しそうに細められ、少年の心を喜びと痛みで満たした。

――――――

「ティーダ! 久しぶりじゃん! まだ記憶混乱してるって聞いたけどマジ? オレのことは?」
「えー、と……ごめん」

 スクールに初めて行った日は、いろんな人に話しかけられて大変だった。どうやらティーダは、交友関係が広いらしい。ついでにそこそこモテるらしい。
 明るく人当たりも良く、更にブリッツで活躍するプロの選手となれば当然かもしれない。
 最初こそ緊張したものの、すぐに打ち解けることが出来たのは幸いだった。相変わらず記憶を思い出すことはなかったが、友人が増えるのは素直に嬉しかった。

「いやーもっと余所余所しくされんのかって心配してたけど、相変わらずでよかったよ」

 その言葉を、聞くまでは。
「……相変わら、ず?」
「ほら、記憶喪失ってさ、なんか人が変わったみたいになることあるらしいじゃん。お前、いつもと変わんないからさ、記憶がないなんて聞いてなかったら多分わかんなかったよ」
(あ……なんか……)
 くら、と眩暈のような感覚。
 そうだ、ジェクトとブリッツをやった時のような。

「ごめん、ちょっと」
「お、便所か? オレも行こ」
「じゃあオレも」
「ヤローで連れションとか冗談きついッス!」
 冗談めかしながら平静を保つ。
(気にしなきゃ、いいんだ)
 けれど一度気付いてしまえば、ふとした瞬間に意識してしまいそうだった。
(おれは、『ティーダ』、なんだから)
 ティーダなのだという実感がないまま、過去のそれと比べられ、重ねられることが酷く苦痛であるのだと。それを自覚してしまった今、無視することは難しい。
(ティーダ……なのかな……おれ……)
 『ティーダ』がどう話して、どんな反応をして、どんな仕草をするのかは、今まで聞いた話と、過去のブリッツ映像を見て想像することしかできない。
 けれど、それらを真似ているわけではなく、ただ自然にしているだけなのに、皆はそれを見て安堵するのだ。ああ、記憶がなくてもティーダなんだ、と。
 それこそが、自分が本当に『ティーダ』であるという証拠なのかもしれない。けれど――。
(わかんねぇ、よ……)
 周りの声がノイズのように、意味を捉えられないまま耳を通り過ぎていく。
 こんなにもたくさんの人に囲まれているのに、大海原に一人放り出されたような孤独を覚えた。
(おれは……誰なんだろう)
 頑なに『ティーダ』だと思えないのは、ただ記憶を取り戻せないからなのか。それとも――。
(……やめよ)
 強引に思考を閉じる。
 海の中に身を委ねる時の感覚を思い出しながら、少年は自身を確認する。大丈夫だと言い聞かせた。

 スクールが終わる頃にはそれなりに慣れ、友人だという男に誘われてジェクトが練習しているエイブスのプールへと行った。
 ここへ来たのも、スクールへ行きたいと申し出たのも、全ては記憶を取り戻すためだ。記憶さえ戻れば、きっとこんな想いに悩まされることもなくなるはず。

 なんやかやで二軍の練習に参加することになったが、球体のプールで泳ぐジェクトを生で見るのは初めてで、無意識のうちに目で追っていた。
 水の抵抗なんて感じさせずにすいすいと泳ぎ、迫る敵を弾き飛ばしながらゴールを決める。
 食い入るように見つめる。どくんどくんと心臓が大きく鼓動を打つ。
 生まれるのは嫉妬と憧れ。絶対の自信を見せる表情とプレイに夢中になる。
 あそこに行きたい。あの人と本気の勝負がしてみたい。
 未だブリッツをすれば他人に好き勝手動かされているような感覚であったとしても、それでもブリッツは好きだったし、やっている間は夢中で、楽しかった。だからこそ、あの頂点に挑みたい。
 改めて、ティーダが羨ましくなる。あんな凄い男が父親であれば、きっと嬉しいし、誇らしい。

 どうして『ティーダ』だと思えないんだろう。
 どうして彼を父親だと思ってあげられないんだろう。
 記憶がなくても、せめてそう思うことが、感じることができたら――。

 最初の頃に『ティーダでなければよかったのに』と考えたことを思いだす。そしてその正反対の思いは、今でも確かに存在するのだ。

 ――ふ、と目が合う。視線に気付き、口角を上げて笑うジェクトに何故かかっと顔が熱くなって慌てて目を逸らした。
 心臓は未だ早鐘を打っているが、チームメイトに呼ばれて名残惜しみながらも練習用のプールへと向かった。

 (あ――やば、)
 練習形式の試合には勝ったが、ジェクトの練習を見ていつもより熱が入ってしまったのか、意識と体のズレが大きかった。
「おーい早く上がれー」
 水の中に留まって感覚を取り戻したいのに、監督やチームメイトの呼ぶ声に急かされる。おまけに気付けばジェクトもいつのまにか来ており、こちらを見ていた。怪しまれても困ると、仕方なくプールから出る。足元がふらつかないように気をつけながら歩いた。
 チームメイトたちに揉みくちゃにされながらも笑顔は忘れない。必死に水の中を思い出しながら感覚を取り戻そうとした。
「つーかさ、記憶ないとか聞いてたから心配してたけど、前と変わんなくて安心したよ」
「俺もこっち来た時は記憶混乱してたけどさ、そのうち良くなるって」
(っ……ま、ず)

 変わってない、前と同じだ、安心した、あそこでパス出すの癖になってるよな、フェイント入れるタイミングも――。

 次々と周りからかけられる声が頭の中をぐちゃぐちゃにする。気持ち悪い。吐きそうだ。

 ティーダ。
 ティーダ。
 ティーダ。

(お、れ……は……)

 おれは、だれだっけ。

 ぐらりと視界が揺れた。

――――――

「……ごめん」
 帰りの車の中。倒れてしまったことに何を言うでもなく、淡々と世話をしてくれたジェクトに、ぽつりとそう言った。
「謝ることなんて何もねぇだろ。酸欠なんてブリッツやってりゃよくあることだしな」
「……ちがくて」
 何も思い出せなかったから、と。外を眺めながら謝った。
 スクールもブリッツも、記憶を取り戻したいがために行った。なのに、結局いつもと同じ、何一つ思い出すこともなく、挙句倒れて迷惑までかけて、自分が情けなくなる。ジェクトを落胆させてばかりだ。
「……それこそ、謝ることじゃねぇだろ……んなことよりホントに大丈夫なのかよ。今日はなぁ、ブラスカの嫁さんが飯作りにきてくれるって言ってたんだぜ」
 明るい口調で話すジェクトの気遣いが嬉しい。ジェクトのことを『おやじ』と呼ぶようになってから、以前よりも笑顔が増えた気がする。苦しさを誤魔化すためのそれではなく、息子と暮らせるのが素直に嬉しい――そんな笑顔を見せるようになって、嬉しくて、そして苦しい。

 けれど、とぼんやりする頭で考える。
 皆が『ティーダ』だと言ってくれても、少年自身は相変わらずそうは思えない。
 ジェクトが父親なんだと言われても、そう思いたくても、できない。

 もしこのまま何も思い出さなければ、どうなるのだろう。それでもジェクトや皆は、受け入れてくれるんだろうか。

 ――もし、本当に自分が『ティーダ』ではないとしたら。
 後から生まれた、全くの別人格であるとしたら。

(おれ……いらなくなるのかな……)

 取り留めもなく考えていると家に着き、ブラスカやアーロンが迎えてくれる。温かい料理の匂いがして、なんだか酷く安心した。
 こんな風に帰る場所があるのは、皆が少年を『ティーダ』だと思っているからだ。
 『ティーダ』でないと分かったら、ここへは帰って来られなくなるのだろうか。
 一番『ティーダ』を必要としているジェクトに、『必要ない』と言われてしまったら。

(そうしたら……おれはこの世界で……ひとりだ)

「……ティーダ」
 呼ばれて、そして皆に凝視されていることに気付き、ようやく自分が泣いていることを知る。
 皆が心配してくれるのはちょっと嬉しいけれど、それは自分を『ティーダ』だと思っているから……そんな思考の負の螺旋がいつまでも断ち切れない。きっと記憶を取り戻せない限り、ずっと続くのだろう。

 女々しいと、思う。
 うじうじと悩んだところでしょうがないのに、気持ちを切り捨てることができない。
 他人であればよかったと思うのも、自分が『ティーダ』なのだという自覚を持ちたいと願うのも、例え矛盾していたとしても、全て本当の気持ちだった。
 矛盾した考えを同時に叶えることはできない。だから、どちらかは捨てなければいけないのに。

「部屋で休んでろ。飯できたら呼んでやるから」
 ジェクトにそう言われて、すっと背筋が寒くなる。
(ひとりは……いやだ)
 こんな思考に囚われたまま、一人になるなんて嫌だった。一緒にいたいと請えば、ジェクト達は苦笑しながら許した。

 ソファでジェクトの隣に座ったままテレビを眺める。
 隣にある体温が心地いい。ジェクトのことを考えると不安になるのに、ジェクトの隣は、海に潜った時のようになんだかとても安心できた。
 気付かぬうちにうとうとと舟をこぎ、こつんとジェクトの体に身を預けてしまったことはおぼろげながら理解できたが、動く気力は湧かなかった。
 何事か話し声がして、しばらくすると優しく髪を梳かれる感触。
(きもちいい……)
 優しい声がする。何を言っているかまではわからないけれど、その声と手の感触、体温は少年に強い幸福感を齎した。

 ひとりは嫌だ。離れたくない。この人と一緒にいたい。一緒に笑って、時には喧嘩もして、ブリッツをして。
 あの紅い瞳が『自分』を見てくれたら。
 そうすることができたら、それはどんなに幸せなことだろうか。

(あ……そうか)

 その時、ふわりと浮上した感情を、不思議と少年は素直に受け止めた。

(おれ……)

 笑ってくれたら、嬉しい。一緒にブリッツするのは楽しい。鮮烈に脳裏に焼きつく王者のプレイに憧れ、しかし家ではだらしないところを見てそのギャップに呆れ。勝負する時の、あの射抜くような紅い瞳に言葉に出来ない興奮を覚えた。
 独占したい。あの紅で自分だけを見て欲しい。
 思えば、出会った時からずっと、あの紅い瞳に囚われていた。

 ――もっと、ずっと前から、そうだった気がする。

(おれ……ジェクトが、すきだ)

――――――

 自分の想いに気付いてしまってからというもの、少年の心中は以前にも増して複雑だった。
 ジェクトと過ごす時間が愛しく、楽しい。同時に感じるのは罪悪感。
 男同士、というだけならまだいい。だが『ティーダ』とジェクトは血の繋がった親子なのだ。例え少年自身に実感がないとしても、間違いなくティーダはジェクトの血を受け継いでいる。
 であるにも関わらず、少年はジェクトに好意を抱いた。それは親子としての愛情ではなく、恋人達や夫婦が抱くものと同じ。
 この想いを知ればきっとジェクトは自分から離れていく。

 だって、ティーダとジェクトは親子だから。

 子が親を好きになるなんて普通じゃない。
 仮に他人であったとしても、同性に好かれるなんて気持ち悪いと思うだろう。
 ――言えるはずない。知られたくない。
 ジェクトの傍にいたいから。拒絶されたくないから。

 そう自分に言い聞かせながらも、気付いてしまった想いは止まらない。心が、理性を裏切る。
 想いを自覚すればするほど、ジェクトから向けられるものが辛くなった。

 無意識に昔のティーダと同じような癖や言動をするたび、ジェクトは懐かしげに目を細める。
 重ねられていると、そう思ってしまう。その度にたまらなく胸が掻き毟られる。やはり求めているのは『息子としてのティーダ』なのだと思い知らされ、打ちのめされる。

 ジェクトを好きなのと同じくらい、同時にジェクトを嫌った。ティーダのことしか見ていない彼が、嫌いだ。

『お前、ガキの頃もそーやってボール持ってたよなぁ』
『いっちょまえにオレの技真似ようとしたりしてな』
 『ティーダ』との共通点を見つけるたびに嬉しそうにするジェクト。
 そんなジェクトを見るのが、辛い。

 記憶が、欲しい。
 記憶さえ戻れば、『ティーダ』なんだと自覚できたら、こんなに苦しまなくてすむ。
 強くて優しいジェクトを、父親なんだと思える。
 そうすればきっとこの気持ちもなくなる。家族として、息子として、父親であるジェクトを愛することができる。

 それに、記憶を取り戻せばジェクトも喜ぶ。

 ――なのに。

 ジェクトを好きだというこの気持ちを失いたくない。
 自分を好きになってほしい。

 そんな浅ましい想いを捨てることができない。
 まるで魂に刻み付けられたように、それは深く深くにまで根付いている。

 記憶を取り戻したい。
 こんな気持ち捨ててしまいたい。
 ジェクトがティーダに向けるものが欲しい。
 『ティーダ』になりたい。

 記憶を取り戻すのが怖い。
 この想いを失いたくない。
 肉親として以上のものが欲しい。
 『今の自分』を見て欲しい。

 ――矛盾している。
 だがそれらは確かに少年の中から生まれるもので、全てが真実だった。
 沢山の相反する想いがぶつかり合い、ぎしぎしと心を軋ませる。
 だが選ばなければいけないのだ。

 矛盾したものは、同時には存在できないのだから。

――――――

 酒を飲んだ体はぽかぽかと温かい。
 ジェクトの優勝祝いの宴会が終わった後、強制的に一緒に風呂に入ることになった時は正直戸惑った。何せジェクトに好意を寄せ、恋人達がするような触れあいを、その先を妄想してしまったこともあるのだから。
 しかしいざ入ってみれば頭を洗ってもらったり、逆にジェクトの背中を流してやったりと、『普通の親子』としての触れあいはとても暖かくて、嬉しかった。
 ――正直に言えば、『おやじ』と呼ぶことには未だ慣れていない。けれど、記憶を取り戻しさえすれば。彼らの知る『ティーダ』に戻って、この気持ちを忘れて、心から彼を父親と思えたなら。それはどんなに素晴らしいことだろうか。
 そんなことを考えていた、気がする。

 この家の風呂は大きいが、体の大きいジェクトと共に入るとなれば狭くなる。ジェクトが遠慮なく足を伸ばしてくるので、仕方なくその正面で膝を抱えて入ることになった。
 他愛のない話をしながらも、酒が入っているせいか程よい温度に包まれて少しずつ眠気が増していく。
「きもちいーのは分かるけど寝んなよ? まあ溺れやしねぇだろうが上せちまう」
 ジェクトの声と共に頬に張り付いた髪の感触が消え、そのまま指先が肌を撫でたので思わず体を震わせてしまった。かっと全身に火が点いたように熱くなる。
 ――同時に、熱くなってはいけない場所が熱を持ったことに気付いて動揺する。
 出るように促すジェクトの言葉を突っぱねていると強引に湯船から引きずり出され、結局はその醜態を晒すことになってしまい本当に上せるんじゃないかと思った。

「あー酔うとなることあるよなぁ。若い時は特に」
 にやにやと笑いながらからかってくるジェクトに怒鳴り返しながらも熱は引かない。頭がくらくらする。こんなことで気付かれはしないだろうけれど、もしこの想いに気付かれたら、その時は……。

「うわあ!!」
「それこそ治まるまで待ってたら上せるだろーが。こんなもんは早く出しちまえばいいんだよ」
 少年の気も知らずにジェクトは強引に体を湯船から引きずり出して座り込むと、背後から体を覆うように抱きしめてしまった。
「やだっ……何すんだ離せよ……っ!」
 本気で暴れたつもりだったが、酒の回った体は思うように動かずに軽く押さえ込まれる。
「なーに恥ずかしがってんだ。男なら友達同士で擦り合いっこしたりすんだろ」
「知るか……ッ……!」
 拍子抜けするほどのんびりした口調で、しかし手は反応を示している場所へしっかりと触れてきた。
 途端、ぞくぞくと背筋を這い上がる感覚に身が竦む。ただジェクトに触れられるだけで、驚くほどに体は過敏に反応した。
 鼻に抜ける甘い声が自分のものとは思えない。ジェクトが何事か呟いているが内容は頭に入ってこず、ただその手の動きだけを追ってしまう。
(だめ、だっ……)
 僅かに残る理性も焼き切れそうだ。なんとか踏みとどまろうと手や脚に力を入れようとするのに、体は言う事をきかない。ただ快楽と焦燥ばかりが募っていく。
(これ以上、は……っ)
 抑えていた想いが溢れそうになる。
 少年自身がいくらジェクトに想いをよせたところで、それが報われることはない。どころか、拒否されて終わりだろう。
 今のこれだって、酔った上での戯れで、ただ手を貸してやってるだけなんだ。

 だって『ティーダ』とジェクトは親子だったから。
 ジェクトが望むのは、息子としてのティーダだから。
 期待なんてしてはいけない、忘れなければいけない。これからも彼と暮らしていくなら、絶対に。

 ――分かっているのに。
(ジェク、ト)
 体が、本能が歓喜する。踏み込んではいけないと理解していながら、与えられるものを拒否することが出来ない。
 快楽のためか、葛藤する心のためか、ぽろぽろと涙が溢れた。
(……ジェクト……ジェクト……)
 抱きしめられることが、触れられることが、こんなにも嬉しい。
 ろくに意味を成さない抵抗を続けながら、体は歓喜に震えた。
 上りつめる感覚に呼吸は速く短くなる。堪らず体が仰け反ると、首筋を柔く噛まれて思考が真っ白に弾けた。

 何を口走ったのか覚えていない。
 ただ、気付けば服とタオルを抱えたまま自分の部屋にいた。
 後ろ手で扉を閉め、背を預けたままずるずると床にへたり込んだ。
「っ……ふ……ぅ、くっ……」
 耐え切れなかった嗚咽が零れる。涙と共に想いが溢れて止まらない。
「じぇ、く……ッ……」
 触れられた部分はまだ彼の熱を覚えている。
 その熱を、触れられた感触を思い出すように手を伸ばした。
「ぁ……あ……っ……くと……ッ」
 擦りあげながら、ジェクトが歯を立てた首筋に触れれば、痺れるほどの快感が生まれた。
 ジェクトが部屋に来るかもしれないだとか、声を聞かれるかもしれないなんてちっとも頭に浮かばず、ただ彼の名を呼んで求めた。

(すきだ)
”駄目だ”
(触れてほしい)
”駄目だ”
(ジェクト)
”駄目、だ”
(おれ、を……て……)

――――――

 海の中にいた。
 目を開ければ、遠くにはきらきらと光る太陽が見える。
 そこへ一つの影が現れた。
 大きな魚かと思ったそれは、ジェクトだった。
 顔が見えて、安心して表情を緩ませると、ジェクトもまた穏やかな笑みを見せた。
 水をかき、手を伸ばしたジェクトへ自分も手を伸ばす。

 けれど、しっかりと掴んだはずの感触はなく、腕が引かれ視界には体が現れる。
(え……)
 それはティーダの体だ。ジェクトが愛おしそうにその体を抱きしめると、ティーダの体もまたジェクトを抱きしめ返す。

 それを見ている、自分。
(な、んで……)
 気付けば次第にジェクト達が遠ざかっていく。――否、自分が沈んでいるのだ。
(おやじ……ジェクト……っ!!)
 叫んだつもりだが、水の中で声が出るわけもなく、手を伸ばそうとしても体はどこにもない。ただ意識だけがここにある。
 ジェクトはティーダをつれてゆっくりと浮上していく。

(いやだ……)

 もうこちらを見ようともしない。ジェクトはただティーダの手を引き、上昇していく。
(まって……)
 反対に自分の意識はどこまでも深くに沈んでいく。
 何もない、空虚な場所へ。
(……かないで……)

「ッ……おいてかないで……!!」

 はっ、と自分の声で目が覚めた。
 まだ部屋は暗かった。はあ、と息を吐き出して寝返りをうつ。
 その拍子に転がり落ちた雫で、泣いていたのだと分かって苦笑する。
 サイドテーブルにある時計に手を伸ばすと、まだ夜中だった。あの後熱に浮かされたような頭のまま、部屋のシャワーを浴びなおしてベッドに倒れこんで、うとうとと浅い眠りについていたのだろう。
 伸ばした手が少し震えていた。
 夢の内容を思い出して、それを振り払うようにきつく目を瞑る。

 記憶さえ取り戻せばいいと思っていた。
 ジェクトもそれを望んでいたし、記憶さえ戻れば、自分もジェクトの息子の『ティーダ』であると思えるようになる。そうすれば今ある悩みは全て解決する。父を好きになったということも忘れられる。そう思った。
 けれど、ある可能性に思い至った時、それは大きく揺らいでしまった。
 ジェクトを好きな今の気持ちを失いたくない、という以上に、記憶を取り戻すことが怖くなった。
(どうしたら、いいんだ……)
 膝を抱えるようにして小さく丸まっても、神経は昂ったままで眠気など訪れない。
 結局ふらふらと立ち上がり家を抜け出す。ジェクトには、気付かれなかった。

 暗い夜道を一人で歩く。遠くには街の明かりが見え、風に乗って喧騒も聞こえてくるが、あそこに行くだけの元気はなかった。
 アーロンのところにでも行ってみようかと、そう考えたところでまた気分が沈む。
 ティーダの後見人であったアーロンは、十年間ずっとティーダと一緒にいた。何かあればアーロンの元を訪れては愚痴っていくのだと、彼から聞いていた。
 何気なくそう考えてしまうということは、ティーダであった頃の癖が抜けていないということなのだろうか。

 本当に、自分がティーダなのだろうか。

 ブリッツをしたわけでもないのに、ふらふらと足元が覚束なくなる。
 じわりと目の奥が熱くなって、その場に蹲りたくなった。

「大丈夫かい?」
 こんな時間、こんな場所で声をかけられるとは思わず驚いて顔をあげると、ブラスカが心配そうに見ていた。
「いやあ、本を読んでいたら止めどころが見つからなくてね、今まで読んでいたんだが、窓の外に君の姿が見えたものだから」
 いつの間にかブラスカの家の近くまで来ていたようだ。立ち話もなんだからと家に招かれ、誘われるままブラスカの書斎に入った。
「すまないね、妻は寝ているから静かに頼むよ」
 こくりと頷くと温かい飲み物を渡される。そういえば初めて会った時にもこんなことがあった。あれからどれだけの時間が経ったのだろう。
 何口か飲んで一息つく。先程よりは随分と落ち着いた。
 ブラスカは何も聞いてこない。それが今はありがたかった。最初に会った時からブラスカは色々と気を使ってくれて、ジェクト達と同じように信頼できる人の一人だ。

 どれくらいの時間が経ったのか、いつの間にか自分から話をしたいと思っていた。
 アーロンやジェクトとは違い、『ティーダ』との関わりが薄く、知的で思慮深い彼なら、きっと中立的な答えをくれる気がした。

「ブラスカさん」
「ん、何かな」
「……あのね」

――――――

 あの後家に戻ったが結局眠れなかった。
 けれどいつも通りにしようと、朝食を作って食べ、日課にしているランニングをして。
 そして帰ってきた時に丁度起きたらしいジェクトと鉢合わせた。

「よお……」
「あれ、一人で起きれたんだ。つか、珍しいなこんな早くに」
 自分でも驚くくらいに、普段どおりにできた。そのことに喜ぶことはできないけれど。
「メシできてるから温めて……」
「なあ」
 ジェクトの手が肩に触れた瞬間、反射的に払いのけてしまったのには冷や汗が出たが、咄嗟に昨日のことを怒っている風にして誤魔化した。ジェクトは少し落ち込んだようだったけれど、仕方なかった。

 あくまで普段どおりに、と思っても、体は自然とジェクトを避けてしまう。いっそしばらくはこの方針でいったほうが楽なのかもしれない。
 ――今は、あまりジェクトの傍にいたくない。何を言ってしまうかわからなかった。

 出かける支度をして、外へ出ようとした時ジェクトに声をかけられた。
「……あんま、遅くなんなよ」
 つい足が止まる。でもそれは多分、『ティーダ』に対してかけられた言葉だ。
(……ううん、それでいいんだ)
 そう思いながら、気持ちを固めるために、ジェクトを振り返った。

「……あんたは、さ……記憶が戻ったほうが、嬉しいよな」
 そんなの当たり前だ。ずっとジェクトはティーダを見ていたんだから。
 そんなジェクトを、自分はずっと見続けていたのだから。
「戻ってほしいよな……?」
「あ……いや……」
 答えないジェクトについ焦れて再度尋ねる。

 ――もし、違う答えが返ってきたら、その時はどうしようか。
 一瞬そんな考えが過ぎるが、それでもやることは変わらないのだとジェクトの答えを待った。
「そりゃあ……つか……お前だって思い出さなきゃ不便なこともあんだろ……この前みたいに変な奴らに絡まれても、わかんねぇだろうしよ……」
 その表情と答えに、納得して、そして、少しだけ寂しくなった。
「そっか……だよな」

 ドアを開けると、それ以上声がかけられることはなかった。

「悪い! 待たせたな」
「いいよ、そんな待ってないし」
 走ってきた友人に笑顔で応える。これからしばらくは彼に頼ってしまうだろうから、少し待つくらいなんてことないのだ。
「あのさ、折角誘ってくれたのに悪いんだけど、ちょっと頼みがあるんだ」
 大筋の予定は変えなくていい、ただ一箇所行く場所を増やしたいのだと言った。
 場所を告げると友人は怪訝な顔で首を傾げる。
「そんなトコに何か用事あんのか? お前こういうの興味あったっけ?」
「んー興味っていうかさ……」
 目的について素直に話すと友人はあっさりと承諾してくれた。彼にもいつかきちんと礼をしなければと思いながら案内をしてくれる彼についていった。
 その日以降、彼と遊びに出かける時には一つ行きたい場所を追加するようになった。
 目的を知っているからか、彼もその場所の近くで遊べそうな所をさり気なく探してくれて、ティーダはいい友達を持っているのだと、少しだけ羨ましくなった。

「ごめんな、いつも付き合せちゃって」
「いいって。それより今回もやっぱ……」
 苦笑しながら首を振ると友人も肩を竦めた。
 いい加減諦めるか自分ひとりでするかしなければいけない。構わないとは言ってくれているものの、友人も未だに何の成果もないこの行為をいつまで続けるのかと思っているだろう。
 少年とて、一欠けらの希望も見出せないことを続けたくはない。けれどこうしなければ、こうしていなければ、不安に押しつぶされそうだった。

 時刻は深夜に近く、そろそろ帰らなければまたジェクトが心配する。
 トイレに行くという彼を見送って携帯端末を弄っていると、ふいにそれが取り上げられた。
「よーぉティーダ、久しぶりじゃん」
 驚く間もなく肩に腕を回され、強引に歩かされる。
「ちょ……! 何だよいきな……」
 相手の顔を見て言葉を失った。その男は以前にも声をかけ、「友達だ」と名乗った人物だった。
「前会った時はさっさと帰っちまってよー、付き合い悪ぃじゃん、せっかくこっち来たってのにさ」
「――あぁ、悪ぃ、あの時オヤジがいたからさ」

 気付けば自然とそう返していた。
 男は一瞬ぴくりと眉を動かしたが、すぐにまた笑うと肩に回した腕に力を込めて雑踏の中へと進まされる。
「ははっ、天下のジェクト様も息子が大事ってか?」
「って、おれ友達待ってたんスけど」
「ああ、それってあいつのことだろ、オレから連絡しとくから一緒に一回りしようぜ? 昔話もしたいしさぁ」
 友人の名前を出され、一応はティーダやその周囲の人間と無関係でないことを確かめる。
 携帯端末を取り出して誰かと連絡を取り始めた男を横目に見ながら、少年は強く手を握った。
 ――この男が友人だなんて、これっぽっちも信じてはいない。
 けれどここまできて何の進展もないのだ。この男についていくことで何らかの新しい情報が得られるなら、もうそれでも構わない。
 少年はもう、決意していた。どんな手段を使ってでも記憶を取り戻すのだと。

――――――

 結論を言ってしまえば、空振りだ。どころかマイナスだった。やはりそう簡単にはいかないらしい。分かってはいたけれど、落胆する。

「にしてもよぉ、友達っつったらホントにのこのこ付いてきやがって笑えるっての。誰がおめーなんかとトモダチなんだよ」
「記憶ないって本当だったんだな。マジで覚えてねーのかよ」
「……だから知らねーって」

 頬を叩かれてじんと痛みが広がる。

 あの後、次第に人通りの少ない道へと連れていかれ、話の内容も当たり障りのないことばかりだったので適当なところで逃げ出そうかと思っていた矢先に男の仲間たちが現れた。
 抵抗虚しく取り押さえられて今に至るのだが、暴れていた時に蹴ってしまったのだろうか、一人の男の脚にあざがあるのを見てざまあみろと思った。
 どうも『ティーダ』に恨みがあるらしいのだが、こちとら覚えていないのだしそもそも『ティーダ』であるかどうかすら疑ってすらいたのだから、はっきり言って言いがかりにしか感じられなかった。

「お前がエイブスに入った時からそーいう生意気なとこが気に食わなかったんだよ。あの時お前さえ来なきゃオレがエイブスのレギュラーに……!」
「……なにそれ逆恨み? だっせ」

 こんな所で無駄な時間を食うわけにはいかないのに、覚えのないことで言いがかりをつけられてイラついていた。つい本音を口に出せば、今度は腹に重い衝撃。
 内臓を抉るような痛みに呻く。吐き気を堪えながら上から見下ろしてくる男達を睨む。
(おれが……何したってんだ)
 例え『ティーダ』が彼らに何かしたのだとしても、自分には関係ない。それはあくまで『ティーダ』がやったことで、『今の自分』がやったことではない。
 他人から聞けばそれこそ屁理屈にしか聞こえないだろう。だが少年の中ではそれが真実だった。

「他の……げほっ……二人も、同じ理由、かよ」
「あ? 俺らはエースとか言われて調子乗ってるお前が気に入らないだけだよ」
 あるいは、彼らから何か目新しい情報を聞きだせれば、記憶への手がかりになるかもしれないと思って大人しくしていた。だがそれもどうやら無駄だったようだ。
 馬鹿馬鹿しくて、虚しくて、笑いたくなる。実際に少年は笑っていた。それは少々引き攣ったものであったが。

「……そんだけか」
「は?」
「あんたらが知ってる『ティーダ』の話はそんだけかって言ってんだよ」
「何言ってんだテメェ」
「も……いいよ。それしかないなら……おれ、帰る」
 後ろ手似縛られたままなのは厄介だったが、なんとか上半身を起して立ち上がろうとすると肩を踏みつけられ、再び床へと倒された。
 痛みと共に怒りが湧き上がってくる。
 それは、今まで燻り続けていた黒い感情をも誘発する。
「何が帰るだよ調子乗ってんじゃねぇぞ!」
「……っるせぇな! 関係ねぇだろおれには! 知らねえつってんだ!!」
「記憶ないからってなかったことになると思ってんの?」
「だから……っ!!」

 記憶なんて最初からない。そこには空洞しかない。何もない。何も。
(おれ、は)
 髪を鷲掴みにされ痛みに呻くが、男達が向けてくる拳にもナイフにも、恐怖は感じなかった。
「何も覚えてねぇっつーならよぉ、頭に衝撃くれてやりゃなんか思い出すんじゃねーの?」
「ショック療法ってやつか?」

 体全てが怒りで燃え上がるように熱いのに、頭の中は酷く静かだった。
 もう今更引き返せない。
 取り戻せるのなら、どんな方法だって構うものか。

「……やってみろよ」
「は……」
「その程度で思い出せるならやってみろって言ったんだ!!!」
「っ……こ、の!!」

 目を閉じて衝撃を耐えようとしたが、少年を襲った痛みは拳で殴られたものでもナイフで切られるものでもなく、床に落とされたことによるものだった。
 シン、と不気味なほどに静まり返った中で目を開けると、立っていたのは一人の男。
「……っ……」
 そのあまりにも冷たい眼に、全身を支配していた怒りが一瞬のうちに消え去る。
 代わりに湧き上がるのは、恐怖だ。
 危ないことはしないと約束し、それを破ったことへのジェクトの怒りは計り知れないだろう。先ほどのやりとりを聞かれていたのなら、少年には言い逃れようがない。

 助け出してくれたアーロン達と言葉を交わす間もなく、ジェクトに引き摺られるように家へと連れていかれた。

 ただ、恐怖に震えていた。
 ジェクトを怒らせた。『ティーダ』という存在を危険に晒した。
 怒らせたいわけじゃない。危険に身を投じたかったわけじゃない。
(おれは、ただ――)
 いつも焦がれている紅い瞳が、今はただ、怖い。

「やってみろって、言ったよな。何であんな煽るようなこと言った」
「…………」
「のこのこ着いていったんだってな? 何でそんなことした」
「…………」
 それを口にするのは簡単だ。けれどそれは、全てを曝け出さなければいけないのと同義だった。

 ばしん、と、肌がぶつかる音と共に頬に痛みが広がった。
「どんだけ迷惑かけたか、どんだけ心配かけたかわかってんのかお前はッ!!」
 ジェクトから初めて受ける怒りだった。
 軽い文句を言い合ったり、心配されることはあったけれど、本気で怒らせたのは初めてだった。
(でも)
 でもそれは、『ティーダ』に向けられたものだ。
 これ以上ジェクトを心配させないために、ちゃんと、しなければいけない。
 ジェクトに辛い顔をしてほしくないから、笑わないと。
 ジェクトが望んでいるのは『ティーダ』なんだから。

「ごめ……おれ、思い出さな、いとって…………だ、から……ごめん、ね……心配、かけ……」
 声が震える。駄目だ、これでは。
 そう思った矢先に頬を雫が転がり落ちる。
 泣いてはいけないのに。『ティーダ』が泣けば、ジェクトも辛い顔をする。だから止めないと。笑わないと。
 辛そうな顔は見たくない。
 ジェクトが、好きだから。笑って欲しいから。
「ちが……こん、な……ぅ……まれ……止まれッ……とま、れよ……!」」
 目を擦る手をジェクトに止められる。
 こんなはずじゃなかったのに。
 涙で歪んだ視界にジェクトを映せば、やはり辛そうな顔をしていた。
 先ほどまでの怒りはなりを潜め、心配げに声をかけられた。

「……ティーダ……」

 瞬間、呼吸が止まる。

(違う。違う。違う。違う。違う……!!)

 ――その目は、少年を見ていない。
 その目はいつだって、『ティーダ』を――。

「ッ!!」
「おいっ!」

 堪らずジェクトを突き飛ばして走り出す。
 どこへ向かうかなんて考えていない。ただ、あそこから逃げ出したかった。
 後ろからジェクトの声が追いかけてくる。
 暗闇の中を走れば、次第に波の音が近づいてくる。

 そうだ、あそこに還ればいいんだ。
 この体は、ジェクトが海から救い出した。
 ならきっと、あそこが還る場所なんだ。

 もう、くるしいのはいやだ。

 思考に囚われ、足元が砂浜になっているのに気付かなかった。
 砂に足をとられ、よろけたところをジェクトに捕まる。
 燃えるように熱い体温が、今は苦しい。いくら恋焦がれたところで、これが自分のものにはならないのだという絶望しか生まれてこない。

「……や、だ……放せッ……!」
「逃げんなっ! ぶったのは、悪かった……でも何でなんだ、ちゃんと話を……」
「いやだっ……! もう……」
「ティーダ!」

(あぁ……)

 心が黒く塗りつぶされていく。
 隠しておこうと思ってきたもの。
 言わないままでいたかったこと。
 ――それでも、捨てきれなかった想い。

 沢山の矛盾した想いが絡み合い、膨らんで、もう隠し切れないほど大きくなって、弾ける。

「……の、名前で、おれを……呼ばないで……」

 驚きに目を見開くジェクトを見て、暗い悦びすら生まれた。
 ようやく言えたという開放感と、言いたくなかったという罪悪感に押しつぶされそうになりながら。
「何……言って……」

「おれは『ティーダ』じゃないッ!!!」

 どうすれば、よかったのだろう。
(おれは、ただ……)

 思い出してあげたかった。ジェクトのために。ティーダのために。それが一番いいと思った。

 なのに思ってしまった。消えたくないと。

「おれはっ……あんたが望んでる、『ティーダ』じゃ……ないよ……」

――――――

「おれね、もう『ティーダ』じゃないんじゃないかって、思うんです」
「……それは、どういう」
 ブラスカに全てを話した。
 記憶が全く戻らないこと。
 自分を『ティーダ』なのだと思えないこと。
 ジェクトを父親として見られないこと。

 それは懺悔のようだった。ぽつぽつと語る少年の言葉を、ブラスカは遮ることなく静かに聴いていた。
「……ジェクト達には、話していないんだね」
「……はい」
 思案するように目を閉じるブラスカを見て、少年は何故かほっとしてすらいた。
 もう少し早く相談していればよかっただろうかと思いながら、少年はもう一度口を開く。
「……ねえブラスカさん。もし……もし本当に記憶が戻ったら、どうなると思う?」
 今ここにいる自分は、自分をティーダとは思えない。そんな自分に記憶が戻ったところで、果たしてそれを『自分の記憶』として認識できるのだろうか?
 まるで映画やドラマを見ているように、どこか現実離れした、他人の視点から見たもののようにしか感じられないのではないか。
 ジェクトのことを父親と思えないまま、ティーダの記憶を抱えているだけの人間になってしまうのではないか。
 ――あるいは。
「記憶が戻って、自分のことティーダだって思って、おやじのことも父親だって、そう思えた時、それはもう『おれ』じゃなくなるんじゃないかってさ」
「……今の君が、ティーダ君に上書きされる、と?」

 やはりブラスカは理解が早いと、少年は微苦笑を浮かべた。
 最初は、ただ記憶が戻ればいいとだけ願っていた。
 けれどいつしか、ただ単純に記憶を取り戻しただけで、元の『ティーダ』になれるとは思えなくなっていた。それほどまでに、ズレがある。
 記憶が戻ったとしても『ティーダ』だと思えなければ意味がない。
 ティーダに戻るという事は、今の自分が全て消えてなくなってしまうということではないだろうか。
 今の自分が、ティーダであった自分を忘れたように。

 元のティーダに戻れたら、自然とジェクトへの想いは消えるだろうと思った。淡い思い出になり、普通の親子愛に摩り替わるのだろうと。
 でも、その気持ちだけでなく、『今の自分』という意識が全て消えてしまったら――それは、死に近い。

「…………」
 ブラスカは黙ったまま目を伏せて考えていた。やがて小さく息を吐くと、目を開き真直ぐに少年を見つめた。
「……記憶を取り戻した時、失っていた間の記憶が曖昧で思い出せないという症例は、少なからずある。だから君がそうなる可能性も、ある」
「……そっか……ありがとうございます」
 自分が考えていたことが強ち外れていなかったことを、少年は落ち着いて受け止めた。
 ブラスカに話してよかったと、安心してすらいた。
「ほんとはさ、思い出したらおれが……自分が消えるんじゃないかって、怖かった。でも多分、大丈夫」
「……それでも、思い出すつもりなのかい?」
 こくりと頷けば、ブラスカはほんの少しの憐れみを湛えた瞳で少年を見つめた。
「……思い出せる可能性があるなら、どんなことでも試しておきたいんだ。例えおれがおれじゃなくなっても、今のままだったとしても……記憶が、あったほうが……」
 ぐ、と言葉に詰った。何故だか泣きそうになったからだ。
「ジェクトの為に、じゃない。君がどうしたいかを考えるべきだよ」
 やはりブラスカには見抜かれているようで、苦笑しながら目元を指先で擦った。
「自分でももうわかんないんだ。このまま……思い出したくないって気持ちと、駄目だって思う気持ちと……色んなものぐちゃぐちゃで、どれがホントの、おれの意思なのか、わかんないんだ……」
「君は、君の望むことをすればいい」
「うん……ありがとう、ブラスカさん」

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