だいじなもの

「ほんっといい加減にしろよ!」
 母親譲りの、どちらかというと中性的な顔立ちを歪めさせて怒り狂う息子を尻目に、のんびりと朝のコーヒーを啜る。
「出したものは仕舞え! ゴミは捨てろ! 洗濯物はカゴ! 何回言えば分かるんだっての! ガキかよ!」
 それは最早お決まりの文句になってきているが、元来大雑把な性格のためなかなかに習慣付かない。
 しかし暫らく遠征で家を空けていたティーダは家の惨状を見るなりこれだ。まあ確かに、そろそろ掃除しなければいけないとは思っていたところなのだが。
「今日やろうと思ってたんだよ」
「んなこと言ってどうせ明日できることは明日やればいいとか言い出すんだろ」
 随分と昔に言った台詞を持ち出されてぎくりとしつつも、よく覚えてるなあと感心もする。
 確かあの時は泣かれてしまったような気がするのだが、やはり嫌いだと言うだけあって、そういう時のことはよく覚えているのかもしれない。そう思えば、ちょっと寂しい気もするのだけれど。
「わかったわかったやっとくから」
「ホントかよ……最低でもゴミだけはなんとかしろよ! 家中だぞ! いってきます!」
 疑わしい視線を投げかけつつも、お気に入りのバッグを持ってティーダは飛び出していった。
 今日はティーダは友人と遊びに、自分はオフでのんびり。遠征から帰って早々遊びに行くとは元気なことだと思うが、普段から練習と家事、試合に学校と、自由な時間もなかなか取れないのだから仕方のないことではある。 まあ欲を言えばせっかくの休日、二人で過ごしたかったのだがまあ贅沢は言えない。ブリッツの世界で活躍するプロ選手とは言えまだまだ遊びたい盛りだ。 そもそも自分が家事をやらないから、そんな遊びたい盛りのティーダがやってくれているのだ。真面目な友人に世話を頼んだからか家事は一通りこなすしさぼることもない。そんな息子にすっかり甘えてしまっているのだから、本当はこの程度のことは言われる前にやらなければいけないのだ。
「しゃーねぇ、やるか」
 床に広がる酒瓶やつまみの袋を拾い集めてはゴミ袋に放り、洗濯物を拾ってはカゴに投げ。ゴミについては以前適当にやったら分別しろとこっぴどく怒られたので今回は最初から袋を複数用意してやった。粗方片付いてくると今度は小さなゴミが気になり、珍しく掃除機をかける。
 多少汚れていてもあまり気にならない性質とは言え、やはり綺麗にするのは気持ちがいいものだ。
 一階が大体終わって一息ついたところでふとティーダの残した言葉を思い出し、意地の悪い考えが頭をもたげる。
「……家中やれっつってたよなあ」
 その言葉を免罪符に二階にあるティーダの部屋へと向かう。普段から「絶対勝手に入るなよ!」なんて一丁前にプライバシーを主張する息子にエロ本くらい恥ずかしがるモンでもねぇだろ、なんてからかったものだ。 当然その後はヘソを曲げられたことを思い出して苦笑しつつ、誰もいないのにそっとドアを開けてみた。
「なんだ、散らかってんじゃねぇか」
 出かける前にばたばたしていたからか、ベッドの上には服が何枚か放り出されたままで、ブリッツの雑誌なんかも落ちていた。
 とは言えその程度のもので、他はゴミ箱の中に菓子か何かの袋が入っているくらいだ。
 ティーダには随分早い頃から部屋を与えていた。まだ早いんじゃないかと妻に言ったものだが、ティーダがあまり寄り付かなくなり、どうやら嫌われているらしいと分かってからは、ティーダにとってはその方がいいのかもしれないと寂しく思ったものだ。
 本当は、夜寝るときくらいは一緒にいたかったのだけれど。

 ――まあその代わりというわけではないが、今は親子という関係を越えてしまった、許されざる関係になって夜を共にしているのだから心中複雑だ。
 普段は自室に連れ込むばかりなのでティーダ自身の部屋の事情は全く知らない。ブリッツで得たトロフィーや雑誌が並べられた棚を通り過ぎ、定番とばかりにベッドの下を覗いてみる。
 思っていたものはそこにはなく、どこかに隠しているか、あるいは本当に持っていないのか……見つからなかったことを少し残念に思いながらも、想像していたものとは別のものがあることに気付いて手を伸ばした。

「んだこりゃ……古ぃな」
 それは古ぼけたブリッツボールだった。随分と使い込まれた様子があり、表面はひび割れたようにかさついている。
 最近まで使っていたのか――そうも考えたが、如何せん古すぎる。自分たちのようなプロの選手が蹴ったらすぐに割れてしまうのではないかと思うほどに古い。誰かのサインが書かれているわけでもなく、特別なデザインというわけでもない。そもそも特別なものなら使ったりせずに飾るものだ。
 後見人の影響もあってか息子はものを大事にする方ではあるが、シューズやグローブとは違い、ブリッツボールは使い込めば手に馴染みやすいというわけでもないから古くなればすぐに新しいものと変えるはずだ。
 ベッドの下にあったくらいだから、もしかしたら存在自体忘れているだけなのかもしれない。そう結論付けると深く考えもせずにそれを袋へと放り込み、出されたままの服を畳みはじめた。

 ――ベッドの下に大して埃がないことから、定期的に掃除しているだろうことも、ボールにもそれほど埃が被っていないことも、よく考えれば気付くことだったのだ。
 この時に、もっとよく考えておくべきだったのだ。それが何故、そこにあったのか。

――――――

 別にさ、今考えたらきっと、全然大したことじゃないんだよな。

「おう分かった分かった、約束だな」
「うんっ」
 それはまだオレが、オヤジを「おとうさん」って呼んでた頃の話。
 まだオレが、オヤジを嫌ってない頃の話。

 一緒にブリッツの練習をする約束をした。初めてお願いしたんだと思う。
 普段は試合とかインタビューとかで忙しいから、空いてる日を聞いて。
 オヤジも、嬉しそうな顔をしてたと思う。
 だからオレはその日が来るまで、練習をかかさなかった。いつも以上に頑張った。まだまだ下手くそで、シュートもまともに打てなかったけど。

 前日もなかなか寝付けなくて、とうとうその日が来るとオレは目覚めた瞬間からもうわくわくが止まらなかった。

 でもね、リビングに降りたらオヤジも母さんもいなくって。
 まだ寝てるのかと思って部屋に行ったら脱いだ服がそのままになってたりして、慌しく出かけていったことがわかった。

 こういう可能性はちゃんと考えてた。大人は忙しいし、特にオヤジみたいなスター選手で有名人だと急用が入ったりすることはしょっちゅうだから、仕方ないって。
 一人で置いてあったパンと目玉焼きを食べながらテレビを見ていたらその理由が分かった。どこの局でもオヤジのチームの偉い人が急逝したというニュースを流していたからだ。
「……しょうがない……っす」
 そうだ、しょうがないことだ。子供との約束と近しい人の死とでは天秤にかけるまでもない。
 それにその人は……あまり覚えていないけれど、オヤジがチームに入った頃から何かと良くしてもらった恩人だったらしいから。

 二人は夜遅くになって帰ってきたけれど、オヤジはぐでぐでに酔っ払ってた。その上まだ飲むつもりなのか母さんにつまみを頼んでいたり。

 気分が乗らないかもしれない。疲れてるかもしれない。
 でもオレは、ほんの少しの希望を捨てられなかった。
 ほんのちょっとでよかった。ちょっとだけ、ボールを投げあうくらいしてくれないかと。
 だって約束したんだから。

「おとうさん」
「ああ? まぁだ起きてたのか。お子様は寝る時間だぜ」
 がははと豪快に笑うオヤジはすごい酒臭かった。亡くなった恩人もお酒が好きだったらしくて、葬式でもたくさんの酒が振舞われて割と賑やかに行われた、というの後で知ったことだけど。
「あの、ね……ブリッツ……」
「あー? 無理無理、今酔ってるからなぁ。間違えてお前にすんげぇ剛速球ぶつけちまうかもしんねぇぞぉ。また今度だ、悪ぃな」

 ずき、と胸の奥が痛む。普段わがままを言う事なんてないけど、服を握り締めながら勇気を出してみたんだ。
「約束したじゃん、今日って。日付変わっちゃうよ」
「だぁから今度やってやるつってんだろ、お子様は早く寝ろー」
 上機嫌なオヤジとは裏腹にオレの心はずきずきじくじく痛んで。

 今考えたらきっと、全然大したことじゃないんだ。
 でも、子供だったオレには、ずっと楽しみにしてたオレには、結構、堪えることで。

 なあオヤジ。
 約束したんだ。
 その日じゃないとだめだったんだ。
 だってその日は、

「ッ……」
「おぉ? 泣くかぁ? 次の休みにちゃーんと付き合ってやるからよぉ……」

 その日は、オレの、

「ッ――!!」
「だっ! 痛……くはねぇけど何すんだコラ! ……って、もういねぇし」

 オヤジにボールを投げつけて、逃げるみたいに部屋に戻ったオレはベッドに潜り込んで、声を殺して泣いた。
「っ~~う、う……ひっ、く……っ」

 今日がよかった。
 今日じゃないと駄目だった。
 だって、今日は

「……っきら……だ……」

 多分その頃からオレは、段々オヤジが嫌いになっていったんだと、思う。

――――――

 帰ってきたティーダは家の中を見るなり「やればできんじゃん」と少しばかり呆れたような笑いを零した。
 それも自室に戻った途端に怒声に変わったのだが。

「クソオヤジーっ! 勝手に入るなって言っただろ!」
「おめぇが家中やれっつったからやってやったんだろーが。感謝しろい」
 二階から聞こえてきた叫びにくっくと笑いながら返事をする。
 しばらくがたがたと部屋を確認するような音が聞こえていたが、ふと静かになる。
 きし、と階段の上から降りてくるような音がしたので電子新聞から目を逸らしそちらを見るとティーダが手すりから身を乗り出すようにこちらを見ていた。
「なーオヤジ。部屋にあったもん何か捨てた? あと服畳むの下手すぎ」
「んだよ折角やったのによう。……あーゴミ箱のもんとベッドの下にふっるいボールあったからそれは捨てたぜ。おめぇあることも忘れてたんじゃねぇか? あんだけ古いと練習にも使えねぇだろ」

「――あ、うん」

 目を丸くする息子にやはり忘れていたのか、と思いながらも、奇妙な間が空いたことが気になった。
「……そっか。そうだよな。古かったら、そうだよな。掃除お疲れ。なんか食う?」
 掃除などティーダは毎日しているのだし、溜め込んだものを捨てた程度の自分に労いなどないだろうと思っていただけに少し驚いたが、小腹が空いていたので意識はすっかりそちらに移り、頭の片隅に引っかかった違和感は呆気なく消えてしまったのだった。

 それから暫らく、ティーダは妙に大人しかった。
 普段と変わらないといえば変わらないのだが、時折何か考え事でもしているかのようにぼんやりとしている。
 それとなく訊いてみても疲れてるんだという程度の返事しか返ってこず、なんとももやもやした気分のまま、久しぶりに友の家に顔を出した。

「お前な……来る前に連絡くらいしろ。家を空けてることもあるんだぞ」
「今日はいるってティーダに聞いてたんだよ。まあ長居するわけじゃねぇから許せや」
 勝手知ったる、といっても来た回数自体は少ないのだが――気心の知れた親友の家にさっさと上がってソファに腰掛ける。
 そんな様子を見て何か察したのか、アーロンが呆れたようにため息をついた。
「……フン、喧嘩でもしたか」
「別に……そんなんじゃねぇよ」
「あいつが大人しい理由か」

 ぐ、と言葉に詰まる。大変悔しいことではあるが、望んだことではないとは言え、十年もの間離れていた自分と、十年もの間傍で見守ってくれていたアーロンとでは、やはり差がありすぎるのだ。
 ――そう、酷く悔しい。今や恋人という関係になってはいるが、十年という時間の流れはあまりにも大きい。ティーダについて、自分はまだまだ何も知らない。
 ティーダ自身も、アーロンには特別心を許しているのが分かるから、尚のことその差を思い知らされてばかりだ。
 そんな心境すらも理解しているのだろう友人は、淹れたばかりのコーヒーを渡しながら自分もソファに腰掛けた。
「まあ、俺も詳しくは知らん。昨日街でたまたま会ったんだが、少し様子がな」
「どうおかしいってんだよ」
「お前が感じていることとそう変わらんと思うぞ」

 時刻はもう深夜に近い。街の明かりがあるにも関わらず、負けじと輝く星空が窓越しに見える。僅かに開かれたそこからは風と共に、波の音を運んできた。
 ティーダの試合はそろそろ終わるだろうか。ちらりと時計を見るとコーヒーを飲んでいたアーロンがぽつりと零した。
「……そんなに心配することでもないさ。大したことではなさそうだった。暫らくすれば元に戻る」
「…………よく、わかってんな」
 言葉から漏れ出る嫉妬はあまりに分かりやすく、そんな自分に舌打ちしそうになりながら誤魔化すようにコーヒーをあおった。
「そう拗ねるな。まあ気になるというのなら原因でも考えてみることだな。ああなったのはいつ頃からだ」
「原因つってもよ……なんか違うなぁって思ったのはあいつが遠征から帰ってきてからで……」
 空になったカップを弄びながら記憶を遡る。帰ってきた時は普通だったから遠征が理由ではないはずだ。それ以降と言えば確かティーダは友達と遊びに行っていて。
 最初に感じた小さな違和感を思い出す。それはいつだった? 何をしていた時だった?

「……なあアーロン、あいつの部屋に古いブリッツボールあるの知ってるか?」
「……………………」
 ぴたりと止まった、その反応が全てを物語っていた。
「……ジェクト、まさかとは思うが……勝手に部屋に入ったりあまつさえものを勝手に捨てたりしたんじゃないだろうな」
「…………掃除しろって、言われたからよう……」

 一つ盛大なため息をつくとアーロンは軽く額を押さえた。その反応に叱られた子供のように心が萎縮してしまいそうだ。
「すっげえ古かったしベッドの下にあったしよ……それにあいつ捨てたって言った時も何も言わなかったんだぜ?」
「……そうか」
 何事か考えるように目を閉じる。何も言わないアーロンに焦れて口を開きかけた時、アーロンは小さく呟いた。

「……あのボールはな」

――――――

 オヤジに約束をすっぽかされて随分経った頃。
 約束を守ってくれなかったことも、完全に忘れてしまったのかその後のフォローも何もなくてそれは腹立たしかったし悲しかったけど、それでもオレはまだオヤジのこと好きだった。
 喉元過ぎればというやつで立ち直ってはいたけれど、その頃やたらとガキ扱いしてくるオヤジの態度が気になり始めていたオレは、オヤジと練習しなくたって一人で強くなってやる! って意気込んでた。まあ現にガキだったんだけどさ。
 その日も夜にこっそりボールを持ち出して練習していた。暗くて静かで、聴こえるのは波の音と、遠くから響く街の喧騒だけ。
 ブリッツスタジアムからの歓声のようなものも時折聴こえる。先日テレビで見たオヤジの試合を思い出して、今日もまたあのシュートを真似てみようとボールの前に立つ。少し後ろから助走をつけて……。
「いてっ」
 空振りして転んだ。一人きりとは言え恥ずかしい。
 あのシュート……ジェクトシュート。ちょっとでも近づきたくて、きっとあれが出来たらオヤジも驚くぞとか、オヤジがいなくたってオレ一人で出来るんだぞっとか。いつだってすぐガキ扱いしてくるオヤジを見返してやりたくて、こっそり練習していた。 無謀だって子供心にもわかってはいたけど、練習すれば絶対できるんだって信じてたんだ。

「これはこれは、ジェクト様のおぼっちゃまではありませんか」
 不意に聞こえた声に肩が跳ねる。よりによってかっこ悪いところを見られて情けないやら恥ずかしいやら悔しいやらで、オヤジの方を振り返れなかった。
 そうしたらオヤジが近づいてきて、転がったままのボールの前に立った。
「普段はタダじゃあ見せないんですけどねぇ。そのシュートはこうやるんですよ!」

 何故それをやろうとしていたと分かったのか、ジェクトシュートをするオヤジ。
 壁にぶつかるボールを打ち返しはまたぶつけ、最後にどんなキーパーでも吹き飛ばしてしまう強烈なシュートを決める。

 やっぱり、かっこいいと思った。憧れていた。いつか自分もやりたいと思った。早く、大きくなって、追いつきたかった。

「おまえにゃできねえよ」

 ほら、よく漫画とかでさ、図星指されたりキツいこと言われた時にぐさって何か刺さるような表現あるだろ?
 まさしくあんな感じで。

「でもな、心配するこたあねえ。できないのはおまえだけじゃない。オレ以外にはできやしねえ。オレは特別だからな」

 いつかできる、追いつけると信じて毎日練習している、それを無意味だって言われたような気がして。

「あ? なんだよまた泣いてんのかぁ?」

 ああ、今なら分かるよ。オヤジはからかってただけなんだって。

 ――今ならね。

――――――

 アーロンの話を聞いた後で家に飛んで帰ると既に玄関には靴があり、とっくに試合を終えたティーダが先に帰宅していることがわかる。しかし家の明かりは一つもついていない。
 寝ているのかとも思ったが、今部屋に行くのは何となく躊躇われ、先に一階のリビングから探すとあっさりと見つかった。
 海に面したウッドデッキで、手すりに肘をつきながらぼんやりと水平線を眺めているティーダ。
 息子の後姿というのは、どうにもトラウマめいたものを感じさせる。いつからか、そっぽを向いて話すようになってしまったティーダ。それは自分と話していて泣いてしまうのを見られたくないからだと察するのに時間はかからず。
 試合が終わって家に帰り、妻が迎えてくれるのと同時にティーダがおやすみと言って部屋に戻っていく後姿も、太陽の出ているうちに帰宅した時に見る一人で遊んでいる後姿も。
 いつだって、寂しそうだった。なかなか時間が合わずに遊んでやれないことは自分でも気にしていて、だから構ってやろうとするのに息子は泣いてむくれるばかり。
 普通に接しているつもりなのに上手くいかない。息子ともっと楽しい時間を過ごしたい。でもどうやったら喜んでくれるのかが分からなかった。その頃の昔――なんて言っても、ほんの数年前、四、五歳の頃はもっと笑っていたような気がするのに。
 こう言ったら泣くか、じゃあこういうのはどうだ。いくら考えても分からなくて、考えるのは性分じゃねぇとぶつかっていけば、結局いつも通り。

 今もまた、海を眺めて何を思っているのだろうかと不安になる。寂しいのだろうか。泣いていないだろうか。後姿だけでは何も分からない。
 開いたままのガラス戸から入り込んでくる夜風を受けながら、ウッドデッキに出た。気配で気付いたのか、ティーダの体が僅かに動く。
「オヤジ? 遅かったッスね」
 僅かに振り返った顔に涙は見られず少し安心するが、そう簡単に落ち着くわけにはいかない。自分の犯した過ちは償わなくてはいけない。
 また前を向いてしまったティーダに近づくと、そっと腕を回して、こつりと額を肩口に預ける。
「オヤジ……?」
「…………すまねぇ」
 出てきたのはシンプルすぎる言葉だったが、心は罪悪感でずしりと重い。普段から人に謝罪するようなこともない、謝罪することに慣れていない自分の、心からの素直な言葉だった。
「へ?」
 だというのに当の本人は間の抜けた返事をして首を傾げる。後ろから抱きしめているからしっかりとは振り向けないようだが、戸惑ったような顔がちらりと見えた。
「えっと……何が?」
「何って……おめぇ怒ってねぇのかよ」
「だから何を?」
 本気で分かっていない様子に自分も戸惑ってくる。捨てたと言った時のあの驚きと僅かな間は、ここの所ずっと大人しかったのは、ショックを受けたからではないだろうか。
「だからよう……オレがよ……捨てちまっただろ……ボール」
「……ああ」
 ようやく合点がいったとティーダが声を上げる。そこに怒りや悲しみはなく、むしろ笑うような気配すらしてますます混乱した。
「あー……アーロンに聞いた?」
「……おう」
「別に、怒ってないよ。ほんとにあれ、そのうち捨てるつもりだったしさ。……まあベッドの下にやってたのは……アンタに見つかったら笑われるかなって……」
 後半はぼそぼそと聞き取りづらい声だったが、確かに耳が拾う。笑うものかと僅かに腕に力を込めた。
「でもよお、その……大事にして、くれてたんじゃねぇのかよ」
「まあね。まさかくれた本人が忘れてるとは思わなかったけどー」
 くすくすと笑いながら言うティーダは軽い意趣返しのつもりなのだろうが、アーロンに聞かされた時もかなりのショックを受けた心にちくちくと刺さる。
 あのボールは、自分がティーダにやったものらしい。らしい、というのは先ほども言ったようにすっかりそのことを忘れ、知った今でもあまり思い出せないからだ。
「オレもはっきり覚えてるわけじゃないんだけどさ。オヤジが外でリフティングか何かしてる時に一緒にやるかーって言って、その時にオヤジが使ってたやつくれたんだ。誕生日でも何でもなかったから、覚えてないの無理ないだろうけど」
 遠い昔の出来事を懐かしむ穏やかな声。それにつられるように不安も凪いでいくが今度は疑問が浮かぶ。怒っていないとは分かったが、では何故ここのところ妙に大人しかったのか。考え込むような様子が多かったのか。
 そのことを問えばティーダはまた「あー……」と微妙な返事ともつかない声を上げると、夜風に髪を撫でられながら暗い海を見つめた。
「な、ちょっと付き合ってよ。昔話にさ」

――――――

 あれは多分、オヤジがいなくなるあの日の、ちょっと前だったと思う。
 家にいれば酒ばかり飲むし、意地悪ばかり言うオヤジのこと、どんどん好きじゃなくなって、でもまだ好きだって気持ちが残ってた。
 だけどオレは、小さかったオレは、周囲の声に惑わされて、近くで見ているのに好きだという気持ちの自信が揺らぎそうだった。

「ジェクトは練習ギライだからもうすぐ引退なんだってさ」
「勝手に言わせとけ。オレは特別なんだ」
 言われてみればオヤジが練習に行ってくる、なんて言うのすら見たことがなかった。一体いつ練習しているのか。今でも強いことに変わりはないけれど、もっとちゃんと練習してるところを見せればいいのにと思った。
「ジェクトは酒びたりだからもうダメだってさ」
「酒ぐらいいつでもやめられるさ」
 ぎゅう、と服の裾を握り締めた。泣いちゃ駄目だと思った。
 大好きだったはずの熱くて大きな手も、よく響く低い声も、いつからか威圧感を感じるようになってしまった。オレを見ると渋い顔をする。高圧的な言葉が怖い。

 ――怖い? 違う、オヤジなんか怖くない。きっと『キライ』なんだ。

 ――ちがう。ちがう、オレは、ちがう、オレはオヤジが好きなのに。

「じゃあ今やめなよ」
「なんだあ?」
「やめられるんでしょ?」
「へっ明日にでもな」
 もどかしかった。オレの言葉も想いも、オヤジにはちっとも伝わらないんだって。結局ガキ扱いしかされてないんだって。
 ガキだって、分かってたけど、それでもオレはちゃんと聞いて欲しかった。

「どうして今じゃないのさ」
「明日できることは 明日やればいいんだよ!」

 オヤジがちゃんとかっこいいんだって、強いんだって思ってたから。そんなオヤジが好きだったから、周りの奴らにそんなこと言われるのが悔しくて、許せなくて。
 だからオヤジに否定して欲しかった。ちゃんと練習してることを、その気になれば酒もやめられるんだってことを、証明してほしかった。言われっぱなしで、黙って欲しくなかった。
 それはただのオレの我儘だった。オヤジを悪く言われることが悔しくて、でもオレが言ってもオヤジはちっとも聞いてくれなくて、それがまた悔しくて。

「……どーして泣くかねぇ……なっさけねえ」

 あ、だめだこれ。あはは、今思い出しても、なんか、

――――――

 前を向いたままつらつらと語っていた息子はそこで言葉を途切れさせた。
 声をかけようか迷ったが、それよりもティーダの復活が早かった。

「あとー、あ、あれだ」
「……まだあんのかよ……」
「まだ三つッス」
 どういう意図でそれを話し始めたのかはわからないが、自分の無意識の行動でティーダにそんな想いばかりさせていたのかと思うと、海の底の更に下の砂にめり込んでいきそうな程に落ち込んでいた。なんというかこっちも泣きたくなってくる。
 傷つけたかったわけじゃ、ないのに。

「だからさ、いいんだって。今はちゃんと分かってるから」
 回した腕にそっと手を重ねられ、ティーダの体温が伝わってくる。かすかに息が漏れる音が聞こえて、それが笑いだったと気付くのに少しかかった。
「……あのボール捨てられてからさ、思い出すようになったんだ。今話したようなこと」
「……オレがどんだけ嫌なやつかって?」
「違うってば」
 ティーダの手がするすると腕を撫でた。ただ優しいそれは、何だか面映い。

「ずっと……オヤジのこと嫌いなんだって思ってたけど……そうじゃなかったんだなって。ちゃんと、好きだって気持ちもあったんだって思い出したんだよ。 オレの思い出は、オヤジの嫌いなトコしかなかったから。好きだってこと忘れてたんだ。だから、思い出せてよかったと思ってる。そいうこと考えてたから、最近ちょっとぼんやりしてたってだけ」
「そうか……」
 今も昔も悪気があったわけではないけれど、罪悪感でちくちくと痛む。ティーダがそれを理解して許してくれること、ただ嫌われているだけではなかったことを知って幾分かは和らいだけれど。
「でもよ……なんで捨てたらそれを思い出すんだ?」
「んー……何て言うんだろ」
 手すりの上で組んだ両腕に頭を乗せるティーダの髪をさらりと梳くと僅かに肩が震えた。
「……オレが大事に思ってるものとか、こととか……オヤジにとっては大したことないものなのかなって……思って……そういえば昔にもこんなことあったなあって、思い出した」
 ちゃぷちゃぷと、波が柱にぶつかっては音を立てる。昼間はあれだけ青く輝く海も、今は全てを呑み込む漆黒だ。
「相手にされないっつーか……本気にされないっつーかさ……そいうの、悔しかったし、腹たったんだろうな」

 子供だったからな。

 そう言って笑うティーダに堪らなくなって、肩に手をかけて振り向かせると。

「っ……わっ……! ばか! 見んなバカオヤジ!」
 手を振り払って体を押し退けられる。前を向いたティーダはごしごしと目元を擦る。僅かに赤い目元と潤んだ瞳はどう見ても半泣きのそれで反射的に動きが止まる。やっぱり未だに苦手意識は抜けていないらしい。
 離れてしまった体。腕にあったはずの温もりが夜風に奪われ、急速に失われていくのにぶるりと身を震わせた。
「あーもう! 違うからな! 別にボールがどうとかじゃなくてっ……昔のこと色々話してたらこうなった、だけで……ほんと何でもなっ」

「ごめんな」
 再び体を引き寄せて後ろから抱きしめた。
 ひくっと肩が震え、逃げないようにと願いながら回した腕に少し力を込めて更に抱き込む。
「だ、からっ」
「ごめんな、ティーダ」
 それはボールのことだけじゃなくて、色々な、本当にたくさんの想いを込めて。
 不器用な言葉では届かないから、ただ真直ぐに。

 強張った体から僅かずつ力が抜けていく。鼻を啜るような音がしたかと思うと、今度は長いため息をつかれた。
「……いいってば……もう」
 呆れたような笑いと共に体にかかる重さが増した。預けられた体をしっかりと抱きしめ、でかくなったなあと改めて思いながら、根元が黒くなり始めている髪にキスを落とした。

「あのよ、明日何か買いにいかねぇか? ボール捨てちまったしよぉ……」
「ああ、いいってそんなん」
 妙にしおらしい父親の姿に笑いながらティーダは言う。

 寂しい夜は、無意識にボールを抱いて寝る日もあったと。
 それでも眠れない時は、ボールを抱えたままウッドデッキに座り込んで、朝日が出るまでぼーっとしていることもあったと。

「だからさ」
 抱きしめるために回した腕を、ティーダがしっかりと掴んだ。
 気付けば水平線は明るくなり始めている。

濃紺から薔薇色へと変わっていく世界で、振り返ったティーダはようやく笑顔を見せてくれた。

「もう代わりはいらないんだ」

――――――

 欲しかったものは、この手の中に。

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