「だーかーらぁ!!」
ティーダが風呂から出てきた頃合を見計らったかのように、玄関の方でがたがたと物音がした。
無視を決め込んでもよかったのだが、ドアを閉める音がしたきり何も動く気配がないので仕方なく行ってみると、案の定そこには泥酔し床に座り込んだジェクトの姿があった。
「そんなになるまで飲むなって何度言ったら分かるんだよアンタは! つーか酒やめたんじゃなかったのかよ!!」
「あー……なんだぁ?」
怒るティーダを見てけらけら陽気に笑っているジェクトを一度本気で引っ叩いてやろうかとも思うが、酔った状態で下手に怒らせたり絡まれると面倒臭いことはティーダが一番良く知っている。
「ほら、立てってば!」
異界に来てジェクトと暮らすようになってからというもの、忍耐力と諦めのよさが鍛えられてしまった気がして物悲しくなる。それもこれも全てジェクトのせいだと思うと腹立たしいことこの上ない。
が、結局こうして手を貸してしまうのだから自分も甘いなぁとは思うのだが。
「重っ……つーか酒くさっ」
ジェクトが一向に動かないので腕を肩に回し、半ばその巨体を背負うようにして立ち上がろうとするが何せプロのスポーツ選手だ。その体躯に鍛え上げられた筋肉が余すところなくぎっちりと付いているのだから重くて当然である。 これがどうして試合中あんなに俊敏に動けるのかティーダは不思議で仕方がない。
全身に酒でも浴びてきたんじゃないかと思う程アルコールの臭いを染み付かせたジェクトの呼気に嫌気が差しながらなんとか部屋まで歩かせようと踏ん張る。
「んぐぐ……なあっ……ちゃんと立てってばッ……オヤ、」
言葉が途切れたのは、ジェクトの髭が項に触れたからだ。まるで頬ずりでもしたかのようにざりりとした感触が、熱の篭った吐息が皮膚を撫で、ぞわぞわと肌が粟立った。
肩に回したジェクトの腕に少し力が入ったような気がして心臓が跳ねる。
ジェクトに肩を貸し、立ち上がろうと膝をついたまま動けなくなった。
「は……はやく立てって……」
僅かに上擦ってしまった声に赤面する。何を動揺しているんだと自分を叱咤するが、同時に『何か』を感じていた。
(何か……変だ……)
それは本能的な直感だった。
場の空気が変化したような、あるいはジェクトの雰囲気が変わったような。
不明瞭なその感覚は不安を煽り、頭の中で警鐘を鳴らし始める。
けれどここに泥酔したままのジェクトを置いていくわけにもいかないと、直感と理性がせめぎ合っている間に先に動いたのはジェクトだった。
「ッ!」
「んー……」
回していた腕に力を込められ背中から抱きこまれるような体勢になる。まだ僅かに湿り気の残る髪に鼻を埋めてすぅと息を吸い込んだ気配にまたぞわぞわとした感覚が背中を這い上がる。何やってんだ! と叫びたかったのに喉からは小さな悲鳴のような音しか漏れなかった。
「いいにおいすんなぁ……」
「あ……ふ、風呂……さっきまで入って……だから……」
本能は逃げろと言っているのに、いつもの、酔った時に絡んでくるものの延長なのかとまだ理性は悠長なことを考えている。
だっていくら酔っているからって、男に、しかも息子になんて、と理性は言うのだ。
その迷いがジェクトの手を止めさせるのを遅らせてしまった。
「……ッぁ」
「ん?」
寝巻き用のTシャツの裾から大きな手が潜り込んでくる。その腕を掴み身を捩るのが面白いのかくっくと耳元で笑うのが聞こえる。
漏れた声が恥ずかしくてカっと全身が熱くなった。
「お、オヤジ……酔いすぎだって……も、いいだろ、離……ッ……」
風呂上りの肌はまだしっとりとしていて温かい。その上をするすると這うように動く手にティーダは狼狽した。
(……っの……馬鹿力……!!)
逃れようともがくのに体を捕らえるジェクトの腕はびくともしない。
その力強い腕は強引に事を進めるのに、抱きしめられる息苦しさはなく、むしろ紳士的な優しささえ感じる包み込むような抱擁だった。
「も、ほんとやめろって……! 怒るぞッ……!?」
項に柔らかく温かい感触。同時に肌を彷徨っていた指先が胸の突起にそっと触れて思わず体が跳ねた。
全身に火が点いたように熱くなる。その反応に気を良くしたのか、ジェクトは鼻歌でも歌い始めそうな様子で目の前に晒された項にちろりと舌を這わせた。
(や、ば……い……)
心臓が暴れ、呼気も乱れ、力の抜けそうになる体を叱咤しながらティーダは必死にジェクトの腕をどかそうともがいた。
体は羞恥やら何やらで熱く火照っているのに、ティーダの顔は血の気が引いたように真っ青だ。
このままでは本当に――。
「っん!? んんー!!」
後ろを向かされ強引に口付けられた。突然の事に侵入を許してしまい、口内を蹂躙される。
「んっ……んん……ッ……ふ……」
体も舌も逃げようとしているのに、ジェクトはやんわりとそれらをいなしながら絡め取る。
流石にブリッツ界のスターとして君臨し、女性に不自由していないだけあって無駄に上手いのだと、そんな場合ではないのに頭の片隅で妙に感心した。
ティーダ自身それなりに経験しているが、こんな風に一方的に、そしてリードされるようなキスをされるのは初めてだった。
悲しいかな、刺激に素直な若い体は理性を無視してジェクトに与えられるそれに反応し始める。
じりじりと追い詰められ、とうとう床に押し倒される形になってもまだジェクトはキスから解放してくれなかった。
「ッ―――!!!」
不意にジェクトの手がハーフパンツにかかり、与えられる刺激に翻弄されていた思考が一瞬でクリアになった。
その時覚えたのは羞恥でも怒りでもなく、純粋な恐怖、だった。
「んんん!!!」
「っ」
怪我をさせるかもしれないなんて考える余裕もなく力の限り滅茶苦茶に暴れるとジェクトが怯んで体が離れた。
その一瞬を見逃さずに全力で突き飛ばすと、覆いかぶさっていたジェクトの体が後ろに倒れて尻餅をつく。
「ってぇなあ……ああ……?」
息を荒げたまま必死に後ずさって距離を取ると、尻餅をついたままのジェクトが頭をがりがりとかきながら顔を上げた。
今ジェクトの目には息子の姿が映っている。目元は赤く今にも泣きそうで、乱れた呼吸は震えていて、着ている服も誰かに乱されたような……そう、まるで暴漢にでも襲われたような……。
「……あ……?」
急に酔いが覚めてくる。
俯きながら記憶を探る。心地いい酔いの中で感じた温かな肌の感触、僅かに香るシャンプーの香りが蘇って。
「……のっ……」
やべぇと思いながらそっと顔を上げると、ふるふると拳を震わせるティーダが堪えきれなかった涙を一粒零した。
「こ、の……バカオヤジ! あんだけ飲みすぎるなってオレいっつも……ッ!! バカ! 前後不覚になるほど飲むなバカ! 男か女かもわかんないのかよオレおっぱいついてないんだぞ気付けよバカ! 変態! 痴漢! 万年発情期! ドスケベ! ホモ! ほんっとバカ……! バカ! バカオヤジ!!」
ふらふらしながらも立ち上がったティーダは涙目のままあらん限りの声で絶叫した。
「ばあああああああああああかあああああああ!!!!!!」
混乱した頭のまま思いつく限りの罵倒を浴びせたティーダは脱兎の如く自分の部屋へと逃げていった。
「……あー……くそ」
残されたジェクトはただ呆然と、自分がやってしまったことを思い出しながら頭を抱えるのだった。
――――――
「あ」
「……おう」
「……はよ」
同じ家で暮らしている以上、嫌でも顔を合わすことになるのは当然だ。
しかも家事の殆どを行っているのがティーダだから朝食の時間には必ずそうなってしまう。
次の日の朝、そうして顔を合わせた二人はどことなくぎくしゃくしたまま朝食の席についた。
朝は二人とも口数が多いわけではないが、いつにも増して沈黙が重い。
(コーヒー……)
空になったカップを満たそうとジェクトがコーヒーサーバーに手を伸ばすと、同じタイミングでティーダも手を伸ばした。
「っぁ」
その瞬間弾かれたようにティーダは手を引っ込めてしまった。
表に出ないように気をつけたが、内心かなりショックだった。やったことを考えれば当然の反応ではあるが。
(……なんでお前がそんな顔すんだよ)
手を引いたティーダはまるで自分が拒絶されたかのように、自分の手を見ながらくしゃりと顔を歪めた。
「……あー……ティーダ……昨日は」
「昨日は! オレが風呂、入ってる間に帰ってきたんだな」
ジェクトの言葉を遮って、「そうだよな?」とティーダは無理に笑顔を作った。
それは多分、なかったことにしようというティーダなりの配慮なんだろう。
なかったことにして、今まで通りにするから、と。
先ほどの反応を見る限り、しばらくはこんな状態が続くのかもしれない。それでもティーダは、怒って出て行くでもなく、嫌悪し拒絶するでもなく、今まで通りここにいてくれると言っている。
「……あぁ……そうだったな」
甘えすぎだとは分かっていても、これ以上蒸し返してティーダのプライドを傷つけたくはない。スピラの時といい、自分の酒癖の悪さに打ちのめされつつジェクトはそれに倣うことにした。
食事を終えて食器を片付ける。その際にティーダの横を通り過ぎたが、先ほどのようなあからさまな反応はされなくてほっとした。
電子新聞を読んでいるティーダの横に立つと、さすがに少し緊張した様子で顔を向けてきたのだが。
「ティーダ……」
「ん?」
「あー……ちょっと、いいか……」
僅かに手を出して、触れていいかと言外に匂わせる。ティーダもそれを汲み取り、小さく頷くとじっとしてジェクトの動きを待った。
それこそ腫れ物に触るかのようにそっと手を伸ばして、少し傷んだ金の髪に触れた。
そのままくしゃくしゃと撫でてもティーダはされるがままだった。少し俯いたせいで顔は見えない。
「昨日はオレすげえ酔っちまってよ……あー……だから、もう酒はやめる」
「別に……やめなくていいよ……」
俯いたままティーダはぽつりと呟いた。あんな目にあったというのに。
「だからさ……普段から言ってんじゃん、飲みすぎるなって。飲むな、なんて言わないよ……あんただって、飲みたい時あるだろ。酒癖の悪さなんて今に始まったことじゃないし……」
この子供はどこまで優しいのかとジェクトは瞠目する。自分が酷く情けなくなって、本当は触れる資格なんてもうないんじゃないかと思えてくる。
「……いーや、やめるぜ。なーにスピラでも出来てたんだ。ジェクト様なら楽勝だぜ」
少しわざとらしいくらい豪快に笑いながら手を離す。するとまるでそれを惜しむかのようにティーダが顔を上げ、目が合う。
本当はまだ抵抗があるのを我慢していたのかもしれない。薄い水の膜を張った瞳が妙に艶っぽく見えて一瞬呼吸することを忘れる。
「っ……ちょっと歩いてくら。まだちょっと酔いが残ってるみてぇだ」
「ぁ……うん、いってらっしゃい……」
その目から視線を無理矢理引き剥がすと家を出た。
まだ酔ってるんだ。そう思わないと、見えない何かに絡め取られそうだった。
ジェクトが出て行き、一人残されたティーダは深く息をついた。
(全然うまくできなかった……)
普段通りにしたかったのに、体は無意識にジェクトを恐れてしまった。
今もまだ、触れられ緊張していた体はそのままで、鼓動も激しい。
怖かった。ただ、怖かったのだ。
ただ触れられている間はまだ理性が働いていた。ティーダ自身もプロの選手だから、本気で抵抗すれば重い蹴りの一発でも食らわせて逃げることも可能だった。それをしなかったのはジェクトがブリッツ界の大スターだからだ。
出る試合数こそ少ないが、今でも絶大な人気と強さを誇る彼に怪我でもさせれば事だ。行き過ぎてはいたが、酔った上での戯れだと思っていたからこそティーダも本気にはなれなかった。
それが、下肢へと手が伸びた途端恐怖へと変わった。
(無理矢理される女の子の気持ち、ちょっと分かっちゃったかも)
男同士だとか、親子だとか、そういうものもあっただろう。けれどそういう理屈が出るより先に、ただ純粋な恐怖がティーダを襲った。
「……だいじょぶ……だよな」
さすがに昨日今日の出来事ゆえに最初は反射的に拒絶するような態度を取ってしまったが、頭を撫でられた時緊張はしたものの恐怖は感じなかった。
口には出さなかったが、むしろその大きな手に、もう少し撫でていてもらいたいと思ったくらいだ。
(戻ってきたら、今度はもっとちゃんとしよう)
そう思いながらも、心はざわついたまま落ち着かない。
「あー……もう……」
それもこれも全部ジェクトのせいなのだと、悪態をつかずにはいられなかった。
「ばかおやじ……」
※続きっぽいもの『おやすみの』