(負けた)
慌ただしく人が行き交い、物資や怪我人を運び、治療をして。そんな中で彼女はほんの僅かな間、呆然と立ち尽くしていた。
(――私、負けた)
『それ』は、完全な、純粋な破壊の力だった。
ただ力をぶつけ合い、ねじ伏せる、それだけのものだった。それは――そう、あの『銀』の鱗を持った、憎悪と破壊の化身として顕現した龍のように。
――ただ一つ、違うとしたら。
――数刻前。
「アレンヴァルド! ウ・ザル!」
ギラバニアの地で久方ぶりに会う友は、以前にも増して精悍な顔付きになっている。そしてそれぞれの装備もまた、以前よりも一際イイものに変わっていた。
「あ、これもしかして二人からの……?」
「……あぁ、そうだ。まだまだ、着られてるって感じだけどな」
「そんなことない、似合ってる! アバ達も嬉しいと思うな」
アバとオリ。二人から贈られた白銀の甲冑を身につけたアレンヴァルドは、出会った頃よりもずっと強く頼もしく見えた。装備のことだけではない、彼が歩んできた道のりでしか得られなかった経験や考えがあるからこそだろう。
アラミゴは彼の故郷でもある。解放に向ける想いは、ハルドメルとは比べものにならないはずだ。その眼差しに並々ならぬ決意があることは容易に見て取れる。会えなかった期間のことも含めて、今度ゆっくり話を聞きたいと思った。
「ウ・ザルも! 機工士になったって聞いてたけど……うん、そっちも似合ってる!」
「そりゃどうも……」
「照れるなって」
耳をぱたりと揺らしてウ・ザルは少し苦い顔をする。いつもの空気に少し安堵して、ハルドメルは周囲を見渡した。
義勇兵の中には知った顔も何人かいる。紫水晶のような瞳が美しい、快活なヴィエラ族の女性。今回は珍しく二対の剣を持ってきている。そのそばにいる黒髪のララフェルの少年は、少し不安そうな顔でカーバンクルを抱いている。癒し手が不足しているから頼まれたのだろうか、そのカーバンクルはいつもと違って回復魔法が得意な子だった。
「ハルはどうするんだ?」
名前を呼ばれ、ハルドメルはアレンヴァルドに視線を戻した。すると彼はすぐにはっとした表情で手を横に振る。
「あ、戦ってほしい、ってことじゃないぞ。ただ気になっただけで……」
「ふふ、大丈夫だよ。さっきアルフィノにも確認されたしね」
祝賀会でのことはまだ記憶に新しい。アレンヴァルド達もまた暁の一員として追われる身になったため、政争に巻き込まれるのはもう真っ平だと思ってはいる。ここにいるのは暁としてではなく、『故郷』を解放したい、そしてそんな友に手を貸したいという強い想いからだ。
だが彼女は。利用され、汚名を着せられ、逃げ延びた先でもまた戦って――立て続けに大切な友を、仲間を失った。暁が同盟軍とアラミゴ解放軍との橋渡しをする、その役割すらハルドメルが関わる必要はないと二人は思ったけれど、それでも彼女はここにいる。
「今回の私は、ただ頼まれたからじゃなくて……蛮神と戦う力が必要だからでもなくて……個人的な理由でここにいる。私にできることをやりたい。だから……ううん、自信持って大丈夫! とは言えないけど、でも大丈夫!」
そう言って笑うハルドメルに、二人の友は呆れ混じりの苦笑を零した。その理由のうちに『友のため』が含まれるであろうことが容易に想像できるから。だが今回はそれだけではない、彼女なりの理由があると言う。だから少し安心した。いつも目の前の誰かに手を貸そうとしてしまう、自分より他人を優先してしまう彼女が、自分の意思でここに来たということに。
生き残った負傷者達の確認、間に合わなかった者達の遺体や薬を運びながら、ハルドメルは一人思考を巡らせ続けていた。
(負けたら、だめ、だったのに)
できることは何でもやろうと思った。だがハルドメルができることの中で一番、誰にでもできるわけではない、人より優れていることがあるとしたら、『戦う』ことだった。
それを、全うできなかった。
かの総督――ゼノスが軍を引いたのは、恐らく単なる気まぐれ。運が良かっただけ、なのだ。
誰も、助けられなかった。敵を退けることもできなかった。
――何もできなかった。
何ができる。何が、できる。いずれあの男がまた目の前に現れた時に。
(――負けたら、だめ、なんだ)
骸となった者達を――そこにいる、メッフリッドの姿を目に焼き付ける。年老いた自分の方が何故生き残ってしまったのだと嘆くコンラッドの声が、まだ耳に残っている。
勝ってきた。今までは。だがあの神龍を見た時のように、ハルドメルはゼノスと戦う前から感じてしまった。勝てる道筋が見えないということを。
「ハル」
優しい、だがしっかりとした声にはっとして顔を上げる。気遣わしげな表情のアルフィノがそこにいた。
「君の怪我は……手当はしたみたいだね」
「うん、私は大丈夫……」
その言葉にハルドメルはまた、僅かに息を呑んで閉口する。かつて同じ言葉を返した時のことを思い出したから。アルフィノも気付いただろう。だからこそ、ハルドメルは同じ轍を踏むまいと、一度目を閉じ息を吸った。
「……ごめん、ちょっとだけ……大丈夫じゃない、かも」
アルフィノはそれを聞いて、ほっと安堵の息を漏らした。大丈夫だと言ってしまえば、そうあるように立ってしまう人だ。その重さに気付かぬまま前に進めてしまう。だから、例えほんの少しでもその荷が重いと自覚し、胸の内を明かしてくれるのは、信頼の証でもあると感じられた。
「そろそろうんざりしているかもしれないが……無理だけはしないでくれ。いつだって、君一人が背負わなければいけないことなんてないのだから」
「……いつもありがとう、アルフィノ」
少し力ないけれど、ハルドメルは笑顔で返す。雪の家で俯いていたアルフィノに、今度は自分が励まされている。やったことはその内自分に返ってくるよ、なんて両親は言っていたけれど、確かにそうかもしれないと思いながら。
「また自分のことばっかり考えちゃうとこだったよ……そうだ、リセは大丈夫かな……」
「……また君はそうやって……うん、大丈夫だよ。ヤ・シュトラも酷い怪我だったが……クルル先輩の的確な治療のお陰で命に別状は無いようだしね」
ヤ・シュトラはリセを庇って大怪我を負った。自分を庇って命を落とした親友を持つハルドメルにとっては当然他人事ではない。
だがゼノス率いる部隊に敗北したショックから、僅かながら立ち直った直後にすることが仲間の心配なのだから、相変わらずだとアルフィノも苦笑いする。
ほっと胸を撫で下ろすハルドメルを促してカストルム・オリエンスに向かう。その途中、ふと思い出したようにハルドメルはぽつりと呟いた。
「……ねぇ、アルフィノ」
「どうしたんだい?」
彼女は少し言い淀み、ギラバニアの赤茶けた大地に視線を巡らせた。肌を焼くような暑い日差しと乾いた風が駆けるだけで、先の襲撃が嘘のように、少し気味が悪い程に大地は静まりかえっている。
「……ゼノスのこと、どう思った……? どういう風に見えた……?」
曖昧なその質問に、どう答えるべきかとアルフィノはしばし考えた。
「……私はコンラッド隊長の治療をしていたから、しっかりとあの戦いを見ていたわけではないが……」
記憶を辿る。重症者への治癒魔法は特にエーテル量の操作に気を遣う、集中力を要す作業だ。故に『見た』というよりは、その気配を肌で感じていた、とでも言うべきなのだろうが。
「……襲撃で有利というだけじゃない、その戦闘力も圧倒的だった。……だが、それでも壊滅させずに退いたのは……」
「……戦いを、望んでる……?」
「……そう感じた。こちらが体制を立て直し、もう一度挑んでくることを……戦いを愉しむような、そんな気配が……」
アルフィノがふと顔を上げると、悲愴とも険悪ともとれる表情のハルドメルに思わず息が止まる。睨むような三白眼で怖がられやすいのだと言っていたように、その目つきは彼女を良く知るアルフィノでも微かに震えてしまう程、険しいものだった。
「ハル……?」
「あ……ご、ごめん。うん、やっぱりそうだよね。私も……そう思った。だから次は、絶対負けない」
声をかければ、すぐいつもの笑みに戻った。意気込むハルドメルにどこか釈然としない気持ちを抱えたまま、アルフィノは笑い返した。
(――違う)
ただ力をぶつけ合い、ねじ伏せる、それだけのもの。あの『銀』の鱗を持った、憎悪と破壊の化身として顕現した龍のような。
――ただ一つ、違うとしたら。
(――違う)
神龍はそうあれかしと望まれ生まれた破壊の化身で、そこに感情はなかっただろう。だが、あの男は――戦いを『愉しんでいる』。
(私は……違う)
ぎゅう、胸元で拳を握りしめる。幾度となく潜り抜けてきた死闘の中で感じてきたそれを。胸の奥。深くに揺らめくその熱を。
(違う、よね……)
為す術無く蹂躙された解放軍を。傷付けられた仲間達を見て覚えたのは怒りと、護らなければ、なんとかしなければという意志。だが何度立ち上がっても、あの男に及ばなかった。それが情けなく、悔しい。
闘志だ、とラウバーンは言った。それを信じているし、そう思っている。
――だが、と思ってしまう、自分もいる。それを必死に振り払う。その熱を、否定する。
(ねぇ、違うよね……)
シュファン、と。音にもならない吐息が零れた。
アラミゴ王宮。夕日が照らすその空中庭園で、男は茫洋とした眼でその光景を眺めていた。彼の趣味ではないその場所に、いずれあの『獣』を捕らえ連れてくる算段ではあるが、今はまだ血のように赤い花や異国の植物があるだけだ。
アラミゴ人が、同じアラミゴ人を狩る。先の戦は多少なりとも愉快ではあったが、結局の所いつも通りの凡庸なものであった。逃げ惑う者も立ち向かう者も、皆一様に、この男にとっては弱すぎる。
攻め落とす気など毛頭無い。ぎりぎりのところまで追い詰めて、生きるための爪と牙を研ぐ、その時間を与える。獣は生死がかかった、生きるための戦いでこそ最も怒り、全力で抗う。それをねじ伏せ狩ってこそ、愉悦を得られるというものだ。
――男はふと、ラールガーズリーチで剣を交えた一人のことを思い出した。
どうやら『蛮族の英雄』だったらしく、他の者より腕は立つようだった。だがやはり男にとっては物足りない凡夫の一人。最後の一太刀で男の刀を折ることがなければ、斬り捨てていたかもしれない。
姿を思い出そうとするが上手くいかなかった。どれもこれもつまらぬ獲物だと、最後まで興味を持てなかったせいだろう。だが男を睨め付ける、爛々とした瞳だけは印象に残っている。致命傷を避け何度も立ち上がろうとする姿は、他とは確かに違って見えた。
もしあれが力を付け再び挑んできたならば、少しは愉しめるのだろうか。
闇に侵食された空に、そういえばこんな色をしていただろうかと思いながら、男は――ゼノス・イェー・ガルヴァスはゆったりとした足取りで庭園を後にした。