我輩は猫である。
そんな一文ではじまる物語が、東洋の国にあるらしい。
それを教えてくれたのは、その物語が生まれた東洋の島国から家族と共に長期滞在しにきた、自分とは正反対な真っ白な毛色が美しい妙齢の女性だった。
家族と言っても仲の良い老夫婦二人だけで、この国にもいつか来てみたかったのだという。
当時まだ幼かった私は――否、今も充分若いのだが!――老夫婦の読書趣味に長く付き合ってきた彼女の知的な話と雰囲気に憧れたものだった。
たまたまこの辺りに観光に来ていただけだったので一度会ってそれきりだったが、今でも強く印象に残っている出来事だ。
故に、彼女は今も尚私の理想の女性像だ。
――話を戻そう。そもそも自己紹介すらまだなのだ。
冒頭に述べた物語に倣って。そしてそれを私に教えてくれた彼女に敬意を表して、この一文から始めよう。
――私は猫である。名前は、ヴォーヴァ。
――――――
――魔性の目だ、と誰かが言った。
私の目は所謂オッドアイというやつで、左右の色が違う。片方は空のような青、片方は若葉の緑。
「やっぱり、希少なものというのは人の目を惹き付けやすいのよ。良い意味でも悪い意味でも。あなたのそれは……きっとい良い方になるわ」
彼女がそう言ってくれた通り、私の目は良い意味で人の目を惹き付けた。
人に近づけば『おや珍しい目だ』と撫でてもらえたり、時にはちょっとしたおやつを与えてもらえることもある。普通に生きる猫よりは、多少良いことがあるというくらいのものだが。
この街は元々野良の犬猫に寛大で、厳しい冬を越せるようあちこちに小さな寝床兼餌場となる場所を作ってくれているし、食事を置いて行ってくれる人間もいるおかげでそうそう飢えることもない。不妊治療をされたものも多く、必要以上に数が増えることもない……らしい。この辺りは人間の都合なので詳しくは知らないのだが。――ちなみに私はまだ受けていない。
まあそんなわけで、酷く不自由するということもなくのんびりとした生活を送っていた私だったが、ある日不思議な出会いをすることになる。それもまた、この目が引き寄せた『良いこと』なのだろうか。
その日、私はいつものように寝床から少し離れた公園へやってきていた。
ここで休んでいく人、通り過ぎていく人達を眺め、時には会話に耳を傾けるのが一つの趣味だ。
昔出会ったあの老夫婦や彼女のように多くの知識を、或いは小さな子どもたちの他愛ない話を。そんなものを聞くのが好きだった。
だが生憎その日は雪がチラつき始め、早々に切り上げようとしていた時、この寒空の下でベンチに腰掛けるものがいた。
かなり大柄な男で、手には買い物をしてきたのだろう袋を抱えている。大きな体を寒そうに縮こめ、ほぅと白い息を吐きぼんやりとしていた彼はふと目線を上げ、こちらに気付いた。
きょとん、という表現が似合うだろうか。青の双眸が私を捉えて動きを止める。やはりこの目が珍しいのだろうかと思いながら近づいてベンチに飛び乗り、隣に座る。
彼は怖がらせないようにとそっと手を伸ばしてきた。大きな手が私の黒の毛並みを撫でる。
心地よさに目を細めされるがままになっていると、彼は少し笑顔になった。
「君は野良?」
見れば分かるだろうに、戯れにそんなことを訊いてくる。私がにゃあと一鳴きすると、彼は私を抱き上げて目線をあわせた。
「……よかったらうちに来ないか?」
私の目を珍しがって可愛がってくれる人間は多くいたが、不思議と『共に暮らそう』という人間は現れなかったし、私自身誰かについていこうと思ったことはなかった。
たった今、出会ったばかりの猫相手にそんなことを言うなんてとは思ったけれど、彼の青い瞳に見つめられ、私はにゃあと返事をしていた。悪意のない、純朴そうなその目に惹かれるものがあったからだ。
――ひょっとしたらお互いに、ある種の『一目惚れ』というやつをしたのかもしれない。
――――――
そんな出会いを経て、ユーリと共にこの家で暮らし始めて早くも一ヶ月が過ぎようとしていた。
動物と暮らすのは初めてらしく、最初は手続きや病院や必要なものの買出しでばたばたしていたユーリも今ではすっかり慣れた様子で食事を用意してくれる。
私だけ家に残すのはユーリもまだ心配なのか、仕事に行く時はケースに入れて連れて行ってくれるので色々な場所を見て回ることができたし、近所の買い物であれば一緒について歩く。以前暮らしていた寝床の仲間達とも再会することもあり、充実した生活を送っていた。
今まで仲間達と暮らしていた生活も悪くはなかったけれど、風のない屋内、しかも暖房付きがこんなに快適とは思わずついついだらけてしまいがちだ。人間は太っていても猫は可愛いとは言うが、私としては動き辛くなるしそんな見苦しい姿にはなりたくない……と適度に動き回っている。
ああしかし悲しいかな、本能というのは欲望に忠実で抗いがたい。あまりだらだらしては――そう思いつつも部屋の温もりと寝床の柔らかな毛布に包まれて眠るのは最高に気持ちよく、今日も私を眠りへ誘う……。
「……ああもう……勝手にしてくれ」
心地よく微睡んでいると、珍しく怒ったような、苛ついたようなユーリの声が聞こえた。
顔を上げて部屋を見回すと、リビングのソファに座り、ノートパソコンに向かって喋っているユーリがいる。
欠伸をしつつ起き上がりぐーっと体を伸ばす。寝床を抜け出して音を立てぬようそっと家具の上へと登り、棚の上を伝って歩いて画面が見える位置まで移動する。
そこには一人の男が映っていた。
黒の髪に、着ている服も黒のようだ。しかしその目の色を見て私は固まってしまった。
――色違いの双眸。空の青と、若葉の緑。左右まで一緒だった。
『ユーリ』
「仕事のメールは送ったぞヴォロージャ、もう切るから……」
名前を聞いてまた驚いた。
ヴォロージャ……確か、ウラジミールという名の愛称だ。そして、ユーリが私に与えた名はヴォーヴァ。これもまた、ウラジミールの愛称だった。
――正直、ショックがなかった言えばウソになる。
「ん? どうしたヴォーヴァ」
通信が切られた後、棚から降りてノートパソコンの置いてある机に上がると画面やキーボードをペシペシと叩いた。ピーッピーッとエラー音が鳴るのを無視しているとユーリに抱き上げられる。
「ぅにゃっ」
「あいたたた……怒ってる?」
膝に下ろされ撫でられるが、軽く爪を立てながら手を甘噛みしてやる。おしとやかな女性を目指してはいるが、怒るときは怒るし嫉妬だってするのだ。
なんだあの男は。どうして私にこの名前を? 目が同じだから? あの男と重ねていた? ……ああもう、嫉妬するなという方が無理な話だ! がぶがぶ。
「痛い痛い……ああそうか、話してなかったっけ、ごめん」
先ほどまで男が映っていた画面をちらりと見た後、ユーリは私を宥めるように撫でながら話をしてくれた。
ユーリはあの男――ウラジミール・マカロフというらしい――とちょっとした喧嘩をしたらしく、それからすれ違いの生活が続いているという。
そんな時に私と出会い、何かしらの縁を感じたのだと。
「そりゃ、最初は喧嘩のことで落ち込んでたし……ちょっとだけ重ねてたっていうのもあったけど……あ痛……ごめんごめん」
ユーリの膝の上で転がりながらまた軽く爪を立て甘噛みする。ユーリは苦笑しながら私を抱き上げて目線を合わせた。
「今はそんなことないし、ヴォーヴァのことも大切に思ってる」
眉尻を下げて笑うユーリは、確かに私を愛してくれていた。
食事や寝床は充分に与えてくれるし、暇があれば構ってくれる。惜しみなく愛情を注いでくれているとわかるから、私もこの一ヶ月程の間ですっかり彼に心を許したのだ。
あの男――同じ名前だし、ヴォロージャと呼ぶような仲でもないから、マカロフと呼ぶことにしよう――のことはまだ少し気になるが、こちらからもこつんと額をぶつけて仲直りする。
ユーリは安心したのか、笑って夕飯の準備に取り掛かった。
しかしマカロフという男、話を聞いていればどうもユーリとは『特別な仲』のようだが、こんなに優しいユーリに寂しい思いをさせるとは。
――まあそのおかげで私がこの家に住むことになったのかもしれないが、それでも少々許しがたい。精々帰ってきた時は、私とユーリの仲に嫉妬すればいいのだ。
――――――
「……何だソレ」
「何って、猫」
その日は意外とすぐにやってきた。
あれから数日後、ずっと仕事で飛び回っていたらしいマカロフが唐突に帰ってきたのだ。
ユーリに抱き上げられ紹介される。――近くで見ると少々悪人面のような気がしないでもないが、ユーリが選んだ男ならばいいとしよう。
「この子はヴォーヴァ。女の子だけど」
「いや名前はどうでも……」
そう言いつつユーリがキスしてくるので私も負けじと頭を擦りよせ、ちら、とマカロフを見た。ふふん、どうだ悔しいか。
「…………」
自分と同じ名前、同じ目の色の私に流石に思うところがあるのだろう。
マカロフがむ、と眉を寄せて私を見た。悪人面だとは言ったが、こうしてみると意外と子どもじみた表情をするようにも見える。
ユーリはまだ完全に彼を許したというわけではないらしい。見せ付けるようにして私を構うユーリに、以前のような嫉妬は湧かない。むしろマカロフの気を引きたい、そんな態度がかわいらしく思えた。
私自身もマカロフにユーリとの絆を示せて少々得意げになっている。
これからもユーリに甘えつつ、二人の様子を見守ることにしよう――そう思いながら、私はマカロフに私を抱っこさせようとするユーリの腕からするりと逃げ出した。
初めての三人での食事が終わり、シャワーを浴びたユーリとベッドでごろごろしていると相変わらず不満そうな顔のままのマカロフがシャワールームから出てきた。
「……ユーリ」
「何?」
ああ、ユーリはまだ少し拗ねているらしい。私を抱きこんだままマカロフに顔を向けることなく返事をする。
流石に怒ったのか、マカロフがベッドに乗り上げると私をつまみ上げてベッドの下に下ろしてしまった。レディになんて雑な扱いをするのかこの男は。
「ちょっとヴォロージャ……!」
「いい加減にしろユーリ!」
「どっちがだ、元はと言えばヴォロージャが……」
――今更な話ではあるのだが、私は人の言葉を完全に理解しているわけではない。今のように――何の話かはわからないが、専門用語らしきものが多い会話はく断片的に、大雑把な意味しか読み取れない。
だが、まあ、猫にとってはそれで充分なのだ。
夫婦喧嘩は猫も食わな……いや犬だっただろうか……とにかく原因は案外些細なことであったりするのだから、他人が気を揉む必要はないのだ。
「……もう一ヶ月だぞ」
言い争っていた二人が少し静かになると、ベッドの上でユーリに馬乗りになったマカロフがそう呟いてすっと頬を撫でた。
お互い譲れない部分はあるようだが、一見冷徹に見える男の、少々拗ねたような口ぶりに私は溜飲が下がる。案外、この男もかわいい所があるのかもしれない。
寂しかったのはきっとお互い様なのだろう。ユーリも小さく息を吐いて、頬に当てられた手に刺青の入った自分の手を重ねた。
ユーリは少し体を起して、よく私とするようにこつんと額をぶつけた。囁きが聞こえ、どうやら問題が解決したらしいことを悟った私は足音も立てずそっと寝室から抜け出した。
まだ暖炉の温もりが残るリビングで、ソファに置かれたままの毛布の上で身を丸くする。
くあ、と大きく欠伸をして目を閉じた。
――明日は少し早起きをしよう。そして二人が目覚めるより前にベッドに潜り込んで、間に割り込んでもう一眠りと決め込もう。
ユーリは私を無下にはしない。きっと一緒になって二度寝してくれるに違いない。
マカロフの拗ねた様子を想像するとちょっと可笑しくて笑みが浮かぶ。なんだか仲良くなれそうな気がしてきた。
寝室から微かに聞こえる恋人たちの睦言を子守唄代わりに、私の意識はゆっくりと眠りに落ちていった。