「これとこれとー……あーこれは苦手って言ってたっけ? まいっか」
ぽいぽいとカートの中に商品を投げ込みながら、ローチはふと足を止める。
(……いいのかな……)
自分がやろうとしていることを思い返し、躊躇う。それはきっと、ゴーストが望まないことだろうから。
(……ううん、やるって決めたからやる。俺がやりたいからやる!)
ふんと鼻息も荒くローチは買い物を再開する。
ローチはもう決めたのだ。自分勝手にやってやるのだと。
――――――
部屋に入るなり、ゴーストは怪訝そうに眉を寄せた。
「あ、おかえり」
「……何だこの匂い」
ゴーストの殺風景な部屋の中に広がる、食欲をそそる香り。その元を探そうと視線を動かせば、簡易キッチンに料理が所狭しと並んでいる。
「あ、まだ夕食とってないよね?」
「ああ……つか、だから何だよこれは……」
「何って……誕生日だから食事くらい豪華にと思って」
「は……」
言われてようやく、今日はローチの誕生日だったということを思い出した。
そういえば、昼間にもオゾン達にやんややんやと言われていた気がする。
「酒もいいもの用意したんだ、ほら早く着替えて着替えて」
「……しょうがねぇな」
妙に上機嫌なローチにゴーストは苦笑しながら肩を竦める。
「ったく……ガキじゃあるまいし……自分の誕生日がそんなに嬉しいかぁ?」
ゴーストのその問いに、ローチは料理をテーブルへ並べながら笑って答えた。
「そりゃ、自分のも嬉しいけど。今日はゴーストの分も一緒だから」
「……はぁ?」
平素のゴーストからは考えられないような素っ頓狂な声が上がる。ローチの言ったことが、本当に理解できなかったからだ。
鼻歌すら歌いながら食事の用意をするローチを前に数秒の間固まっていたゴーストは、以前誕生日の話をしたことをじんわりと思い出してきた。
ゴーストは自分のことを話さない。誰に対してもそうだ。それは、所謂恋人のような間柄であるローチも例外ではない。
『そういえば、ゴーストの誕生日はいつ?』
ローチは子どもではないから、ゴーストが話さないことをあれこれと無理に聞き出そうとすることはなかった。
けれど、ずっと訊く機会を窺っていたのだろう。仲間の誕生日の話をしていた時、まるで今思いついたかのように訊ねてきた期待に満ちた目を――それを曇らせてしまったことを思い出して、ゴーストは気付かれぬようそっとため息を吐いた。
ローチを怒らせ、泣かせて。けれど結局ローチはそんなゴーストを受け入れて、許してしまった。
何故、と思いながら、ローチの想いに身を委ねる卑怯な自分を、ゴーストは自覚している。
「――ゴーストが悪いんだ」
固まったまま動かないゴーストに背を向け、ぽつりとローチが呟いた。
「ゴーストは何も教えてくれないから。だから俺も勝手にする」
その声は悲哀を感じさせず、どこか開き直ったような空気さえ纏わせて。
「別に、いいでしょ? 誰だって一年に一回歳をとるんだから、いつ祝ったって」
何だその理屈は、と呆れはしたが、笑うことはなかった。振り返った表情は柔らかかったものの、眼差しは真剣そのものだったから。
「だから、俺と一緒の日に一緒に祝ったっていいでしょ」
駄目? と。酒瓶を取り出しながら訊ねる声は微かに震えたような気がしたが、ゴーストは何も言わずにバラクラバとシューティンググラスを外して苦笑した。
「……しょうがねぇな」
「ま、駄目って言われても勝手にやるんだけどね!」
「……そうかよ」
――――――
腕によりをかけて作ったローチの料理はなかなかのもので、殆ど二人の腹に収まっていた。
ほろ酔いで機嫌のいいローチはこのまま泊まると駄々をこね、仕方なくシャワー室に押し込んだ。
その後にゴーストもシャワーを浴びてベッドに戻ると、寝転がったローチがにへらと笑いながら両腕を伸ばしてきた。それを無視してその隣で横になると不満そうな声が上がる。
「しないんですかー」
「酔っ払いの相手はしたくねぇ。今日は疲れてんだ、寝る」
「ふーんいいですよーだ」
背を向けて寝転がったゴーストに、ローチは後ろからそっと手を伸ばす。
抱きつきでもするのかと思ったそれは服を掴んだだけで、背中にこつんと額をつけたような感触があった。
「へへ~、今日は、ありがと」
「……一緒に飯食うなんてよくやってることだろ」
「ちがうよ、全然ちがう」
今日は誕生日だよ? と、ぐりぐりとゴーストの背中に頭を押し付けながら言う。子犬が甘えるようなその仕草に、ゴーストから苦笑するようなため息が聞こえた。
「…………一応祝っといてやるよ、オメデトウ」
「え、今? しかも心篭ってなくない?」
「じゃあ取り消す」
「冗談だって。ありがとうゴースト。それから、ゴーストもおめでとう」
「さっき食ってる時に聞いた」
「うん、言った」
「あと今日じゃねぇ」
「わかってるよ」
他愛のない話をしていたら、少しずつ眠気がやってくる。
ゴーストが喋るたびに微かに伝わる振動も心地いい。それを感じながら、ローチは一度目を閉じる。
――例えるなら、そう。『家』のようだ、と、思った。
ゴーストという人は、一つの家に住んでいる。
扉は閉まり鍵がかけられていて、窓も同じように閉ざされた上でカーテンも閉め切ってある。
ローチはゴーストが好きでだから、いつも家まで会いにくる。
ゴーストは、ローチが来ても追い返すことはしない。庭で遊んでも怒らないし、ゴースト自身は家から出てきて話をしてくれるし、時にはお茶を出してくれることもあるだろう。
けれど、家の中に入れてくれることは、一度もない。ゴーストからローチに会いに来ることも、家に招くことも、ない。
ただじっとそこにいて、ローチを受け入れてくれているにすぎない。
例えローチが去ってしまっても、追いかけることもしないだろう。
『家』は動かないし、家主が許さなければ扉が開くこともないのだ。
――いいや、家なんてものじゃなく、ただ扉があるだけの地下シェルターなのかもしれない。
(追いかけなくても、引き止めるくらいはして欲しいな~)
そんな子どもじみた想いが顔を覗かせる。
(カーテンくらい、開けてくれないかなぁ)
何なら窓を破ってやろうかと物騒なことを考えたこともあるけれど、傷つけたいわけではなかった。
(だめかなぁ)
ゴーストの服を握る手に、きゅ、と力が篭る。
(……わかってるよ)
けれど、ローチはこうも考えたのだ。
『家』は何をしたって動かない。住んでいる人間も、そこから動かない。
動かないのなら、ローチも動かなければいいのだ。
去ることなく、ずっと庭で遊んでいればいいのだ。
ゴーストはローチを追い出すことはしない。きっと庭にテントを張ったって怒らないだろう。
生憎と、野宿は得意だ。
そしてゲイリー”ローチ”サンダーソンという男は、渾名の通りしぶとくもある。
自分がいなくなった後で、別の誰かが庭を占拠するようなことがあれば、きっとそちらの方が余程耐えられないから。
(……これでいいよね)
隣にいることが許されるのなら。
例え雨風にさらされようとも、泥だらけに汚れてしまっても、ゴーストがローチを拒否しないのなら、それでいい。
望むものが、与えられなかったとしても。
じわ、と熱くなった目元を誤魔化すように笑う。
もう寝てしまおう。やりたいことはできたから。そう思いつつ、最後にほんの少しの願いを込めて、呟いた。
「来年も一緒にお祝いしよう、ゴースト」
何てことのない、一言だった。
けれどそれは確かに、ゴーストの心に触れる。
「……? う、わっ……ん、んっ」
ゴーストは体を起し、急に温もりが離れて驚いているローチへ馬乗りになってキスを落とす。ローチがもがけばベッドのスプリングが悲鳴をあげた。
「ん、ふ……っ……ちょ、ちょっとっ」
ゴーストを押し返しながらローチは片腕で顔を覆った。抵抗はしていても、肌は赤く色づいている。
「……しないって、言ったくせに……」
「気が変わった」
はぁ、と熱い吐息を漏らしながらローチはあくまで抵抗する意思を見せ、ゴーストに背を向けて枕に顔を埋める。
――枕に押し付けて誤魔化した涙が、キスのせいではないことをゴーストは理解していた。
「あんたが寝るって言うから俺もその気になってたのに……ッ……ん……ぁ……したいなら、一人で勝手に……っ」
「まぁそう言うな。『誕生日』だろ? サービスしてやるよ」
体に手を這わせながら項に軽く歯を立てる。慣らされた体が陥落するまでにそう時間はかからない。
余計なことを考えていられなくなるくらい、ゴーストは快楽の源泉を責めてローチを啼かせ続けた。
――――――
事が終わった後、ぐったりとして動けないローチの体と自分の体を軽く拭いてから、ゴーストはヘッドボードに背を預けるように座って一息ついた。
ふと、ベッドについた左手が温かいもので覆われる。ゴーストの方へ体を向けて横になったローチが、うとうとと眠たそうにしながら自分の左手を重ねていた。
握るように少し力を込めたり、するすると撫でたりしながら、ゴーストの左手を弄んでいる。
「……眠いなら早く寝ちまえよ」
「んー……」
曖昧な返事……のような唸り声を上げながら、ローチはにへらと笑った。
そんなローチを見て何か――言いようのない感情を覚えて、ゴーストは反対の手を緩く握った。
「……なんか、欲しいものあるか」
「……?」
薄らと目を開けたローチは、どういう意味かわかっていないのだろう。きょとんとした顔でゴーストを見返した。
「誕生日」
「……あぁ……ふふ」
「なんだよ」
言われて理解すると、ローチはくすくすと小さく笑った。何を笑われたのかわからずに眉を寄せていると、またするりとローチの指が左手を撫でていく。
「日付変わっちゃったのに今? って思って……ふふ……なんかゴーストって、ワンテンポ遅れてるよね……さっきだって……」
「……悪かったな」
ローチは一頻り笑った後、飽きもせずゴーストの手を撫で続けながらしばらく思案した。
(――欲しいなぁ)
どれだけ近くにあっても、手に入らないものがある。
(――だめかなぁ)
手に入らないのだと分かっていても、欲しいものがある。
(――だめ、かなぁ……)
そのまま寝てしまうのではないかと不安になり始める頃、行為で擦れた声でようやくぽつりと零した。
「……一緒にご飯……食べてくれるだけでも、嬉しかったよ……」
「いらねぇってことかよ」
「違うよ……そうじゃなくて……」
激しいセックスの後で疲弊している体は眠りを欲している。その欲求に抗いながら、ローチは眠たげな声で続ける。
「……欲しいもの……あるんだ……あるんだけど……」
ゴーストは微かに睫毛を震わせた。
それに、気付いてしまった。
眠りに落ちそうになりながら、穏やかに笑うローチの視線の先にあるものに。
何となくスキンシップしているだけだと思っていた指先が、ある一つの場所をしきりに撫でていることに。
「……欲しいけど……たぶん……手に入らないんだとおもう……」
「……、……」
返事をしようにも言葉は浮かばず、舌はもつれて役に立たない。ローチがそれに気付くことはなく、ただ胸を刺すような痛みだけがゴーストを苛んだ。
じわり、とローチが触れる場所が熱を孕んだような気がした。
「お金とかで買えるものじゃないんだ……すっごく欲しくて……おれにとっては、すっごく価値のあるものなんだけど……あんたに…………他のひとにとっては……そうじゃないかもしれないから……」
子猫がじゃれて爪をたてるように。子犬が戯れに甘噛みするように。ローチの爪の先が、羽根の様な軽さでその場所に当たった。それは一瞬で離れてしまったけれど。
「……あぁ……そうだ……それはいいから……かわりにさっきの……約束して……」
「…………?」
「もうわすれた……?」
いよいよ眠りに落ちそうなローチの様子に、ゴーストは瞬時に記憶を遡った。
「……来年、も……一緒に……?」
独り言のように呟かれた言葉で、ローチはふわりと笑顔になる。
「お前……そんな、……っ……」
『そんなことでいいのか』と訊ねそうになって、ゴーストは慌てて口を噤んだ。
そう、『そんなこと』なのだ、『ゴーストにとって』は。
でも、ローチにとっては――?
「……あのなぁ……俺らの仕事わかってんのか? 明日には死んでるかもしれねぇってのに……来年なんて……」
呆れたように笑うふりをした。来年なんて、あるかどうかもわからない先のことを約束するよりも、『今』何かを貰うなり、休みにどこかへ一緒に出かけるなりしたほうがいいだろうと言外に言ったつもりだった。
「わかってるよ……だから……やくそく……するんだ……」
いつ死ぬかわからないからこそ、未来の約束をするのだと。
その約束を果たすまでは絶対に死ねないという、生きる執念と希望になるのだと、眠たげな声で舌足らずに喋る。
ゴーストが上手く答えられないままでいると、ふと左手を撫でていた動きが止まって腹の底が冷えた。
そろりと離れてしまいそうな気配を感じて、無意識に言葉が転がり落ちる。
「しょうがねぇな……、……それでいいなら、約束してやる」
その言葉で、ローチは微かな安堵の息を吐いてゆるゆると笑った。
「ありがとう……ゴースト……」
「……あぁ」
「……いしてるよ、…………」
「…………」
言葉は寝息へと変わり、例えゴーストが返事をしていたとしても、その耳には届かなかっただろう。
自分の左手に重ねられたままのローチの左手に、ゴーストはそうっと右手を伸ばした。
左側に体重がかかってベッドが僅かに沈む。指先が触れそうになった所で止まり、そのままベッドに落ちそうになる。
以前もそうやって、涙を見せるローチに触れられなくて、余計に苦しむ顔をさせてしまったことが脳裏を過ぎり、重くなる腕をもう一度動かして壊れ物を扱うようにそっと触れてみた。
ゴーストの体温よりも温かい手。その一箇所を、静かに撫でる。
――ローチがずっと撫でていたのと同じ、左手の、薬指を。
「……馬鹿だなぁ、お前」
どうして開き直ってしまったんだ。
こんな人間といたって、お前が苦しいだけだろう?
よりによって、こんな。
「……来年も……一緒に…………か」
そこに込められた意味に、ゴーストはちゃんと気付いていた。
来年も、『二人共生きて』、一緒に祝おう。
来年も、『二人の誕生日を』、一緒に祝おう。
ローチに触れる指先が、ぴりぴりと小さく痛むような気がした。
安らかに眠るローチの顔が、真綿で首を絞めるように柔らかく優しく、ゴーストを責めた。その真綿は、ローチの愛情そのものかもしれない。
かなしい顔をさせたいわけじゃない。
何もかも諦めた顔で笑って欲しいわけじゃ、ない。
けれど、ゴーストが返せるものなんて、本当になくて。
(なぁ……来年なんて、遠すぎるよ)
過去に縛られる『亡霊』に、未来はあまりにも眩しすぎる。
明日のことでさえ――たった数秒先の未来でさえ、夢見ることが出来ない。
未来を見せるのは、いつだってローチだ。ローチがゴーストを『今』へ、そして『未来』へ引っ張っていく。
『来年も一緒にお祝いしよう』
与えられるものをただ受け入れ、何も返すことができない。手を伸ばしてやることもできないこんな自分の隣に、ローチはこの先も居座るつもりらしい。
そんなの、余程の物好きか、余程の馬鹿か、その両方だ。
「……馬鹿野郎」
望むものを、何一つ与えてやれないのに。
「……やっぱ馬鹿だよ、お前」
馬鹿馬鹿言うな、と怒るローチが容易に想像できて、ゴーストは小さく笑った。
『愛してるよ。サイモン』
いつかの夜、寝ているゴーストに向かってローチはそう言っていた。
それを思い出すたびに、仄暗い喜びと悔恨が押し寄せてくる。そしてやはり、ゴーストは何も、返すことができない。
返す資格も、きっとない。
「 」
唇が紡ぐ言葉は音になることなく空気に溶け、ゴーストはただローチの額にキスを落としただけだった。
そっとローチの左手を持ち上げると、失ったものを求めるかのように指が空をかいた。
苦笑しながら、ローチに向かうように横になり、その手を握りなおしてやる。
安心したように穏やかな寝息をたて、緩く握り返してくる手が、どうしようもなくゴーストの心を震わせた。
「……約束してやったんだ……勝手に死ぬんじゃねぇぞ、ゴキブリ野郎」
そう言って、ゴーストもゆるゆると目を閉じる。
――来年も、生きていられたら。
その時は、もっと、幸せになっているといい。
例え、傍にいるのが自分じゃなくても。
愚かな男の不器用な愛情を、歪に弧を描く月が嗤っていた。