明けない夜を眺めながら

「マヌケ」
「酷いです……」
「うるせー事実だろうが特殊部隊のくせに風邪ひく馬鹿がどこにいるんだよああここにいたなそう言えば」
「すいません……」
「ただでさえ人手不足だってのに」
「もー……勘弁して……げほっ……ください……」
 もごもごと毛布を被りながら、熱のせいなのか少し潤んだ瞳をゴーストへ向けてそう言うと軽く鼻で笑われてしまった。
「まぁその辺にしてやれゴースト。どうも任務先で性質の悪いウィルスをもらってきたみたいだからな」
「鍛え方が足りねぇんだ。他のやつらはピンピンしてるってのに……」
 尚もぶつぶつと文句を言うゴーストに苦笑しながら、マクタビッシュは布団の中で小さくなっているローチの髪をくしゃっと撫でる。
「すみません……」
「わかってるよ。まあ、人手不足なのは事実だからな……あまり無理は言いたくないがしっかり休んで早く良くなってくれ」
「了解です」
 その返事に力強く頷くと、マクタビッシュは仕事があるといって先に出て行った。
 部屋に残されたのはゴーストとローチ。……と。
「ローチ、飲み物ここに置いとくからな。食べ物もあるし、何かあったら携帯で連絡しろよ」
「ありがと、アーチャー……」
「俺はこっちで寝てもいいんだけどなぁ……あいつら煩いし……」
 同室のアーチャーは念のために今日はオゾンとスケアクロウの部屋に泊まることになっている。比較的 物静かなアーチャーが賑やか担当のあの二人に絡まれるのを想像してくすくすと笑った。
「そろそろ行くぞアーチャー。感染しちまうと面倒だからな」
「……中尉はもっと優しくしてやってもいいと思いますけどね」
 ふー、とどこかからかいを含んだため息をつくアーチャーにゴーストのサングラス越しの目が険しくなる。
 アーチャーという味方(?)がいることで少し心強くなったのか、ローチもついその流れに乗って口を出した。
「そうだそうだー熱で苦しむかわいい後輩にうさぎリンゴの一つでも作ってくれたらどうですかー」
「はぁ……?」
 バラクラバの下で青筋を立てていそうな声に一瞬怯むも、負けじと言い返して。
「だって風邪のときは定番だって日本の漫画で……」

 言葉が途切れたのは、何故かゴーストの苛立ちがふと消え、戸惑ったように見えたからだ。

「…………ったく……馬鹿とガキは風邪ひかねぇんじゃねぇのかよ」
「ひどい……」
 めそめそと泣くふりをすると、アーチャーが慰めるようにぽんぽんと毛布の上を叩いていった。
 アーチャーに続いて出て行こうとするゴーストの背に向かって、少々恨みがましい視線を送るけれど、振り返る素振りなどあるわけもなく。
「…………」

 別に、甘やかしてほしいわけじゃない。そんな性格で無いことは誰よりもよく知っているのだから。
 ただ一言くらい、早く治せとか、そういう類のことを言ってくれてもいいのではないか。

 ――仮にも……。

(……恋人……のつもりなんだけどな……)
 はっきりと、そういう関係だと言葉にしたことはない。否、そもそもゴーストが好きなのだとローチが迫ったから始まった関係であって、そういえばゴーストからの言葉というのは、なかった気がする。これからも、恐らくないだろう。
 休暇が合えば共に過ごすし、夜はベッドを共にする。セックスフレンドという程乾いた関係ではなく、甘く濃密な時間を過ごす事だってある。
 ……であるのに、はっきりと『恋人』だと言い切ることが躊躇われるのは、この関係が、ローチの意思一つで終わってしまうかもしれないものだからだ。
 自ら手を伸ばすことをしないゴーストに、ローチが必死にしがみついているだけだからだ。

 だが、それでもいい、と。この関係を受け入れたのもまた、ローチだ。

「うー……」
 今晩一晩は高熱にうなされるだろうと軍医に言われたとおり、じわじわと思考が熱に侵食され始める。
 考えるのが億劫になって、ローチはゆっくりと瞳を閉ざす。受け入れたはずなのに、結局こうしてうだうだと悩んでいる自分を笑って、時折出る咳に苦しみながらも意識はゆっくりと眠りに落ちていった。

――――――

 しゃり。しゃり。
 そんなかすかな音を聞いた。
 どれくらい目を閉じていたのだろう。数時間か、あるいは数分しか経っていないかもしれない。
 体中が酷く熱くて思考もふわふわしている。本当に目覚めているのか、まだ夢の中なのかわからないほど意識は混濁していた。
 僅かに潤んだ視界で何かが動いた。ゆっくりとベッドに近づいてきたその人は、そばにあった椅子に腰掛け、ローチの額にそっと手を当てた。
 熱が上がっているからそう感じるのか、その手はひんやりとして心地いい。
 眉を寄せ、まるで自分も苦しいかのような顔でローチを覗き込んでいるところを見ると、先ほどまで拗ねていた自分が少し恥ずかしくなる。
 冷たい手に優しく顔を撫でられ、それに釣られるように、ほろりと声が零れた。

「……サイモン……」
 言ってしまってから、あ、と思った。
 その名は本来、自分が知っていてはいけない名前だったからだ。しかし彼は僅かに瞼を震わせただけで、むしろ「ん?」と聞き返してすらきた。
(……夢……?)
 きっと現実ではあり得ないだろうやり取りに、夢なのだろうかと首をかしげる。過去をひた隠す彼が、こんなにもあっさりと受け入れるはずがない。
 不思議に思いながら少し視線を動かすと、そこにはあるはずのないものが用意されていた。
「……なんで……?」
「……なんで……って……お前が作れって言ったんだろうが」
 そこには、うさぎを模した形にされたりんごが二つ、ちょこんと皿の上に鎮座していた。
 信じられない光景に、しかしローチはふと納得した。
(……やっぱ夢……だ……)
 彼が表に出さない優しさをローチは知っていたけれど、あんな下らない冗談で本当にこのりんごを用意するなんて、俄かには信じがたい。
 先ほど『サイモン』と呼んでしまった時のことも踏まえて、これはきっと夢なのだ、と。熱に浮かされた思考でぼんやりと思った。
 例え夢だったとしても、ローチはこのシチュエーションが嬉しくてふふ、と密やかに笑う。
「……サイモンが作ったんだ……?」
 夢ならば何と呼んでも構わないだろう……そう思ってもう一度その名を呼んでみるが、やはり彼はそれを咎めなかった。
「まあな」
 ひやりと冷たい彼の手を握り、もっとと言うように顔に押し付けると、親指の腹で頬を撫でられる。
 ――と、喉に埃でも入ったのか、一度咳き込むとなかなか止まらなくなり、げほげほと何度も息を吐き出して苦しさに喘いだ。
 彼はローチを落ち着かせるように背中を撫でながら、反対の手で生理的に出た涙を優しく掃ってくれる。
 夢でも苦しいんだなぁと頭の片隅で考えていると、彼は困ったように笑った。
「……今は無理そうだな……もう少し寝てろ」
 その言葉に、ローチは慌てて首を振る。駄々をこねる子供のように、彼の手をぎゅっと握りなおす。
「今……今がいい……」
「別に盗ったりしねぇよ」
「違……けほっ……だって夢、だから……寝たら消える……折角サイモンが、作って、くれたのに……」
「…………」
 咳き込まないように気をつけながらゆっくりと喋る。夢の中のサイモンは、大きな子供のわがままにくつりと笑うと、「じゃあ今は一口だけな」と答えてフォークに刺したりんごを差し出した。
 開いた口に冷たい果実が触れ、少しだけ力を入れて噛み付いた。

 しゃく。

 噛み切った果実が口の中に転がり、爽やかな甘味と酸味が広がる。
 ゆっくりと咀嚼して飲み込むと、腫れた喉を通るむず痒さにまた咳き込みそうになるのを耐えた。
「うまいか?」
「……ん、ありがと……」
 サイモン、と。
 夢だとしても、その名を呼べることが嬉しくて、苦しい。
「でも意外だな……こいうの……作れるの……」
 彼の手を握ったまま、また混濁してきた意識の中でゴーストがぽつりと呟いた。

「――昔、」
 その言葉が、ローチの意識を呼び戻す。
「……昔……甥にせがまれて……作ってやったことがあるんだ……」

(……むか、し……)

 まるで、固く固く閉ざされてきた扉の隙間から、微かに明かりが差し込んだようだった。
 僅かに苦しそうなその声が、かすかに震えた指先が、言葉以上にローチの心を揺り動かす。

「……ゲイリー……?」
 気付けば両の目から、体の熱以上に熱い雫が静かに流れ落ちてシーツに染みを作った。
「……めん……サイモン……」
「……なんで、謝るんだ……」
 戸惑う声も、頭を撫でる手も何もかもが優しくて、ローチはただ涙を流すことしかできなかった。
「……思い、出させて……ごめんね……」
「…………ゲイリー」

 許しを請うように、握り締めた彼の手に唇を寄せる。

 ――これは、夢だ。
 今食べたりんごも、今彼が語ってくれた言葉も、全て自分の頭の中で作り出されたものだ。
 だが、例え夢であっても、苦しげに過去を語らせてしまった自分を悔いた。
 自分の軽率な言葉が、彼の中にある傷をえぐるような真似をしてしまったのではないか、と。
 そう考えると、どうしようもなく苦しくなる。彼を苦しめたいわけではないのに、どうしてうまくいかない――。

 静かに流れ続ける涙を、彼の指がそうっと拭っていく。その表情は柔らかく、真摯だった。

「ゲイリー……いいんだ、ゲイリー」

 お前が謝る必要なんて、なにもないんだ。

 その声と、頭を撫でる手つきがあまりにも優しすぎて、ローチはまた涙を零した。

 どうか目を覚ました時、優しいこの人が傷ついていませんように。
 どうか、夢の中だけの出来事でありますように。

 ただそれだけを願って、ローチは何度も握った手に口付けながら祈っていた。

 小さなすすり泣きが寝息に変わる頃、男は彼の涙の跡をなぞる。
「……いいんだ……ゲイリー……」
 本当に謝るべきは自分の方で。
 むしろ、感謝しているくらいだった。
 憎しみに塗れすぎて、自分でも忘れかけていた、穏やかだった日の記憶を思い出せたのだから。

――――――

 がさごそという音で目が覚める。
 薄らと目を開け意識がはっきりするのを待っていると、視界にあるものに気付いて飛び起きた。
「……ッい……ったぁ……」
「あ、起きたか。もう朝だぞ。つっても大尉は今日一日休んでいいって言ってたけど」
「あぁ……うん……」
 急に起き上がったせいで痛む頭を押さえながらそれを見た。心臓が僅かに鼓動を速める。
「あのさ……これどうしたの」
「ん? あー」
 サイドテーブルに置かれたもの――うさぎを模した形のりんごを指差すと、アーチャーはゴミ袋をまとめながら答えた。
「昨日さー部屋出る前に食べたいとかって言ってただろ? だからためしに作ってみたんだよ。ちょっと失敗して小さくなったけどな」
「……そか。ありがと、アーチャー」
 少しだけ、ほっとする。やはりあれは夢で、彼が傷ついたわけではないのだ。そう思いながらりんごを齧る。
 色が変わらないようにか、塩水につけてあったらしいそれはほんのりとしょっぱい味がしたけれど、夢の中と同じように甘酸っぱかった。

 ――アーチャーのポケットに数枚の紙幣が、ゴミ袋の中に誰かが齧った後のようなりんごの切れ端があることに、ローチは気づかなかった。

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