あれからしばらくの間、ゴーストがローチを呼び出すことはなかった。
熱に悩まされれば女を捜し、見つからなかったりそんな時間もなかったりする時には耐えて寝る。
ただ、どんな女を抱いても熱は治まるが、どこか満たされないような感覚と倦怠感ばかりが残り、ゴーストの中にじわりと疲労を積み上げていった。
任務に支障はなかったものの、やはり何かしら察する所があったのだろう。マクタビッシュにやんわりと注意された。
「なぁゴースト、最近何かあったか?」
「いいえ、特には……何でです?」
「んー……何となくな。ローチも本調子じゃなさそうだし、喧嘩でもしたかと思ってな」
「……何であいつが出てくるんです……」
「だって仲良いだろお前ら」
何の気なしに言われて言葉に詰まる。
――仲が良かった、のだろうか。
ローチは人が好いから、誰に対しても親しげではないだろうか。ゴーストだけ、特別仲が良かったというわけでもないだろう。
ある意味「特別な仲」であったかもしれないが、友人という意味でなら、同室のアーチャーやオゾン達の方が余程――。
「……まあ、何もないって言うなら別にいいんだがな」
「……あ、ああ……」
つい黙り込んでしまったのに気付き、顔をあげるとマクタビッシュは困ったように頬をかいた。バラクラバ越しでもゴーストの表情が分かっているかのように笑うと軽く背中を叩く。
「もし何かあっても、早めに解決しとけよ。こんな職業なんだからな」
「……わかってますよ」
その答えにマクタビッシュは頷いて自分の席に戻っていった。明日の任務についての資料にもう一度目を通しながらゴーストは小さくため息をつく。
後悔しないように、ということだろう。マクタビッシュの言葉を反芻しながら、ローチの様子を横目で窺う。
同じように資料を見ているのにオゾン達にちょっかいを出されては中断している。本気で怒るわけでもなく、笑って応対している様子にちくちくと針で突かれるような小さな不快感を覚えた。
――ふと目線がゴーストの方に向いた。バラクラバもシューティンググラスもつけたままだったが、ゴーストの目線が自分に向いていることに気付いたのか慌てて逸らされる。それがまた面白くなくて、内心舌打ちしたい気分になりながらゴーストは資料に目を戻した。
(……後悔、か……)
いずれ来るかもしれないその瞬間のことを想像し、ぞわりとした悪寒が走る。
人は簡単に死ぬ。ましてや自分達は戦場に出る身で、誰よりもそれをよく知っている。だから多少喧嘩しても、大抵翌日にはもう何事もなかったかのように謝りあい、許しあい、笑いあう。後悔しないために。
だがローチとゴーストは、明確に仲違いしたわけではない。訓練や任務の時は普通に接しているし、嫌われたわけでもなく、何か問題があるわけでもない。
けれど、あの日の夜の出来事が、ちくりちくりとゴーストを苛み続けている。
ローチと話さなければと思いながらも、何を話せばいいのか、どう話しかければいいのかきっかけが掴めないまま、ゴーストはため息の数を増やしていった。
――――――
帰投するヘリの中で、皆死んだように眠っている。
そんな中で、隣に座るローチもさっきから舟を漕いでいた。任務中に負傷した腕は止血してあるものの、早く軍医に診せなければいけないだろう。
自分がもっと注意していれば避けられた怪我だと、ゴーストは歯噛みした。
「寝ないのか?」
前方から移動してきたマクタビッシュが隣に座り耳打ちをした。反対側でゴーストに寄りかかるようにして眠ったローチを見て頬を緩めている。
「まぁ……寝ますよ……あんたこそ」
「さっき通信が終わったんだ。俺も基地につくまでは寝るさ。帰れば久々の休暇だしお前もしっかり休めよ」
小さく欠伸をすると腕を組んで寝る体勢に入ったマクタビッシュを、シューティンググラスの奥から恨めしげに見た。
(……こっちは寝たくても寝れねーんだよ……)
激しい戦闘だった。バディを組んだローチと走り、何度も銃弾が傍の樹木を抉り足元の土を跳ね飛ばす度に生きた心地がしなかった。
何とか脱落者は出なかったものの、皆満身創痍だった。傷を負っていなくても、精神的に酷く疲弊している。
極限状態で昂ったままの精神と体は落ち着くことなく、じわりとゴーストを侵食する。
しかも隣には、何度もベッドを共にした相手が無防備に眠っているのだ。
――抱き合いたい。体全身で熱を、吐息を、鼓動を。生きていることを実感したい。
(……いやいや落ち着け……ムラムラしてんじゃねぇよ……)
パブロフの犬のように、もう習慣として染み付いてしまったのだろうか。こんなに性欲が強い方ではなかったはずだと思いながら少し身じろぎすると、ローチが瞼を持ち上げた。
「ん……」
「悪い、起したか」
とろんとした目でローチはゴーストを見上げる。間近に迫る澄んだヘイゼルアイに一瞬意識を奪われた。
瞬きして状況を認識したのか、かぁっと頬にほんのりと紅を差し慌てて体を起すのを見て何だかむずむずと落ち着かない気分になる。
(何だその反応……)
「すみませんっ凭れちゃって……うわっ」
「いいから基地までこうしてろ」
離れようとしたローチの肩を抱き寄せ、先ほどのように自分の体に寄りかからせた。触れた場所から伝わる熱を感じて、少しだけ気分が安らいだ気がした。
「……先輩」
ヘリの中というのはかなり煩く、近くにいても会話を聞き取るのに多少苦労するのだが、ローチの声は妙にはっきりと聞こえた。
「……大丈夫、ですか?」
それが何を指すのか、他人にはわからないだろう。だがローチの言葉とその気遣いを理解しているゴーストは少し躊躇った後、肩を抱いていた手を離し、指先でトントンと背中を叩いた。
『今夜、二十五時』
基地に着くのは恐らく二十四時頃だろう。間を空けたのはローチの怪我のこともあったし、もしかしたら熱が冷めて落ち着くかもしれないと思ったからだ。
メッセージを受け取ったローチは逡巡したが、やがて指先で短く答えた。
『行きます』
それきり会話はなくなった。
互いの体温と呼吸を感じながら、ゴーストはそっと目を閉じる。相変わらず機内は煩いし体の奥は熱いのに、久しぶりに心地よい眠りに包まれた。
――――――
二十五時頃、簡単な報告を済ませた後、シャワーで身を清めてぼーっとしていると、決められた回数で扉がノックされた。
結局熱も冷めず、頼ってしまう自分に嫌悪し呆れながら扉へ向かう。一人分の隙間を開けるとローチが身を滑り込ませた。
「こんばんは……なんか久しぶりですね」
少し照れたように頬をかくローチに背を向けてベッドまでの短い距離を歩く。その後ろを戸惑いつつひょこひょこついてくるローチに苦笑し、ベッドの縁に腰かけてふぅと息を吐いた。
「……傷、大丈夫か」
「はい、そんなに深くなかったので」
「ならいい」
そこで一度会話は途切れた。沈黙が辛いのかそわそわと視線を彷徨わせるローチを見て口元が緩んだ。
確かに熱はある。けれど、と思う冷静な自分がいた。今日は妙に落ち着いている。いい機会かもしれない。
常とは違うゴーストの対応に未だ戸惑いを隠せないローチの顔を見て、ゴーストはぽつりと呟いた。
「……寝るか」
「へ……? ……え、と…………はい……」
目を白黒させ、おずおずと自分の服に手をかけたローチを笑って止める。
「そうじゃねぇ……普通に寝るって言ったんだ。ほら」
「うわっ……」
腕を引くと、いともあっさり倒れこんでくる体を受け止め、共にベッドに寝転がる。
逃げようとする体を捕らえ、後ろから抱きかかえるようにして横たわった。
「せ……先輩……?」
「……今日はしねぇよ」
そう言いながらぎゅっと抱き寄せて、目の前にあるローチの頭に軽く鼻を寄せた。
香水とは違う、共用のシャンプーとローチ自身の匂いが混ざり合った色気もへったくれもない香りに何故か無性に熱が煽られたが、無視して寝る体勢に入る。
「……本気ですか……?」
「嫌か」
「そうじゃなくてっ……あの……」
それとなく離してはいるが、ゴーストの下腹部にある熱の存在に気付いているのだろう。もごもごと言い難そうにする様子に苦く笑う。
体は熱くてしょうがないが、不思議と心は落ち着いていた。ローチを抱けなくなったというわけではない。あの日から続く罪悪感が、ゴーストにブレーキをかけているのかもしれない。
「……この前は……悪かったな」
「え……?」
「覚えてねえか? お前が酔ってて」
「あーっいいですっ! 覚えてます言わなくていいです!」
思い出して恥ずかしくなったのか慌てて捲くし立てるので、ついくつくつと喉の奥で笑ってしまう。
恥ずかしそうに黙り込むローチの後頭部にこつりと額をぶつける。意外と柔らかな髪がくすぐったい。
「あれは……先輩のせいじゃないって言ったじゃないですか……」
「お前がよくても俺はよくないんだ」
「…………」
「それに泣く泣かないは置いといても普通に失礼だったろ、あれは」
だから、と言い募ろうとするとか細い声で「はい……」と返事が返ってきた。
耳や項がほんのりと色づいていて、むずむずともどかしいような、くすぐったいような感情が膨らむ。
『もっと触れたい――』
そんな考えを断ち切るように瞼を下ろした。
「あの……先輩」
「ん」
「本当に……このまま寝るんですか」
もぞりと身じろぎし、落ち着かない様子で訊ねられてゴーストは揺らぎそうになるのを耐える。
したくないわけではない。寧ろ今すぐにでも熱を冷ましてしまいたい。けれど安易に手を伸ばすのはまだ気が引けた。
それに、今はこうしているだけでも気分が落ち着いた。
「……今日は……ってもう昨日か……任務大変でしたね」
「……そうだな」
「あの……だから……ですね……」
語尾が消えていきそうなローチにひょっとして、と思う。
そう、いつもゴーストばかりが望んでいるわけではなかった。同じ任務に出たローチもまた――。
「ッ……」
腹を抱えるようにまわしていた手をそろりと下へ動かすと、腕の中の体がびくっと震えた。同時に洩れた、上擦った声がゴーストの情欲を刺激する。
未だ躊躇うゴーストの腕から逃れ、両手をベッドについてのそりと上半身を起したローチは、熱で少し潤んだ目を向けた。
ゴーストの顔の脇に片手をつき、縋るように、けれど遠慮がちに服を指先で掴んで、そっと吐き出した息は少し震えている。
「すみま、せん……あの……俺……」
耐え切れないというように眉根を寄せ、薄紅色に肌を染める姿に、知らず唾を飲む。
「せんぱ、い……疲れてるのに……ほんとすみません……でも……もし嫌じゃ、なかったら」
恥ずかしげに目を伏せるのすら、どこか扇情的で。
「俺と……して……ください……」
ゴーストは、ただ黙って手を伸ばした。
ローチから誘ってくるのはこれが初めてだ、と頭の片隅で考えながら。
『俺がしますから……』
ローチはそう言ってゴーストの服に手をかけた。体勢を入れ替えようとしたゴーストを自分が誘ったからと制止し、四つん這いになって跨る。
下着を下ろして現れたそれは既に熱く硬く勃ちあがり、ローチは恐る恐るといった様子で触れる。何せ他人のものにこうした意図で触れるのは初めてだったからだ。
「わっ……」
(処女かよ……)
触れた途端びくっと震えたそれに驚いて小さく声をあげるローチにゴーストは天を仰ぎたくなった。見ているこちらが恥ずかしくなるような初々しい反応は寧ろゴーストの熱を煽る。
そろりと舌が触れ、たどたどしく先端やくびれた部分を撫でていく。やがて躊躇いがちに温かい口内に包まれてゴーストは熱い吐息を洩らした。
「ん……っ……」
「ふ……ん、んっ……」
口を窄めながら頭を上下させる。正直な所、すぐにでも達してしまいそうなほどに気持ちよかった。
今まで相手をしてきた女達とは比べものにならないほど拙い舌遣いなのに、時にえづきながらも必死に奉仕する姿が視覚的にも刺激を与えてくる。
「っ……今日は、随分……んっ……サービスがいいな……?」
「ん……って……いつもしてもらってばかり、ですし」
してもらって、というよりは一方的にゴーストが責め立て、それをローチが受け入れているというだけなのだが。
いつも、前戯もそこそこに早く繋がりたいとばかりに後ろを慣らして、口でしてやったことなんてないのにと思いながら、ふとゴーストは小さな違和感を覚えた。
(……ない、よな……?)
口淫した覚えはない――が、口内にある熱と鼻に抜ける青臭さを知っているような気がして記憶を探る。しかしそれはローチの舌遣いによって阻止されてしまった。
「……くっ……おい……もういい……っ!」
熱く脈打つそれを、慣れないながらも手と口を使って追い上げる。目に涙を滲ませる必死な表情に煽られる。
「よせ……くそっ……!」
「ん、ふぁっ」
何とかローチの頭を離させた途端、限界だったそれから白濁が放たれる。口内に出さなかったというだけで、結局は顔やら髪やらに思いっきりかかってしまったのだが。
「っはぁ……悪い……」
「……いえ……」
とろりと髪から流れ落ちるそれを指で拭い、熱に浮かされたようにぼんやりとしている。やがてのそのそとズボンと下着を脱ぎ捨てると、後孔へと自ら手を伸ばす。
「あ……、ぅっ……はあ……」
「…………っ」
唾液や精液で濡れた指で後ろを解しながら、射精して少し萎えたゴーストのものに再び舌を這わせるローチの中心もまた上を向いて震えている。酷く淫靡なその光景に頭がくらくらした。
(ああ……なんで……おれ……)
はしたない格好をしながら後孔を解すローチは、頭の片隅でそう思いながらも手を止めることができなかった。
距離を置くと決めたのに。これ以上踏み込んではいけないと思ったのに。どうしてこんなことをしているのだろう。
任務が終わった後のヘリの中では疲労のあまりすぐ寝てしまったが、本当は酷く興奮した状態だった。気付けばゴーストに凭れかかり、肩を抱かれて余計に熱は増すばかりで。
自分だけならば自慰でもして静めるところだが、ゴーストも同じ状態なのではないかと思うと気にせずにはいられなかった。こういう時の熱には、抗いがたい力がある。
時間も時間であるし、体も疲れている。外に出る気力もないかもしれない。人肌を求めるのであれば女を捜すより近くの自分の方がいいだろう……こじ付けの理由を考えながらまたゴーストに近づこうとする自分を御しきれなかった。
最近はすっかり声をかけられなくなり、時折微かな香水の香りを残していることからもう飽きられたのではないかと思っていたから、ゴーストが来いと答えた時は正直驚いたし、同時に喜んでしまう自分が嫌だった。
このままではいつかゴーストに迷惑をかけるかもしれない。あるいは胸に抱えるこの想いを曝け出して、嫌悪されるかもしれない。
最近のゴーストの行動にすら一々気落ちしているのに、そんなことになったら耐えられる自信がなかった。だから早く離れないといけないのに。自分の気持ちに区切りをつけないといけないのに。
「おい……もういいのか……?」
力を取り戻したものにコンドームを被せられ、ゴーストは心配そうな瞳を向けた。指で慣らしていたとは言え、いつもより随分と早いからだ。
「だい、じょぶ……です……」
答えながらローションをコンドームの上から垂らしていく。ゴーストとローチが関係を持ってから、部屋に置かれるようになったものだった。初めての時はゴーストが切羽詰っていたこともありゴムもつけず、中が切れなかったのが奇跡と思えたものだ。
「んっ……ぁ」
「っ……おま……本当に……」
ゴーストに跨り、熱く猛るものを迎え入れる。自分から挿れるのも騎乗位も初めてで、圧迫感に涙を浮かべながら腰を落とす。久々できつくはあるものの、ゆっくりと受け入れていくローチの体にゴーストは少し驚いた表情をした。
「久しぶり、だから……っ……あ……じぶ、んで……慣らして……きて……んっ!」
「……なんで……」
「時間、あった、しっ……は、はや、く……できたほうが……先輩……いい、かと、思って……」
やがて根元まで飲み込んだローチが何とか圧迫感に慣れようとしながら途切れ途切れに呟いた。ぴったりと吸い付くような内壁にため息を洩らしながらゴーストは戸惑いを隠せない。
「……なんでお前……そこまで……」
どうしてそこまでするのかとゴーストは不思議で仕方なかった。都合よく呼び出しては欲のはけ口にしてきた自分に、どうして――。
その言葉に、ローチは苦しげにしながらも微かに笑って見せた。どこか泣きそうにも見える表情はゴーストの胸にちくりと痛みを与える。
「……前にも、言いましたよ……」
「…………?」
いつの、どの発言を指しているのか分からずに疑問符を浮かべていると、ローチはゆっくりと腰を揺らめかせ始めた。騎乗位のためいつもより深く抉られ苦しそうにしながらも、時折いい場所に当たるのかびくりと体を震わせじんわりと汗を滲ませる。
(く、そ……っ)
熱く、きつくゴーストを締め上げ包み込むローチの中。久々に感じるそれは、思わず悪態を吐きたくなる程の快楽をゴーストに与えた。だってしょうがないだろう。最近相手にしていたどの女よりも気持ちいいと感じてしまっているのだから。
「んんっ、んっ、ふ、ぅッ」
声が洩れないように自分の手を噛みながら腰を振るローチの頬に涙が伝った。苦しさからか、快楽のためか――後者であって欲しいと思いながらゴーストは上半身を起し、ローチの体を抱えて下から強く突き上げた。
「んんん――――ッ!!」
吐精こそしなかったものの、びくびくと痙攣しながらゴーストの方へ倒れこむ。搾り上げられるような内壁の動きに呻きながら、ゴーストはローチの体を支えて対面座位の体勢にさせる。
震えながら身を預けていたローチが顔を上げると、ゴーストは少し困ったような表情を浮かべていた。
「大丈夫か……?」
久々の性交と前立腺への強い刺激でじんじんと疼くような快楽が抜けきらず、恥ずかしくて俯きながらこくこくと頷いた。
「動いて、いいか」
頷く。ゴーストがローチの体を抱え、ゆっくりと律動を始めた。
「っふ、ん、ん!」
片手でゴーストの服を握り締め、反対の手で口を押さえる。突き上げられしこりを擦られるたびにいやらしく腰が揺れ声が上がる。
不安定な姿勢のまま揺さぶられているとゴーストが脚を抱えていた手をローチの背に回した。意識して体を近づけないようにしていたローチは反射的に身を引こうとしたが、そのまま抱き寄せられる。
「ちゃんと掴まれ……動きづらい」
「せ、……」
「ローチ」
有無を言わさぬ雰囲気に、おずおずとゴーストの体に腕を回す。それを確認するとゴーストはローチの片足を抱え、もう片方の腕で体を抱きしめながら律動を再開した。
「――ッ!! んっ、ふ……ッ……んんっ!」
ゴーストの肩に口を押し付けるようにしながら声を殺し、じんと痺れるような快楽に堪らずゴーストの体にしがみついた。
(ああ……)
その瞬間、快楽とは全く別種の、安らぎのようなものを覚えた。それはゴーストも同じで、互いに抱きしめあいながら呼吸を、熱を、鼓動を分け合った。
激しい嵐のような行為の中で、心は穏やかに満たされる。
ローチの耳を甘噛みすると鼻にかかった甘い声を上げながらきゅっと内壁で締め付けてくる。そのまま下へと唇を落とし、首筋に歯を立てながらゴーストは少しだけ悔しく思った。
(ああ、くそ……まじかよ……)
どんな女とするセックスよりも気持ちいい。満たされる。
認めざるを得ない。けれど、ちょっと悔しい。だってそうだろう。
熱で色づく肌や潤む瞳に煽られるなんて。
涙を流す姿に動揺するなんて。
自分に向けられる、日向のようなあの笑顔が。
(かわいい……なんて)
悔しいながらも、そう思う自分を、ゴーストは漸く認めた。
ローチと共にいる時、感情があっちこっちに振り回されるのも納得した。
きっかけはろくでもない事だ。それからの関係も、歪なものだった。
けれど、確かにローチはゴーストにとって、ただの仲間や部下という存在以上のものになっていた。
しがみついてくる腕を心地いいと思いながら、何度も何度もローチの体を突き上げる。
やがて二人で頂点を極めた時、まだ何か足りないような気がしたけれど、それが何かゴーストには分からなかった。
――――――
翌朝、目覚めたらローチはもういなかった。日は高くなり始めており、ゴーストはのそりと起き上がる。
体は少しだるかったが心は軽い。女を抱いていた時のような倦怠感がなくて、いよいよゴーストはローチとの関係に溺れていることを自覚せざるをえなくなる。
(紅茶……また淹れ損ねたな)
カップを受け取った時の、あのはにかんだ顔が好きなのだが――とそこまで考えて一人で頭を抱えた。自覚して、素直にそう思考してしまうようになったのが何だか恥ずかしい。以前は無意識にブレーキをかけていたから尚更だ。
部屋にいるのだろうかと端末を手に取る。緊急出動でもない限り、昨日までの任務に出ていた者は今日いっぱいは休暇だ。暇ならばついでに菓子でも用意してティータイムに誘ってもいいし、街に出かけないかと誘うのもいい。否、昨晩のことで疲れているかもしれない――つらつらと考えながら結局は呼び出しボタンを押す。侘びだとか償いだとかそんな理由はどうでもいい。ただ、ローチに何かしてやりたい、共に過ごしたいと、そう思う自分の気持ちをゴーストは素直に受け入れた。
「あれ……」
机の上で震えているローチの携帯端末に気付いたアーチャーは二段ベッドの上から降りてそれを手に取った。
ローチは先ほどPXに買い物に行くと言って出て行った。忘れたのか、あるいはすぐに戻ると思って置いていったのだろうか。何気なく画面を見て表示されている名前にアーチャーはしばし固まり、僅かに逡巡してから応答ボタンを押す。
『はい、こちらローチの携帯。代理応答アーチャーです』
「……ああ?」
『中尉ですか? ローチは今ちょっと買い物に出てます』
予想外の相手が出てきて戸惑った。当然本人が出るものとばかり思っていただけに咄嗟に言葉が出てこない。
『中尉? ローチに何か用事ですか?』
「……あぁ、いや……たいした事じゃない。後でかけ直す」
『そうですか……ああそうそう、中尉にちょっと聞きたいことがあるんですが』
「……? なんだよ」
正直ローチと番号の交換をしていると知られて早く切りたいところだったのだが、改まってなんだろうと首を傾げる。その言葉がどんなものであるのかも知らず、先を促した。
『最近中尉とローチって仲がいいですよね』
「……どいつもこいつも……そんなにそう見えるか?」
『見えますよ。で、ひょっとしたら中尉に何か話してないかなぁと思って』
「話?」
『あいつね、好きな人がいるみたいなんですよ』
今まで何かと二人の仲を進展させてきた働きかけも、今回ばかりは裏目に出るとは、アーチャー自身にも予想がつかないことだった。
「えっ先輩から電話!?」
「かけ直すとか言ってたけど」
「勝手に出ないでよもー!」
「お前が置いてくのが悪いんだろ」
買い物から帰ってきたローチはアーチャーから端末を受け取ると履歴とメールを確認する。メールは来ていなかった。着信もアーチャーが出た一回きりだ。電話ということは急ぎの用事だったのだろうかと少し焦りながら、ローチは端末を操作してゴーストの番号にかけた。
十コールほど鳴らしてみたが出る気配がない。ひょっとして怒らせてしまったのだろうかと益々不安になってきた頃、コール音が途切れて声が聞こえた。
『……なんだ』
「先輩? すみません、さっきは買い物に行ってて……」
『アーチャーに聞いた』
「う……あの、何か急ぎの用事でしたか?」
ゴーストはすぐには答えなかった。僅かな間の用事だったとはいえ、端末を持って出かけなかったことをローチは密かに後悔した。
『……別に、たいした用事じゃねぇよ』
「え……あ、せんぱ……」
一方的に切られてしまい途方に暮れる。怒っているというよりは、不機嫌ながらもどこか気落ちしたような覇気のない声が気になった。昨夜のことで疲れているだけかもしれない。――いや、あるいは自らゴーストを受け入れ腰を振った自分に呆れているのかと思い、ローチは内心頭を抱えた。
「なあアーチャー、先輩何か他に言ってた?」
「いや、別に」
「そっか……」
少し心配に思いつつ、時間を置いて夜に一度部屋を訪ねてみようかと考える。提出する書類もあるし、出動前はばたばたしていたから煙草の吸殻を溜め込んでいるならそれもついでに綺麗にしてしまえばいい。
――また理由をつけてゴーストの元へ行こうとする自分に気付き、重症だとため息を吐く。
今の所は何事もないが、例え二人の関係に不和が起きずとも、職業柄いつ別れが来るとも限らない。であれば、アーチャーの言うように、自分の気持ちに素直になったほうがいいのだろうか。
気持ちを偽ったまま関係を続けるのは、ゴーストを騙しているだけでなく、彼の体を使ってオナニーしているようなものだと、ずっと罪悪感を抱いてきた。互いに欲を吐き出す為の相手と割り切ってしまえばそれまでだが、割り切れるならこんな風に悩んでなどいない。
例えゴーストにとっては単に都合のいい性欲処理の相手だったとしても、ローチにとってゴーストは想いを寄せる特別な相手だ。だからこそ悩むし、慎重……否、臆病になってしまう。
「っ……あーもう!!」
「ローチうるさい」
「ごめん!!」
気になるのならとりあえず今夜、少しだけ部屋を訪ねてみようと決める。書類を届けるついでと思えば少々気も紛れ、ついでにアーチャーにも提出するものがないか訊きながら、買ってきたばかりの菓子を摘んだ。
――――――
(なんか緊張するな……)
ゴーストの部屋の前で書類を持って立ち、ローチはふうと息を吐いた。緊張するのはいつものことだが、電話した時の雰囲気のこともあり不機嫌なのだろうかと余計に落ち着かなかった。
いつもの呼び出しとは違うため、普通にノックすると中から気だるげな返事が聞こえた。
「……誰だ?」
「ゲイリー・サンダーソンです。夜分に申し訳ありません、書類を持ってきました」
「……入れ」
周りにまだ人がいたため事務的なやりとりをしたが、とりあえず部屋に入れたことにほっとする。椅子に座り、机に脚を乗せるというなんとも行儀の悪い格好で迎えられたが、割といつものことなので気にせずに中に入り、書類を渡す。案の定机の上の灰皿には吸殻が溜まっていて苦笑した。
「アーチャー達の分もついでにって持たされました」
「そうか、ご苦労さん」
分かってはいたが、あっさりとそこで会話が終わってしまう。何のために来たのだと自分を奮い立たせ、ローチはぐっと拳を握り締めた。
「……昼間は電話すみませんでした」
「まだ言ってんのか……もういいって……」
「電話でっ……ちょっと、怒ってるのかなって思って……俺、他にも何かしましたか……?」
「…………」
書類に目を通しながら返事をしていたゴーストはそこで手を止め黙り込んだ。微かに聞こえる程度のため息を吐くと立ち上がって、何故かベッドの傍へ立ってぎくりとした。
「こっちに来い」
「……あの」
「早くしろ」
有無を言わさぬ雰囲気に、内心警戒しながら傍に近づいていく。
あと一歩というところで素早くゴーストの腕が伸びて身を引こうとしたが、思ったよりもゴーストの動きは早く、届く距離も長かった。浮遊感と衝撃で一瞬パニックに陥る。
警戒していたにも関わらず案の定ベッドに引き倒され、揺れる視界の中でゴーストを見た。
アイスブルーの瞳はいつにもまして冷え込んでいるような気がして、背筋がぞくりとする。
呆けていると乱暴に着ていたTシャツを捲り上げられて慌てて止めようと手を伸ばしたが、いとも簡単に手首を顔の両脇に押さえつけられた。
「な、にするんですか……っ」
「何? いつもやってることだろ」
降ってくる声までもが冷たく、ふるりと小さく身震いした。怒っている。けれどその理由が思いつかずローチの困惑は増すばかりだ。
「変ですよ先輩……やっぱり俺が何か気に入らないことしたんですか?」
挫けずに訊ねると、ゴーストは唇を微かに歪める。
「変、ね…………なぁローチ。お前」
ローチはぐっと身構える。だが続いた言葉は、予想もしないものだった。
「……好きな奴がいるんだって?」
「……え……」
何故それを知っているのか、何故今ここでそれが出てくるのか、次々と疑問が浮かんで困惑する。しかも『好きな奴』とは今正に目の前にいる人物で、その人から指摘されたことに少なからず動揺したローチは表情を取り繕うことができなかった。
かぁっと微かに紅が差した肌と動揺する表情に、ゴーストは手首を押さえつける手の力を強くした。
「痛……っ」
「男か」
間髪入れずに問われ、またぴくりと反応を返してしまう。その反応にますますゴーストは力を強めてしまう。昂る感情を制御できない。違う、こんなことがしたいわけではないのに。
『結構前からなんですけどね、なんかそんな雰囲気なんですよ……中尉なら何か聞いてないかと思って』
アーチャーに言われた言葉が脳内で響く。前からというのはいつからだ。少なくともここ最近ではない。もしかしたらゴーストとの関係ができる以前からそうだったのかもしれない。最近になって色々と理由をつけて断るようになったのは、その相手と上手くいくようになったからでは――。
ぐるぐるとマイナス思考にばかり囚われてしまう。自身の怒りが身勝手で理不尽だと分かっていても、ゴーストは追求を止めることができなかった。
「俺はそいつの代わりか? ……それとも、そいつともよろしくやってんのか?」
「な、にを……っ」
「初めてのわりには善がってたもんなぁ。男は処女かどうかなんてわかんねぇし……本当はもう何回も咥えてたんじゃねぇのか」
「……ッ……本気でそう思ってるんですか……」
羞恥と怒りと、悲しみでローチの視界が歪む。自然と声が低くなり、ゴーストはそれを鼻で笑った。
「じゃあ言ってみろよ、お前の相手が誰か」
――ローチはすぐには答えられなかった。相手は、目の前にいる。言えば満足するのだろうか。納得してくれるだろうか。
俺には貴方だけです、と。
「……ふん、言う気がねぇなら騒ぐんじゃねぇよ」
そう言うとゴーストは中途半端に捲り上げたTシャツの中に片手を突っ込み、まだ柔らかい胸の尖りを強く抓った。
「いっ……!! 痛……ッ……や、だ……いやだっ……!!」
あまりの痛みに悲鳴を上げながらじたばたともがくが、脚も手もしっかりと上から押さえつけられ、唯一解放された片手は胸を弄る手を退かせようと力なく掴む。感情が昂って上手く出てこない言葉の代わりに、目の端から一粒涙が落ちた。
「助けになれるなら嬉しいとか言って、どうせ俺以外の上官にも取り入ってんだろう……マクタビッシュのとこにも甲斐甲斐しく掃除しに行ってるんだって?」
「……な、んで大尉が……ッ」
「図星か?」
本当は分かっているはずなのに。ローチはただ善意でゴーストを助けてくれただけで、上官に取り入ろうだなんて下心などないことは明らかなのに。
ローチは、誰にでも優しい。そう、誰にでも。マクタビッシュと話をした時に抱いた想いを、ゴーストは今になって理解する。
きっと、自分だけが特別なのではない。マクタビッシュのような尊敬できる優しい上官に求められれば、同じ条件ならきっと彼を選んだはずだと思い歯噛みする。
これはただの、嫉妬だ。
「……っ、いくら、あなたでも……聞き捨てなりません……撤回してください」
「そんなにあいつのは好かったか?」
「先輩!!」
心にもない言葉ばかりが口をついて出てくる。そんな顔をさせたいわけではないのに、傷つけることばかり言ってしまうのは、彼に自分の存在を嫌でも刻み付けたいからなのだろうか。
例え憎まれても、ローチにとって他とは一線を画する存在になりたいと。
なんて、身勝手な想いだろう。
「先輩だって大尉のことは尊敬してるでしょう……! なんでそんな……」
「……うるせぇ。昨夜だって慣らして来たとか言って、本当は誰かの咥えた後だったんじゃねぇのか……」
乾いた音と、じんわりと頬に広がる痛み。
ゴーストの頬をはったローチは、まるで自分がそうされたかのように辛そうに顔を歪めた。
――分かっている。分かっている。ローチがそんな人間でないことは。
けれど、ゴーストの中で何度もアーチャーの言葉が繰り返されている。
『好きな人がいる』
そんな相手がいるのに、ゴーストの要求を諾々と受け入れていたとは思いたくなかった。
ローチが好きな相手が自分だとは、ゴーストは露ほども思わない。何故なら二人の関係は、一応合意であったとはいえ、ゴーストが半ば強要したようなものだからだ。
そこから恋愛感情に発展するなど、有り得ない。ローチにとって所詮ゴーストは、ただの仲間で、気難しい上官に過ぎない。
そう、思っていた。
「い゛っ……!」
ローチが腕に傷を負った箇所をあえて握りながら、ゴーストはまた傷つける言葉を吐いてしまった。一番、言ってはいけなかった言葉を。
「痛ぇなクソ……お前は今まで通り大人しくケツ貸してりゃいいんだよ……このビッチが」
世界が反転する。
ゴーストの胸倉を掴み上げて馬乗りになるローチがいた。
どこか遠くの世界のことのようだと思っていたゴーストを現実に引き戻したのは、頬に何度も当たる熱い雫と、激情にまみれたローチの言葉だった。
「――ッ俺が好きなのはアンタだ……!!」
その言葉を理解するのに、ゴーストは数秒を要した。
理解して、何を言っているんだ、と言おうとしたが、唇が微かに戦慄いただけに終わる。
部屋に響くのは、ローチのしゃくり上げる息遣いだけだ。
頭が真っ白だった。仮にもTF141のNo2が、聞いて呆れる。
「……れはっ……おれは、あなたが……ッ」
「ッ……」
尚も言い募ろうとするローチが顔を引き寄せ、反射的にゴーストは身を強張らせてローチの体を押し返そうとしてしまった。
ローチの気迫に押されたからそう反応してしまっただけだったが、この時のローチに取って、それは拒絶にしか感じられなかった。
「あ…………」
その時の表情を、何と形容すればいいだろう。
まるで親にすら見捨てられたような小さな子どものように、絶望し途方に暮れた瞳に、ゴーストはざあっと血の気が引いた。まるでローチが、今にも消えていなくなってしまいそうな気さえして、押し返そうと肩を掴んだままの手を動かせなくなった。
(ああ……もう……だめだ……)
ローチはきゅ、と口を引き結んで、ゆっくりと瞼を下ろす。
胸倉を掴んだままの腕をそっと下ろし、強張った指を何とか外して。
涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔をごしごしと拭った。全部捨てられるように、痛いくらいに強く。
そしてもう一度ゴーストの前に顔を見せた時、ローチはいつものように笑っていた。
「……すみません、冗談です……へへ、びっくりしましたか?」
狐につままれたような気分とは正にこのことだった。ゴーストは言葉を失い、一瞬のうちに激情と涙を消したローチを、信じられないというように見つめる。
「俺、意外と演技の才能あるみたいで。アーチャーにも軍人より役者のほうが向いてるんじゃないかーって言われたり」
「…………」
「驚かせてすいません、でも先輩があんまり話聞いてくれないんで、ちょっと落ち着いてもらおうかと」
「…………」
言葉が出てこない。そこにいるのはあまりにも、いつも通りのローチでゴーストは困惑した。
先ほどまでの涙が演技だったのか、今こうして普段通りに話している方が演技なのか。或いは両方真実なのか、虚構なのか。今まで話してきたことは? 今まで見せてきた笑顔と涙は、どこまでが本当だった――?
「……でも、先輩の言う事も当たってます。俺、好きな人がいます」
その言葉に息を飲む。忙しなく瞳を動かしてローチを観察する。そこにあるのが嘘か真実かを見抜こうとした。
「だから……先輩にも迷惑かけるかもしれないし……その人を悲しませたくないので、もうここへは来れません。すみません」
拷問と尋問を得意とするゴーストは、人よりも嘘を見抜く力はあると自負していた。だがその自信は揺らぐ。ローチが何を考えているのかがわからない。
「もちろん、今まであったことはこれからも誰にも話しませんし、忘れます……だから先輩もどうか、忘れてください」
今まであったことも、今言った言葉も全部忘れてくれ、と。
困ったように眉を下げて笑いながらローチは言う。
やがてローチがそっとゴーストの上から降りて服装を整え始めても、ゴーストはやはり何も言えなかった。
「勝手なこと言ってすみません。あ、書類運びとか掃除とか、そういう手伝いはいつでもしますので」
ふわりと笑うローチに何か言おうとゴーストは体を起したが、思考は止まったまま、意味もなく息が零れただけだ。
「おやすみなさい、先輩」
行ってしまう。ドアまでの短い距離の間に、引き止める言葉すら浮かばない。
くるりとゴーストの方へ振り返る。そこにいたのは、ただの『ゲイリー・サンダーソン軍曹』だった。
「それでは、自分はこれで失礼します」
ゴースト中尉。
敬礼し、そう言い残してローチは静かに部屋を出た。
――――――
(大丈夫、大丈夫……)
色んなことが起きすぎて脳の許容量はいっぱいっぱいだったが、そう唱えながらローチは自室へと急いだ。
大丈夫、上手くできた。今だって、自身を見ても振り返るものはいない。ちゃんとできている。大丈夫。
唱えながら、また目の奥が熱くなりそうなのを耐える。せめて部屋までは持たせなければいけない。
幸いにも途中で知り合いに会うこともなく自室の前にたどり着いて、しかしドアを開けるのを躊躇った。
ルームメイトの男が寝ていることを祈りながらドアノブに手をかけた瞬間、中から扉が開かれる。当然そこにいるのは、今しがた寝ているようにと祈ったばかりのルームメイトで。
「……ローチ?」
(あ、やばい)
頭の隅で冷静な自分がそう思った。アーチャーの顔を見た瞬間、安心して涙腺が緩んだ。
「……っ」
ローチの様子にはっとしたアーチャーが、腕を引いて部屋の中へ招き入れる。
よろめいた体を受け止めるように抱きしめられ、背後で扉の閉まる音がした瞬間、堰を切ったように涙と嗚咽が零れた。
「……っ……ぅ、く……う、う……ッ」
「ローチ……」
アーチャーの体にしがみつき、子どものようにしゃくりあげた。アーチャーはただ黙って背中を撫でてくれて、その優しさが余計に涙を溢れさせた。
「ご、め……っ……あ、ちゃ……ごめん……ッ」
「うん」
涙は全く止まらなかったけれど、ローチは少しだけ体を離して、ぐしゃぐしゃの顔のまま無理矢理笑った。
「……失恋、しちゃ、った……」