あの後どう行動したかさっぱり思い出せないが、ベッドに腰掛けたままの姿勢で気付けば朝になっていた。
正直眠っていたのか茫然自失としていたのかすら分からない。頭は妙に冴えたままで、長時間同じ体勢だったせいか体はぎしぎしと悲鳴を上げている。
体を起して、手を持ち上げて顔に触れる。あの時頬を熱く濡らした涙は疾うに乾ききってその痕跡を消していた。記憶を頼りに落ちたであろう場所を撫でると、脳裏にローチの泣き顔が蘇る。
『……れはっ……おれは、あなたが……ッ』
苦く、重苦しいものが胸を塞ぐ。ローチにぶつけた暴言の数々がゴーストを苛んだ。
「……何で……あんな事言ったんだ……」
完全に、冷静ではなかった。
想う相手がいるのだという、ローチのあの反応を見て感情的になった。我を忘れたと言ってもいい。
今更悔いたところで何にもならないと分かってはいるが、ゴーストは津波のように押し寄せる悔恨の念に耐えるように頭を抱えた。
だがいつまでもじっとしているわけにもいかない。出動命令がなければ、今日からまたいつものように訓練に励む日々だ。
朝のミーティングまでまだ時間があったため食堂へ向かったが、道中も食堂に辿りついてからも、ローチの姿がないことにどこかほっとしている自分が、堪らなく嫌だった。
昨夜のことだってそうだ。もしも仮に、ゴースト以外の人間と関係を持っていたとしても、ゴーストにそれを責める権利などありはしない。ひょっとすると合意ではなく脅されて従っているという可能性だって考えられないわけではない。なのに、どうしてローチばかり責めるようなことをしてしまったのか。
ローチが絡むと、冷静でいられなくなる。訳のわからない激情に侵される。
(……あんな……)
ローチの泣き顔がまた浮かんで胸が痛む。
あんな顔を、させたいわけじゃない、のに――。
軽い朝食を終えてやってきたTF141の事務所の前でため息を吐くと、頭を仕事モードに切り替える。
「あ、おはざーす」
「うぃーっす!」
「おはようございます」
「おう」
中にはすでに殆どのメンバーがいて、各々好きに挨拶してくるのに答える。
ローチもいつもの三人と一緒に談笑していた。目元が赤く、少々腫れぼったいのが痛々しい。胸が掻き毟られるように疼くのを無視して、自分の席へ行くためにその傍を通り過ぎようとした。
「あ、おはようございます中尉」
――一瞬。
その言葉が部屋に響いた一瞬だけ、水を打ったようにしん……となった。
しかしそれは本当に一瞬のことで、すぐまたざわめきを取り戻す。
「おはようございます」
「「ざーす」」
「……おう」
ゴーストも、何でもないことのように通り過ぎて自分の席に座る。だが時折ちくりちくりと感じる周りからの視線に僅かな苛立ちを覚えた。
「……どしたローチ、先輩呼びはやめたの?」
「んー、俺だけ先輩呼びってのもなんか変な気がしてさ」
オゾンとローチの会話が耳に入り、知らず奥歯を噛み締める。
「おーい、手ぇ空いてるやつちょっと来てくれー。二人くらい」
ドアを開けてひょこりと顔をだしたマクタビッシュが部屋を見回しながらそう言った。
「あ、じゃあ俺行きまーす」
「……んじゃ俺も」
こういう時、真っ先に動くのはローチだ。TFの中でも新入り且つ年が若いということもあるのだろうが、嫌がるでもなくむしろ率先して動くあたりローチの人の良さが滲んでいる。
一緒についていったアーチャーもなんだかんだ似たようなもので、仲良く部屋を出ていった。
「…………」
その途端感じる視線が強くなる。既にバラクラバとシューティンググラスをつけているため表情は見られることはないが、周囲の人間にはゴーストの機嫌が急降下していくのがありありと分かった。
「……何か文句あんのか」
ぼそりと呟いた言葉にさっと視線が消える。オゾンなんかはわざとらしいくらいあさっての方向を見ながら下手くそな口笛を吹いているし、スケアクロウは手にした雑誌が上下逆さまだ。
苛立ちを抱えたままがたんと席を立つと皆が怯えたように肩を跳ねさせる中で歩き、逃げようとしたオゾンの襟首を掴んだ。
「おい」
「うえええええええ俺えええ!?」
「何か知ってんなら吐け」
「いやいやいやいや何をですか知らないッスよ! Wait wait! 暴力反対! 環境破壊反対!」
「何で環境破壊?」
「『オゾン』だからだろ?」
「まあこのオゾンは丈夫だし少々手荒にしても壊れないから」
「むしろ休みはよく車乗ってるから自ら環境破壊を促してるっつーか」
「うるせーぞ外野!! お前らのボケ倒しコント聞きたいわけじゃねーんだよ!!」
「どうどう中尉落ち着いて!!」
割って入ったスケアクロウに宥められて仕方なく手を離す。完全に注目を浴びてしまっているがこそこそ見られるよりはマシだ。
「あー……ローチの顔の事なら、一応昨日映画の見て泣いたからと聞きましたケド……」
「映画ぁ?」
「や、タイトルとかは聞いてないですけど……」
どうも煮え切らない態度でごにょごにょ話す二人。周りからも何か言いたげな空気を感じてゴーストは少し怒りを治めた。
「……何だよ」
「あー……いや……だってあれ……なぁ?」
「どー考えても……」
集中する視線にいくらゴーストでも彼らが何を言いたいのか分かる。否、それを誰より理解しているのはゴースト自身なのだ。
「……俺のせいだって言いてぇのかよ」
満場一致で頷かれ、再び胸に重いものが圧し掛かってくる。
――そうだ。あれは自分のせいなのだ。
「だってさぁ……おかしいじゃん、いきなり中尉呼びに戻るとか……」
「何やらかしたんです? この前も何か泣かしてたし……」
「えっ何だそれ聞いてねぇ」
「うんミートちょっと黙ってて」
「後で話してやるから」
「勝手に話広めんじゃねぇよクソがっ」
言いながら、声に覇気がない事に自分でも気付く。オゾンもスケアクロウも困ったように顔を見合わせて肩を竦めた。
「……まぁ、早くなんとかしてくださいよ。ローチがあの調子だと俺らもつまんないんで」
「…………」
「元気ないですよ。顔には出しませんけど」
「ツッコミにキレがないよな」
「うん、ボケもいまいち」
「なんかさ、『普通に振舞う』ためにエネルギー注いじゃってる感じ」
うんうんと周りも頷く。ゴーストは黙ったまま先ほどのローチを思い出す。
いつもと違う呼び方。いつも通りの挨拶。いつも通りの笑顔。
――本当に? 本当にいつも通りだったか?
(……わかんねぇ……)
昨夜、ゴーストはローチの急激な変化を目の当たりにした。
もしあれが演技だったとしたら、今までの全てが演技といっても通るような気さえする。それほどまでに、急激で強烈な変わり様だった。
今までのローチの表情や態度を思い出そうとしてみたが、今頭に浮かぶのは泣き顔と、拒絶され絶望した空虚な目ばかりだ。
「中尉?」
「……煙草吸ってくる」
ゴーストはポケットに煙草があるのを確認すると、ふらりと外へ出て行った。
「……ありゃ重症だなー」
「どうなると思う?」
「中尉が素直に謝るに一票」
「何だかんだローチからきっかけ作って仲直り」
「ラスボスにぶん殴られて目を覚ました中尉が勢いで告白」
「ラスボスって誰よ?」
「アーチャーだろ」
「いや大穴で大尉かも」
「ラスボスってか保護者だな」
「つーかさ、とっくに付き合ってると思ってたんだけど実際の所どうなんだよ」
「いや、俺らも知らない」
「何でもいいから早く元に戻ってくんねぇと困るよな」
「なー」
何だかんだと年下のローチを可愛がっている面々は、ローチ達が戻ってくるまでどうしたら二人の仲を修復できるかを暫らくの間話し合っていた。
――――――
「助かったよ。ご苦労だったな二人とも」
「いいえ」
TF141が事務所として使用している建物は機密性保持のため部外者は殆ど立ち入ることは出来ない。そのため機材の持ち運び等も基本的に自分達でやっている。
不要なものをつめた箱を本館の処分品用倉庫に積み上げ、いつものように手伝ってくれたローチ達に感謝するマクタビッシュは少し迷ってからローチの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「今日はちょっと元気がないな?」
「……そうですか? そんなことないですよ」
にこりと笑って返されるが、マクタビッシュは眉尻を下げ、赤くなっているローチの目元に指先で触れた。
「これは……映画を見て……」
「……ま、お前にはアーチャーがいるからな。困ったことがあれば相談しろよ? 俺のとこでもいい」
「ありがとうございます……へへ、アーチャーにはいつも世話になってます」
「ホントにな」
「うっ……」
ストレートな返しにへこむローチの頭を今度はアーチャーが苦笑しながら撫でる。仲の良い兄弟のような二人にマクタビッシュも頬を緩めた。
あまりプライベートに口を出したくはないが、アーチャーがいるならと安心している部分もある。問題は……。
「お、ゴースト」
噂をすれば何とやら。今正に頭に浮かんでいた人物を見つけて声をかける。どうやら煙草を吸いに外に出ていたらしい。
「そろそろ朝のミーティング始めるぞ」
「了解」
答えつつ、まだ半分ほど残っている煙草を名残惜しげに吸っているのを見て肩を竦めると先に事務所へと入る。
「……ローチ」
「え…………あ、はい」
「ローチ行くぞ」
――が、そんな声が後ろから聞こえてマクタビッシュは足を止めると、やれやれと思いつつ振り返る。ローチを呼び止めたゴーストと、ローチの腕を掴んで中に入ろうとするアーチャーが視線をぶつけ合っていた。
(やっぱりゴーストと何かあったのか……)
そう思いながらアーチャーの肩に手をかける。ぴくりと震えたが、微かに纏っていた怒気は治めてくれたようだった。
「アーチャー、ちょっと話があるから来てくれ。ゴースト、そっちも用があるなら早く終わらせろよ」
二人に話をさせるべきだと思ったマクタビッシュは肩を掴む手に僅かに力を込める。不承不承頷いたアーチャーを連れて事務所に入る時、ローチの不安げな視線を感じたが、彼らのためにも振り返ることはしなかった。
「……大尉はどちらの味方なんですか」
外の方を気にしながらアーチャーが訊ねる。手のかかる弟のようなローチを、本当に心配しているのだろう。
「……答えに困るな。俺はただ、隊員同士のいざこざはちゃんと解決したいと思ってるだけだよ。重大な事故にも繋がりかねないからな」
その返しに納得したのかしていないのか、アーチャーは少し俯きがちだった顔を上げた。
「……大尉……一つ、お願いがあります……」
「え、と……何でしょう?」
ゴーストへ歩み寄り、一人取り残されたせいか落ち着かない様子のローチをじっと見る。
今までと変わらない……ように見える。だがやはり、違う。
あの日から目線が合わないのは変わらないが、ゴーストが一番違和感を感じるのはその表情だ。
どこかよそよそしく、貼り付けたように上辺だけのものとなっている。そうさせたのが自分なのかと思うと胸が軋んだ。
「……昨夜の……ことなんだが……」
「……昨夜……ですか……?」
「あぁ…………それで……」
――それで、何だと言うのだろう。
あれだけ一方的に詰っておいて、今更謝るのか?
謝って、それで済むことなのか?
『ああ、ローチは『優しい』からな。きっと許してくれるだろうよ……それで? そうやって許してくれたあいつの優しさにまたつけこむのか?』
内なる自分の声が嘲笑う。
続く言葉が見つからず黙るゴーストに、ローチはおずおずと口を開いた。
「……あの……書類を持って行った時の事ですよね……何か不備がありましたか?」
ひゅ、と息を呑んだ。俯き気味だった視線を上げると不安げに眉を下げるローチがいる。
『忘れてください』
昨夜の言葉が蘇る。
本当に『何も無かった』ことにするのか。
最初から、二人の関係も何もかも、全て白紙に戻したというのか。
「……中尉?」
その呼び方が全てを物語っていた。最早ゴーストには、謝罪をすることすら許されない。昨夜の言い争いですらないゴーストの一方的な暴言は、既にローチの中で『無かったこと』になったのだ。
それを、赦しと言ってしまえば、そうなのかもしれない。
一方的に無かったことにされ、僅かに覚えた怒りはしかし、虚無感に塗りつぶされる。ローチにそうさせてしまったのは、やはりゴーストが原因なのだから。
「……いい…………何でも……ない……」
「そう、ですか……あ」
事務所の中から時刻を告げる時計の音が聞こえる。一日の始まりの合図だ。
「ほら、早く入りましょう。怒られちゃいますよ」
そう言いながら、ローチは僅かに右手を上げたかと思うと、ゆっくりと体の横に戻す。傍から見れば中に入るのを促すように見えただろうその動作に、ゴーストは覚えがあった。
夜の街で出会った時、一緒に飲まないかと言いながらローチは自然とゴーストの手を取った。
そして、ゴーストはそれを振り払った。
(……くそ……)
苦々しい気持ちを煙草の煙と共に吐き出す。自分の不器用さを呪いながら、煙草の火を消して歩き出した。
――――――
「はー……」
一日が終わり、食事を取って部屋に戻るなりローチはベッドにダイブした。安物ではあるが、枕の柔らかさが心地よく、ぐりぐりと頭を押し付ける。
「お前は犬か」
「失礼なー」
苦笑するアーチャーがベッドの淵に座り、くしゃくしゃと頭を撫でる。
「……何か本当に犬扱いされてる気がするんだけど」
「うん、してる」
「うんじゃなーい!」
唇を尖らせながらも、ローチはアーチャーの手を退かそうとはしない。どころか気持ちよさそうに目を閉じる始末だ。
「……なんかさ」
「うん」
「疲れた」
「だろうな」
昨夜、失恋した、と泣きながら告白したローチは、その後もしばらく泣き続けた。落ち着いて、経緯をぽつぽつと掻い摘んで話している間も、またぐすぐすと鼻を鳴らしてはアーチャーに宥められていた。
『何か……変な、感じだな……』
つき合わせてごめん、と申し訳なさそうなローチのおでこに親愛のキスを落とすと、ぽつりとそう洩らしていた。
『……俺……こんなに、泣くほど……好きだったんだ……』
知らなかった、と顔を歪めて笑うローチに、アーチャーの方こそ申し訳なさで胸がいっぱいだった。何故ならゴーストのその態度の原因は、明らかに自分の発言のせいだったからだ。
よかれと思ってやったことだった。
二人の仲は十二分に深まっているのに、お互いに気付かず踏み出そうとしない。ローチに至っては距離を置くなどと言い始め、こちらが駄目ならば向こうに気付かせるしかない、と。
気付くだろうと思っていた。
ローチに好きな相手がいると言えば、己に向けられる言葉や視線から滲む想いと、それに対する己の感情に。
だがアーチャーが予想するよりも、ゴーストは遥かにネガティブな捉え方をしてしまったのだ。
(……んのクソ鈍感野郎)
忌々しげにそう思うが、事の発端は自分だったのだからゴーストばかり責められない。
アーチャーが真実を伝えても意味はないし、ゴースト自身が気づかなければいけないことだ。だからこそ考えるきっかけを与えたつもりだったが、完全に裏目に出てしまった。
自分がやったことをローチに話し謝罪したが、ローチが怒ることはなく、それがまたアーチャーの胸を苛む。
『いいんだって、遅かれ早かれ離れようって思ってたんだからさ。そもそも始まりからしておかしかったし、俺が先輩に嘘吐いてたのも悪いんだから』
ローチは優しい。それが時に人を苦しめるのだと、彼は知っているのだろうか。
誰か一人が悪かったわけじゃない。
タイミングが悪く、時には言葉が足らず、悪い偶然が積み重なってしまった結果なのだ。
「普通にするのって……疲れるんだなぁ」
ぼやく声で思考に耽っていた意識が呼び戻される。
それはそうだろう。ローチの傷心の理由である人物と今まで通り、否、何も無かった頃のように振舞うのだから。
「でもちゃんとできてた……よな……?」
「……ああ」
答えると、安心したように笑った。
このままこれを続けていれば、何れは慣れ、傷も僅かずつ癒えていくだろう。
――だが、本当にそれでいいのだろうか。
いつの間にか寝息を立て始めたローチの髪にキスすると、アーチャーも自分のベッドへ入った。
――――――
書類を捲る音と、パソコンのファンの音が部屋に響いている。
目こそ向けているものの、心ここにあらずで完全に頭に入ってこない。原因は分かっている。ローチのことだ。
あれから数日、特に変わったことはない。――そう、いつも通りだ。しかし何一つ変わっていないというわけでもない。
ローチが、ゴーストのことを『先輩』と呼ばなくなったこと。
ローチの纏う雰囲気や笑顔が、貼り付けたように薄っぺらく、感情を伴わないように感じることだ。
――その些細な変化が、一番の問題なのだが。
「は……」
煙を吐き出しながら短くなった煙草を灰皿に押しつけようとしてふと手が止まる。
灰皿にはすでに沢山の吸殻が積み上げられ、こんもりと小さな山を作っている。ため息を吐いて灰皿の端で火を揉み消すと、山になった吸殻も一緒にゴミ箱に捨てようとしてまた止まる。
ゴミ箱にも紙くずやら何やらが溜まっている。まずはゴミ箱に取り付けている袋の口を閉めて取り出し、新しい袋を探して部屋をうろつく。
『ここに入れておきますから』
ふとそんな事を言われた記憶が蘇り、流しの下にある戸棚を開くと束になったゴミ袋があった。それを一枚取り、広げてゴミ箱に取り付ける。
何をしていたんだったか――一瞬そう思い、すぐに思い出して吸殻に火が残っていないのを確認すると小さな山をゴミ箱に捨てた。
この分だとシュレッダーにも裁断した紙くずが溜まっているのだろう。若干うんざりしながら、何故こんなに溜まっているのかと考えたところで漸く気付いた。
『またこんなに溜めて……せめて灰皿くらい自分でやってくださいっ』
『この辺は触っても大丈夫ですか?』
『見てください! ぴかぴかになりましたよ!』
『わかりました、じゃあ来週もまた来ますね』
いつからか、習慣になっていた。
ローチが来れば、灰皿もゴミ箱もシュレッダーも空になり、ちょっとしたほこりなんかも綺麗になくなっていた。
いつからか、それが当たり前になっていた。
「…………」
ゴーストは無言でシュレッダーを開け、紙くずの溜まった袋を取り出して口を閉め、新しい袋を取り付けた。案の定溢れんばかりに溜まっており、もう少しやるのが遅ければ紙詰りでも起したかもしれない。
シュレッダーのゴミ袋と、先ほどゴミ箱から取り出した袋を持ち、外の大きなダストボックスに捨てに行く。
部屋に戻ると椅子に深く腰掛け、ため息を吐いて部屋を眺めた。
空の灰皿、空のゴミ箱、空のシュレッダー。
少し前まで当たり前だった光景に胸が痛む。
ゴーストが部屋で仕事をしている時に来れば、視界の端で動き回る姿を見ることが出来た。時には雑談をすることもあった。
何てことのない光景が記憶の底から浮かんでくる。部屋のそこかしこにローチの気配が残っていて、それを感じる度に、自分以外誰もいない部屋が妙に広く見えた。
「っ」
唐突にポケットに入れていた端末が震えた。反射的に取り出して画面を見る。
「…………」
脱力すると同時に、一体何を期待していたのかと自分を笑いたくなった。
「……はい」
『もしもし、俺だ』
「どちらさんですかね」
『おいおいそりゃないぜ相棒。声でわか……っていうか画面に名前出るんだから分かるだろ!』
「いや、盗まれて他人に使われてる可能性もあるかと」
『ったく……マクタビッシュだ』
「大尉でしたか」
『そうだよ』
しょうもないやり取りに少しだけ気が紛れる。電話の用件は、次の任務について話したいことがあるから後で部屋に来て欲しいというものだった。
二つ返事で承諾し、いくつか言葉を交わしてから切ろうとすると、マクタビッシュが小さくため息を吐いた。
『なぁ……最近隊員の中で悩んでるやつがいるみたいでな……上に立つ人間ってのも大変だな』
恐らく、ローチのことだろうと思った。話していて浮上しかけていた気分がまた少し沈む。
「そういうのは俺にゃ向いてないんで頑張ってくださいよ……まぁあんたが悩んでるってんなら俺がお相手しますが」
『頼りにしてるよ……お前も何かあったら相談なり何なりしろよ』
それを最後に電話は切れた。端末を机に置き、椅子の背凭れに体を預けて天井をぼんやりと眺める。
「……悩み……ね……」
目を閉じても浮かぶのはやはりローチの泣き顔ばかりだ。
――正直な所、もうどうしていいのかわからなかった。完全にお手上げだ。
何とかしたい。でも方法が思いつかない。どんな絶望的な状況でも、咄嗟の機転と培った技術で切り抜けてきたのが嘘のように手も足も出ない。こんなことは初めてだった。
たった一人相手に、こんなにも心を乱されている。
誰かに話せば、別の視点から見れば、道が拓けるのだろうか?
相談しろというマクタビッシュの言葉を思い出しながら、ゴーストはしばらくの間天井を睨み続けていた。
相談しない
※ここから先はバッドエンドになります。死ネタなので苦手な方はご注意ください※
その姿と声を認識した瞬間、ふっと力が抜けるのを感じた。
(あぁ……)
もう殆ど力が入らないけれど、自然と口元が弧を描く。それはきっと、他人から見れば全く変わっていないように見えただろう。
(――よかった)
会えて、よかった。
音も色も消えていく中で、安堵と幸福に包まれながら、ゆっくりと瞼を下ろした。
――――――
任務から帰投した時、空はいやに晴れ渡っていた。
通信でローチやマクタビッシュのいる別働隊も任務が完了し基地に向かっていると聞いていたので、簡単な報告をした後ヘリポートが見える位置にある建物によりかかってぼんやりと空を見ながら煙草を吸っていた。
ローチとの関わりが希薄になってどれくらい経っただろう。然程長くはないはずなのに、もう何ヶ月もこの状態が続いているような気がして気が滅入った。
別段困ったことはない。話しかければ答えるし、笑いもする。それでも何かがずれていて、戻し方もきっかけも掴めないまま日数だけが経過していく。
「中尉、戻ってきたみたいですよ」
傍で同じように煙草を吸っていたロイスとミートが跳ねるように立ち上がった。近づいてくる音と機影を確認し、ゴーストは気のない返事をした。
何故待っているのだろう。話すことがあるわけでもないのに。
――ただ、無事を確認したい、とは思った。
「あれ……?」
ミートが声を上げたのでその視線を追うと、ヘリが近づいてくるのに合わせて担架を担いだ衛生兵達が走ってきた。
最初の一瞬は、疑問だった。
次の瞬間、ざわりと胸騒ぎがした。まさか、という予感と、そんな筈はないという願いにも似た思いがせめぎ合う。
じわりと滲む汗。祈るように、近づく機影を見た。
風を起こし砂を巻き上げながらヘリが着陸する。ハッチが開いてマクタビッシュが何かを指示している。衛生兵と入れ替わるように中から隊員が出てくる。
いない。
――いない。
心臓の音が煩い。気付けば走り出していて、中から運び出されてきた人物を見た瞬間息が止まった。
「ローチ……っ!!」
まだヘリの音が止まない中でも声が聞こえたのか何人かがゴーストへ振り向いた。担架に乗せられたローチの、僅かに開いた目と視線が合う。
笑った、ような、気がした。
応急処置されているものの、服に広がる赤黒い染みは夥しい量の出血を物語っており、ゴースト自身も血の気が引いた。
担架を運ぶ衛生兵を呆然と見送りながら立ち尽くす。他の隊員達もゴーストに声をかけることなく、マクタビッシュに指示されてそれぞれ動き出す。
「……マクタビッシュ」
背後にいるであろう男の名前を呟いた。頭の中は真っ白で、何を言いたいのか自分でもわからないまま、返事のない事に苛立ち声を荒げた。
「マクタビッシュ!!」
振り返り、沈痛な面持ちの男の肩を掴む。力強く握ったせいで痛みを与えただろうが、マクタビッシュが表情を変えることはなかった。
「どういうことだ……! どうしてあいつが……!!」
最後に聞いた通信では、任務が終わりこれから帰投するということだけだった。あんな、あんな瀕死の重傷を負ったなんて聞いていない。
「…………すまない」
「そんなこと聞いてんじゃねえ……ッ」
「敵の残党が追撃を仕掛けてきた。捨て身に近かった……他のやつらが負傷していたから、ローチが殿(しんがり)をしていて……ヘリに乗り込む直前だった……」
「、……ッ……!」
自分で訊いたことなのに、ゴーストは淡々と返したマクタビッシュの言葉で全身が燃え上がるように熱くなる。
マクタビッシュの体を突き飛ばすようにして離した手は怒りからか動揺からか、ぶるぶると震えていた。思考はぐちゃぐちゃのまま役に立たない。
ただ、思うことはたった一つ。
(やめてくれ……ッ)
とうの昔に捨て去った神に向かって。
失うのはもう嫌だと、縋るように祈るゴーストを嘲笑うかのように、結末はあっさりとしたものだった。
――――――
報告書を作成するためにPCのキーボードを叩く音と微かな話し声しか聞こえないTF141の事務所内。キーボードの音すらもまばらで、誰もが心ここにあらずという状態だった。
そんな中で戻ってきたマクタビッシュから告げられたローチの死は実に事務的で、どこか『ああ、やっぱり』という空気すらあった。
『遺族の希望で、遺体は祖国に戻ることになった……挨拶したい奴は早めに行ってやれ』
マクタビッシュがそう言うとやはり最初に立ち上がったのはアーチャー達だった。それに続くように他の者も部屋を出て行く中で、ゴーストはただPCに向かい報告書の作成を続けた。
隊員達がローチに別れの挨拶をしていく中で、一番最初に来たはずのアーチャーは部屋から出ようとしなかった。
オゾンとスケアクロウに促されても、じっとローチの傍から離れず、彼らが出て行ってからもじっと一人の人間を待ち続けた。
「……寒い時期でよかったな。体が傷みにくい」
ローチの髪をそっと撫でながら小さく呟いた。
「……なあローチ……好きになるやつは選んだほうがいいぞ……」
部屋の中は酷く寒い。時間が経つに連れて体は冷えていく。震える指先で、小さな手帳を握り締める。
いつまで待っても来る気配のない男に業を煮やしてやがて立ち上がるまで、アーチャーはそうやってローチの傍らに居続けた。
ゴーストは一人、TFの事務所で仕事をしていた。部屋にはゴースト以外誰もいない。
ローチの所に行っている者もいれば、重い空気に耐えられず休憩と称してどこかへ行ったまま戻ってこない者もいる。
キーボードを叩く音だけが響く中で、誰かが戻ってきた。スケアクロウとオゾンだった。
アーチャーに続いて部屋を出た二人もまたローチと仲が良く、普段はお調子者でムードメーカーである彼らですら少し目元が赤い。
――大抵の場合、戦死すればその地に置き去りにされてしまう。良くてドッグタグか小さな遺品を持ち帰れるくらいのもので、ローチのように綺麗な状態で対面できるのは珍しい。
だからだろう、皆がいつも以上に感傷的になっているのは。あるいは、ローチの人望の表れだろうか。
既に幾度も仲間の死を経験してきたゴーストは、彼らのようにそこまで大きく感情を動かすことはない。それを御する術を自然と身につけていた。上官としても、士気を下げるような態度は出来る限り見せないべきだとも思っている。
部屋に入ってゴーストを見るなり少し驚いた顔をしたオゾンは、他に誰もいないことを確認すると遠慮がちに声をかけてくる。
「……あの、中尉は……ロー」
「オゾン」
いつもは揃って騒ぎつつも、肝心なところではオゾンの抑えに入るスケアクロウがぴしゃりと言い放ちその口を止めた。
「……中尉、事務所には俺らがいますから、休憩してきたらどうです?」
「……そうだな」
短く答えると立ち上がる。
何か物言いたげなオゾンと、前を向きつつもゴーストと目線をあわさないスケアクロウと入れ替わるように部屋を出た。
バラクラバを被ったままで、誰に見えているわけでもないのに表情を消しながら、ゴーストはその二つの無言の訴えを無視した。
「行ってやらないのか」
事務所を離れ、外で煙草を吸っていたゴーストの隣にマクタビッシュが立った。
同じように建物の壁に凭れかかり、煙草に火をつける。吐き出した煙が上る先には、日が落ちて少し赤に染まり始めた空がある。
「お前が行ったらあいつも……」
「行って何になるんだ」
放った言葉は思ったより冷たくて、しかしゴーストはそれ以外に返す言葉を思いつかなかった。
「死人は何も感じない。喜んだり怒ったりしない……するのは生きてる人間だけだ」
「ゴースト」
咎めるような、窘めるようなマクタビッシュの声に、子どものように下らない反発感を覚える。それは未だに、嫉妬が尾を引いているからだろうか。
「俺が行ったって喜んだりするようなやつじゃないですよ。寧ろ清々してるんじゃないですかね」
「ゴースト……あのな……」
マクタビッシュの声が途切れた。驚いた表情をした彼の、その視線の先を追おうとした瞬間痛みと衝撃で軽く意識が飛ぶ。
「あんたに何がわかる!!」
聞こえた声はどこか遠い。
地面に倒れ、遅れて頬に痛みを感じた。ぐらぐらと頭が揺れ、僅かに血の味を感じて、殴られたのだと漸く理解した。
「放せッ! 放してください大尉……!!」
「落ち着けアーチャー!」
ゴーストは瞠目した。
普段から落ち着いていて、滅多なことでは声を張り上げたり感情を見せないアーチャーがマクタビッシュに羽交い絞めにされている。目に涙すら滲ませて、ゴーストを睨め付ける。
「こんなッ……こんな奴……!」
「ああわかった。大丈夫だ、大丈夫だから……」
マクタビッシュに宥められて、徐々に怒りを治めていく。ぐす、と鼻をすすりながら力を抜いたアーチャーの体をそっと離して、正面からマクタビッシュの太い腕が抱きしめる。
「……ゴースト、確かにお前の言うとおりだ。死者は何も感じないかもしれない……でも生きてる人間は感じるんだ……わかるだろう? 死者を見送るのは、生きている人間が前に進むための儀式でもあるんだ」
いつかアーチャーがローチにしていたように、マクタビッシュの手がアーチャーの背を撫でる。ゴーストはそれを呆然と見ていた。
「ちゃんと会いに行け。あいつの死を実感しろ。……これ以上後悔したくないなら」
「……すみません、大尉」
アーチャーが声を上げてマクタビッシュの腕から離れる。目元を擦り涙を消し去ると、倒れたままのゴーストを真直ぐに見た。
歩み寄り、地に膝をついて同じ目線まで下がるとドン、と胸に衝撃。
目線を下げると、アーチャーの手が胸にぶつかっている。殴られたのではない。胸元に押し付けられたのは、小さな手帳だった。
「……これは、ローチの想いです」
「…………」
「もしそれを読んでまだ分からないなら……自分の気持ちに気付かないフリ続けるなら……俺はあんたを絶対許さない……」
呪詛のように吐き捨てると、アーチャーはマクタビッシュに一礼して去っていった。
――――――
押し付けられた手帳を持って、ゴーストは自分の部屋に戻った。
所々血が滲んでいるのは、肌身離さず持ち続けていた証だ。
ローチが手帳をつけていることは知っていた。別段珍しいことではない。日々の訓練の記録をつける者もいれば、日記のように起こった出来事や感じたことを書く者もいる。
これはローチの想いだ、とアーチャーは言った。
――読むべきではない。生きていようが死んでいようが、個人の内側を覗き見るような行為はしたくない。
(……ちがう……)
本当は怖いんだ。恐れているだけなんだ。
胸の奥にしまい込んだ、脆く柔らかい部分が暴かれてしまうから。
触れられるだけでぴりぴりと痛むそれが怖くて、逃げていただけなんだ。
今更理解して受け入れたところで何もかも遅い。けれどゴーストは顔を上げた。
「…………」
ゆっくりとページを捲る。
綺麗に書かれた文字。走り書きのような乱雑な文字。どれもがその時々の感情をも表しているようで、正しく『ローチの想い』そのものであった。
日付と、トレーニングメニューが書かれたページが続く。時折感想のような一言が添えられていて、中には愚痴っぽいことも書かれていたりして、実際に今ここでローチが話しているのに耳を傾けているような錯覚さえ覚えた。
ふと目が止まる。
黒のインクで書かれた中にある、青い文字。
『びっくりした。すっごいびっくりした。とにかくびっくりした。ああどうしようまだちょっと動揺してる。でも嫌じゃなかったんだよなぁ……やっぱりさ、そういうことみたいだ』
日付を見て瞠目した。ページを捲る指先が微かに震える。
黒文字の中に、また青を見つける。
『前のとこ読み直してちょっと恥ずかしい。女の子じゃないんだからさ……。今日はまたちょっと嘘吐いちゃった。まあ半分は本当だけど……いや、やっぱり半分以上は下心かも。これからも続くのかなぁ、なんかもう心臓持ちそうにないよ』
『連絡先交換できた。なんか散々だったけど、でも嬉しい。てかまだ顔にやけてる……我慢しろ俺』
『一緒に映画に行った。まあ皆も一緒だったけど、今度改めて約束してくれるって言ってくれてびっくりした。楽しみだな。でも映画の誘い、この前は断られたのに何で今日になってOKしてくれたんだろ? 予定が変わったのかな』
何度も文章と日付とを確認する。
日付を正確に覚えているわけじゃない。メールも着信履歴も全部削除してあるから確認のしようもない。
でも――。
心臓が痛い。
もう閉じてしまいたい。
それでもゴーストはページを捲った。そしてとうとう、それを見つけた。
『まだ夢の中にいるみたいだ。ふわふわしてる。だって本当に、最高の一日だったから。
ご飯もすっごい美味しかったし、たくさん話もした。初めて知ったこともたくさんあったし、知りたいこともまた増えた。
マグカップを買ってもらった。
ちょっと大きめだけど、飲むのに時間がかかるから一緒にいる時間が増えるかなぁ……なんて、ホントなんでこんなに乙女思考になっちゃうんだろ? バレたら引かれるかなぁ。
夜のご飯もお酒も美味しかった。
酔ってたからホテルで休んだ。
すっごく優しかった。
名前を、呼んでもらった。
ああだめだ、思い出したらなんか変になりそうだ。
こんな仕事やってるから、冗談でも何でも思うべきじゃないんだけどさ。
もう死んでもいい、って、思った。
そのくらい、幸せだったよ』
目が熱い。顔が熱い。体が熱い。
指先は震えて上手くページを捲れなくなった。
『サイモン』
記憶の中に沈んでいたその声が浮上して、ゴーストの心臓を締め上げた。
手帳が手の中から滑り落ちる。床に落ちたそれに目線を向けると、一番最後のページが開く。
そこに書かれたものを見た瞬間、弾かれるように立ち上がった。
ふらふらと覚束ない足取りで走りながら、それがどうやって書かれたのか、何故かその光景が鮮明に脳裏に浮かぶ。
瀕死の傷を負い、仲間に声をかけられながら、ローチは最後にそれを望んだのだろう。
震える手で、力を失いつつある体で、そのたった一言を。最後になるかもしれない望みを、生きる希望にしたのだろう。
その部屋には誰もいなかった。
横たわる冷たい体があるだけだ。
その傍らに立つ。まるで眠っているかのような穏やかな顔。床に膝を付き、躊躇いがちに手を伸ばした。
「ローチ」
震える声が誰のものかも分からない。柔らかな髪はいつもと変わらず、だがいつもゴーストの低い体温を温めてくれる熱はない。
氷のように冷たく、硬くなった体が彼のものとは思えない。
「なぁ……起きろよ……」
話したいことがあるんだ。
言わなきゃいけないことがあるんだ。
遅すぎた悔恨に、誰かが嗚咽を零した。
「……ゲイリー……っ」
最後に見た、ローチの微かな笑みが瞼に浮かぶ。
小さな手帳の、最後のページに書かれていたのは、震えた青い文字でたった一言。
‘I want to meet you’
『あなたに、会いたい』
End.
相談する
※バッドエンドとの温度差にご注意ください!※
「よう、早いな」
「少し待ったほうが?」
「いや、大丈夫だ」
ゴーストはマクタビッシュの部屋を訪れた。
出された紅茶とちょっとした菓子をつまみながら血なまぐさい仕事の話をするというのは些か……いやかなりアンバランスだろうが、彼らにとっては既に日常と化していることだ。
「それで班分けなんだが……」
今回は隊を二つに分け、テロリストが潜伏する二つの拠点を同時に叩く。離れた地にあるためお互い援護に駆けつけることはできないが、各隊共に充分な戦力を投入する。
メンバー表を見ると、ゴーストとマクタビッシュがそれぞれ指揮を取ることになっており、メンバーも妥当な組み合わせだ。
特に問題なさそうだが、マクタビッシュは何か物言いたげな視線を向けてくる。
「……何か?」
「いいや、ローチと同じ班の方がいいかと思ってな」
「何ですかそりゃ。俺たちゃ仲良しこよしで仕事やってるわけじゃない」
「でも普段からよく話したり信頼感あるやつが多いほうがやりやすいだろ」
「……何が言いたい」
「……あいつと何かあったんだろう?」
つい仕事用の言葉遣いを忘れて苛立ちを隠さずに訊ねるゴーストに臆することなく、マクタビッシュは核心を突く。
黙ってしまったゴーストから視線を外すと、アーチャーとの会話を思い出しながらカップを揺らした。
『中尉に、きっかけを……あげてもらえませんか』
自分のせいで拗れてしまったのだと、アーチャーは苦々しげに話した。
『詳細を聞いても?』
『……俺の口からは言えません……当事者に言う気がなければ、俺が気安く他人に話していいことではありません』
その答え自体で、どのような内容であるかはある程度察しがつく。あの二人が何か問題を抱えていることは気付いていたので、アーチャーがこうして話してくれたのは寧ろありがたかった。
『ローチには俺がいましたが……あの人は誰かに相談って柄じゃないでしょう?」
『あいつがローチのことで俺に相談できるよう仕向けられれば、か?』
『大尉にお願いするようなことじゃないのはわかってます……すみません』
『いや、寧ろ俺でいいのか? お前の方が器用にやれそうだ』
訊ねると、アーチャーは少し気まずそうに視線を逸らした。
『……そうしたいのは山々ですが……話してたら思わず手が出そうな気がして』
『……く……ははっ……いや、悪い……そうか、OK、やってみよう』
『お願いします』
『任せろ、どんな困難なミッションでもこなすのが俺たちTF141だ』
『……はい』
「マクタビッシュ……」
以前、酒の席で話した時はまだ『上官と部下』の関係として、仕事の話として相談していた。
ゴーストが階級でなく名前を呼ぶのはプライベートの話の時だけだ。いつもより少し弱弱しく聞こえる声に、マクタビッシュは静かに耳を傾けた。
「…………俺は……どうしたらいい……」
――――――
『あいつを傷つけた』
懺悔するように、ゴーストは今までの経緯をぽつぽつと話し始めた。
任務後の熱が静まらず、たまたま部屋にいたローチに行為を迫ったこと。
その後も関係が続いていたこと。
ローチに暴言を吐いて傷つけたこと。
椅子に座り、脚の上で組んだ手を見ながら話していたゴーストは、話を聞いているうちに怪訝な顔になるマクタビッシュに気付いていなかった。
「……それで、お前は何を悩んでるんだ?」
「ああ? ……だから……どうしたらいいかもう……よくわかんねぇって……」
「何が?」
「いきなり態度変わりすぎてわけわかんねぇっつってんだよっ……! どれを信じりゃいいんだクソ……」
「え、そりゃお前が好きっていうのが本当だろ」
「……え?」
「えっ」
「…………」
「…………」
沈黙が降りる。
ゴーストはあまりにもあっさりと断言するマクタビッシュをまじまじと見、逆にマクタビッシュは本気でわかっていない様子のゴーストに驚きを隠せなかった。
「……いや、だって……明らかにそうだろ……」
「……どこ、が」
「だから! 普通上官に言われたからって簡単に抱かれるわけないだろ! お前が好きだから受け入れたんじゃないのかっ」
ゴーストはうろたえる。彼とて一度は考えた。そんなに簡単に体を許すのかと。
その時は結局答えを出せないまま、いつの間にか忘れてしまっていた。
その答えが、そんなに単純なものだなんて――。
混乱する中で思い出したアーチャーの言葉が、ゴーストに追い討ちをかけた。
『好きな人がいるみたいなんですよ』
『結構前からみたいなんですけどね』
ゴーストは、それが自分ののことだという可能性なんて露ほども考えていなかった。
好きな相手がいるから、その相手と想いが通じたから、自分から離れようとしたのだと思った。
もし……もし、その『好きな人』というのが――。
「おいゴースト」
呼びかけられてハッとする。どうなんだ? と問われてもやはり、ゴーストはまだ信じられない。
「……だって……俺が無理矢理……」
「脅したり、抵抗できないように縛ったりしたのか?」
「いや……でも……あの状況じゃ断るに断れなかったんだろ……」
「だったらそれっきりで終わるんじゃないか? お前が必要なら来るって、言ったのはローチの方だろう? その時点で確定だろどう考えても」
「っ……だってあいつは馬鹿正直でお人よしだから……!」
「何でそう意固地になるんだお前は! お前が好きだからに決まって……」
「あいつが俺なんか好きになるわけないだろうが!!」
堪らず怒鳴ってしまったゴーストはすぐハッとして口を噤んだ。
再び二人の間に沈黙が降りる。
無意識のうちに声を荒げてしまい、外に聞こえてやしないかとマクタビッシュも少し肝を冷やしながらため息を吐いてゴーストを見た。
自分を好きになるはずがない――それがゴーストの思考を遮っていたものの一つだ。
そもそもローチもゴーストも男が好きなわけではない。その時点で無意識のうちにそういった可能性を排除している。
仮にローチがゲイだったとしても、自分なんか選ぶわけがない。選ばれるならきっと、優しくて、包容力がある……そう、マクタビッシュのような人間だろう。
それはいつからか、ゴーストの中に根付いた小さな劣等感。別に人に好かれたいわけではない。けれど、人望のあるマクタビッシュを見て、そして彼に懐くローチを見て、気付かないうちに燻らせていた想い。
自分を好きになるはずがない――たとえ上官として好かれていようとも、それだけだ。そんな考えを持つせいか、ゴーストは自分に向けられる好意を無意識のうちに否定するようになっていた。
「……俺がお前と同じようなこと言ったって、あいつは頷かないよ」
「……あいつは……役に立てるなら嬉しいって……お前の所にだって掃除しに行くんだろ」
「ありゃたまたま散らかってた時に手伝ってくれただけだ。定期的にしに行ってるのなんてお前の部屋くらいだぞ」
未だにその事実を受け入れることができないのか、困惑したままでもでもと繰り返すゴーストにいい加減痺れを切らすと、マクタビッシュは彼の肩を掴んで俯きがちだった顔を上げさせた。
「とにかくだ。お前はどうしたいんだ」
「……どうって……」
「ローチをどうしたい。ローチとどうなりたい。今のままでいいのか、謝罪して許してほしいのか。……まだローチに気持ちが残っているなら、もっと深い関係になりたいのか」
「……深い……?」
「? だってお前もローチが好きなんだろう?」
「……え」
「えっ」
「…………」
「…………」
再度降りた沈黙は妙に長く感じられた。実際は一分……その半分も経っていないだろうに、廊下からのざわめきがうるさく感じられるくらい、二人のいる部屋だけが静かに時間を止めていた。
――先に沈黙を破ったのはゴーストの方だった。
「……え……………………は……?」
青の目はマクタビッシュから外され、うろうろと宙を彷徨う。
じわりと肌の赤みが増し、何か言いかけては止めるを繰り返す。
鬼教官であり、優秀な副官でもある『ゴースト中尉』の姿はそこになかった。
「……ゴースト……お前……」
「ちょ…………待っ……」
ガッとマクタビッシュの腕を掴んで押し返しながらゴーストは俯いた。
「違……待……ちょ、っと……待って、くれ……」
「…………」
マクタビッシュは天を仰いだ。
ジーザス。これではアーチャーが苦労するわけだ。
恐らく事情を知っていたならば、マクタビッシュもここまでストレートな物言いはできなかっただろう。
冷静なマクタビッシュとは逆に、ゴーストの思考は生まれて初めてではないかと思える程混迷を極めていた。
(……なんだよ……それ……)
確かに、ローチのことは好ましく思っている。一人の部下として、仲間として。
でもそれは親愛としてのはずで、特別な意味なんてなかった。なかった、はずだ。
(……俺もあいつも、ゲイじゃない……)
――であるのに、お互いあっさりと一線を越えてしまった。その意味を改めて考える。
心臓が煩い。どこもかしこも熱くてたまらない。
今更惚れた腫れたという話で恥らうような年でもないのに、どうしてここまで動揺しているのか分からなかった。――分かりたくなかった。
「……マクタビッシュ……」
「……うん?」
「…………考える時間をくれ……」
「班の編成をか?」
「違ぇよ! ……あぁもう……何でもいいから……」
膝に肘をつき、両手で頭を抱えているゴーストに悪いと思いつつ少し笑ってしまう。
しばらくして耳や項まで赤くなった肌が落ち着いてくると、ゴーストはふらりと立ち上がった。
「落ち着いたら電話くらいくれよ」
その声に片手を上げて返すと、ゴーストは自室へと戻っていた。
――――――
部屋につくなりベッドに身を投げ出して深く息を吐く。まだ熱が篭っているような気がして低く唸った。
『好きなんだろう?』
何でもないことのように言われた言葉たちがゴーストの胸を揺さぶる。
冷たいシーツに体温が移り生温くなっていくのを感じながら寝返りをうった。
――家族と呼べる人達を失ったのは、もう随分と前だ。特別に親しい人間もおらず、それ以来ずっと一人でいた。
職業柄、友人が出来てもすぐ別れがくるなんてこともざらで、必要以上に別れを辛くしないためにゴーストが選んだのは、壁を作ることだった。
もともとの性格のせいで近づいてくる人間は少なく、どんな相手でも内側には踏み込まず、踏み込ませない。そうすることで自ずと距離は保てた。
数少ない、親しいと言える者達がいなくなっても、悲しいと思いこそすれ、そこまで引きずることはない。
薄情だと言われるかもしれないが、そうしなければいけない、弱い自分がいることをゴーストは知っていた。
失うのは、怖い。
大切な人達が消え、一人残されるのは――怖いことなのだ。
だから、大切なものを作らないように。最初から一人でいるように。
そうやって生きてきた。
もう、自分が誰かを愛したり、大切に思うことなんてないと思い込んでいた。
そのはずだった。
「…………」
認めたくない。
失った時の痛みがどれ程のものか、かつての記憶がゴーストを苛む。
『他の女達よりもローチがいい』
『ローチは他の人間とは違う存在だ』
そう認めたことでさえ、ゴーストの中では大きな変化だったのだ。今までずっと拒否し続けて、目を逸らし続けていたものを受け入れろというのも難しい話である。
その上ゴーストは自分の気持ちだけでなく、ローチの想いについてもまだ半信半疑だった。泣きながら言ったあの言葉が嘘でないにしても、ゴーストを好きだというのは何かと傍にいたせいで敬愛と好意を取り違えているのではないかと。
様々な考えが浮かんでは消えてを繰り返す中で、いつしかゴーストの意識はゆっくりと夢に侵食されていった。
その部屋は酷く寒かった。
その部屋にはゴーストともう一人の人間しかいない。
――否、その部屋にはゴーストしかいない。
部屋の中心に横たわっているのは、魂のない抜け殻だ。
それはローチの姿をしていた。
冷たいそれに触れると、じわりと闇に覆われていく。
銃声と怒号。
熱と激痛。
記憶の中のローチの笑顔がぼやけ、薄れて、ゴーストの意識と共に闇に飲み込まれた。
「ッ……!!」
はっと目を覚ました。
じんわりと嫌な汗が滲んでいる。鼓動が速く、息も乱れていた。
嫌な、夢だ。
ゴーストはローチと別働隊だった。そして帰投した後、知らされるのだ。ローチが死んだことを。
「……くそ」
マクタビッシュとあんな話をしたせいだ。そう思いながらもあの冷たい感触が消えてくれず、ため息を吐きながら寝返りをうつと視界の端にあるものが映った。
ゆっくりと体を起すと、それが置いてある簡易キッチンへと歩く。
並べられた食器の中にあるそれは、まだこの部屋に置いてから日が浅く、周りから少しだけ浮いていた。
「……結局、一回しか使ってねぇな……」
淡いブルーの中に、可愛らしくデフォルメされたドクロが描かれたマグカップ。
ローチが望んで買ってやったそれを、最初は地味で、正直ダサいとすら思ったけれど。
どうして気付かなかったのだろう。
ローチが何を思ってそのデザインを選んだか、今ならば少し分かる。
主に使われることなく、ぽつんと寂しげにしているそれをそっと手に取ってみた。
『大事にしますね』
「……っ」
瞬間、蘇った記憶に思わずカップを落としそうになって慌てて持ち直す。
心臓が早鐘を打ち、かっと体温が上がった。今の今まで泣き顔か、貼り付けたような笑顔しか思い出せなかったのに。
それはまるで、静かな水面に石が投げ込まれたようだった。
水が跳ね、水面が揺らぎ、波紋は次第に大きくなっていく。
『いいえ! すごく嬉しいです!』
『俺、これが欲しいです』
そうだ。ローチはいつだって、素直に喜びを表現した。嬉しそうに、幸せそうにはにかんだ。
落とされた石はやがて記憶の底に辿り着き、沈殿していた思い出を舞い上げる。それを掬い上げようと、ゴーストは必死に手を伸ばした。
『……それに俺、本当に、好きなんですよ』
笑顔の裏に隠されてしまったものを、切なげに細められた瞳を、確かにゴーストは見た。
『あ、先輩のこともちゃんと好きですよ?』
おどけたように言ったローチの、色づく肌と揺らめく瞳に、欲情した。
酔った勢いじゃない。誰でもよかったわけじゃない。
あの時、ただ心のまま、『ローチが欲しい』と思った。
それから――それから、名前を、呼んだ。
滅多に呼ばれることのない、知る者すら殆どいない自分の名前を教え、ローチはそれを呼んでくれた。
『……サイ、モン……』
――キスを、した。
熱くて、苦しくて、心も体も満たされていた。
深く繋がりあう喜びに満ちていた。
泥の中をまさぐるように、記憶を探る。
確かに耳に届いていたはずのそれを。記憶の海に沈んで、忘れ去られてしまったものを。
『サイモンっ………………き、だ……っ…………好、き……すき……っ』
うわ言のように何度も繰り返された言葉。
腕をまわされ、脚を絡められ、全身で縋られるのが心地よかった。
子どものようにぽろぽろと零す涙を唇で拭ってやれば、何度も啄ばむようなキスを繰り返した。
「……っ……は……ぁ……」
記憶と感情の奔流に飲まれる。
よろめきそうになるのを耐え、深呼吸して少し自分を落ち着かせるとマグカップをそっと元の場所に戻した。
シンクの淵に手をついて項垂れる。
どうして、忘れていたのだろう。
酒のせいだったのか、あるいはその感情に気付きたくないという逃げが無意識にそうさせたのか――否、そんなことはどうでもよかった。
「……俺……は」
ローチの想いを知り、自分の想いを自覚し、ゆっくりとそれを飲み込んで。
「……本当……最っ低だな……クソッタレ……」
あの時、ローチに投げつけた言葉がどれほど残酷で、どれだけ彼の心を踏み躙ったのか。
あの時、どんな想いで嗚咽を飲み込み、全てを押し殺して笑ってみせたのか。
考えただけで息苦しくなる。目の奥がじわりと熱くなる。そんな資格ありはしないのに。
幼稚で下らない嫉妬を、その理由を考えもせずぶつけた愚かな自分を酷く恥じた。
恨んでいるだろうか。
憎んでいるだろうか。
――悲しんで、いるのだろうか。
今まで通り何事もなかったように振舞うローチは、全てを忘れて別の誰かを好きになるのだろうか。
「…………」
それを、嫌だと思う自分を、自覚する。
今更許されないことは分かっている。
許されなくていい。罰を与えられてもいい。ただ――。
ポケットから携帯端末を取り出し、アドレス帳を開く。
あの日以来、仕事の用件以外では殆ど鳴らなくなってしまった。
誰かに見られても問題がないようにと、着信履歴もメールも、ローチの痕跡は何も残っていない。
「…………ゲ、イリー……」
ローチの番号が表示された画面でゴーストの指は止まり、なかなかボタンを押すことができず、暫らくの間その画面を眺め続けた。
――――――
「だークソっ! また負けたー!」
「オゾン弱ぇー」
「うっせぇぞアーチャー!」
「人の部屋で遊んどいてそれ?」
「あ、スケアクロウちょっと交代して~疲れた」
「あっローチてめぇ勝ち逃げかよずりぃぞ!」
「休憩だって!」
夜だから声は抑えているものの、相変わらず騒々しいメンバーだ。
くすりと笑い輪から少し離れると、ベッドの淵に腰掛けて携帯端末を手に取った。
特に着信もメールもない。
――忘れようとしているのに、ついこうして彼の影を探してしまう自分に呆れる。
何の変化もしない待ち受け画面から、アドレス帳を開いて目当ての人物のそれを表示させた。
あれから何度こうやって連絡先を開き、そして何もせずに閉じたか知れない。
『何もなかった』ように振舞ったのはローチ自身で、だからこそ今更連絡なんて出来るわけないのだけれど。
小さくため息をついて、今日もまたそれを閉じる。――閉じようとしたはずだった。
「なあローチィィもう一回! スケちゃん真面目にやってくんない!」
「うわあっ!! ……もー何?」
「何だよいい感じに勝たせてやったろ」
腰にタックルするように飛びついてきたオゾンを受け止めきれずにベッドに沈んだ。
どうやら後を任せたスケアクロウが手抜き……所謂接待プレイでもやったのだろう。ぐりぐりとわき腹の辺りに頭を擦りつけながらもう一回と泣きつくオゾンに苦笑しつつ体を起そうとベッドに手をついた。
『…………ローチ……?』
スピーカー越しの微かな声に、弾かれたように顔を上げる。
画面に表示されているのは、『通話中』の文字。相手が誰かなんて分かりきったことだった。
心臓が暴れ始める。倒れた時に誤ってボタンを押してしまったのだろう。久し振りに聴く電話越しのその声にどうしよう、どうしたらいいと思考が空回りする。
『……おい……』
「んあ? なんか今中尉のおわっ!!」
「ごめんちょっと電話!!」
腰にまとわりついていたオゾンを突き飛ばし、一目散に部屋を飛び出る。後に残された三人は何かしら察したように顔を見合わせた。
「はっ……はっ……」
足早に廊下を駆け抜け、兵舎の外に出る。別にこそこそする必要はないのに、建物の壁沿いに少し歩き、人気が少ないのを確認してから恐る恐る端末を耳に当てた。
「……も、しもし……」
『……遅ぇよ』
てっきり、『自分でかけてきたくせにいつまで上官待たせてんだこのクソローチ』くらいは言われる覚悟で出ただけに、その薄い反応に逆に焦った。
「あの、すいませんっ! かけるつもりじゃ……間違えてボタン押しちゃって……ッ」
『……そうか』
やはり反応が薄く、もしかしたら寝ていたところを起してしまったのかもしれないとだらだらと冷や汗をかく。
久し振りの電話に嬉しいという気持ちがないわけではなかったが、ローチから連絡しなければゴーストがアクションを起すことはないのだということに落ち込む自分がいることも自覚していた。
呼び出し以外のメールや電話は、大抵ローチからしてばかりだった。
例の件で気まずいというのもあるだろうが、あれ以来ローチが連絡をとることも、ゴーストから連絡がくることもない。
結局の所求めていたのは自分だけだという事実を、改めて、まざまざと思い知らされる。
当然だ。セックスの相手なんて、探せばいくらでもいるのだから。
少し優しくしてもらったからといって、自分だけが特別だなんて甘い幻想を抱いてはいけなかったのだ。
(……ああ、もう……)
あれから日も経ち、大分落ち着いてきていたというのに、こうして少しゴーストのことを想っただけで目の奥がつんと熱くなってしまう未練がましい自分が嫌になる。
声が震えないように気をつけながらローチはゆっくりと言葉を紡いだ。
「本当にすみません……それじゃあ……」
『……なぁローチ』
通話を切ろうとした手はゴーストの声で止められる。
すぐに言葉は続かず、ローチが少しそわそわし始める頃にスピーカーから再び声がした。
『……次の任務、お前とは別班だけどな、油断はすんなよ? お前はどっか抜けてるからな……』
「う……はい」
『例えばヘリに向かう途中で敵の伏兵や残党が突撃してくることだってあるんだ。そういう奴を見逃さないように常に目を光らせろ』
「……はい」
いつものお小言とは違う、静かな響きを持つ声に不思議と心が落ち着いた。
(……心配……してくれてるのかな……)
自分から言い出したこととはいえ、今まで通りに接し、時には冗談を交わしつつも壁を感じるのは正直辛かった。時折何か言いたげな険しい視線を向けられていることにも気付いていたが、気付かないふりをし続けた。傷ついてなんかいない。気にしていない。何もなかった。だからゴーストが気に病むことはない、と。
ゴーストに言われたことは今でもまだローチの中に棘のように刺さったまま消えないが、ゴーストとて突然あんな風に、一方的に関係を終わらせるようなことを言われては納得できないのも当然だろう。
その前のやり取りも含め嫌われただろうと思っていただけに、例え仕事上の付き合いだったとしてもこうした言葉をかけてもらえる、気にかけてもらえるのは素直に嬉しかった。
だからだろう。少し気が緩んでしまったのは。
「ご忠告ありがとうございます。俺もまだ死にたくはないんで、気を引き締めます。……そういえば中尉、掃除はちゃんとしてますか? そろそろゴミが溜まってる頃じゃないですか?」
ついそんなことを聞いてしまった。もう体の関係を求められることはないだろうが、掃除の手伝いくらいならばいくらでもしようと思っていた。
『ああ……溜まってたから、今日自分でやった』
その答えに、緩んでいた表情が固まる。
当たり前だ。何もおかしいことはない。ローチが手伝うようになる前までは、ゴーストだって自分でやっていたのだから。
(そうだよな……別に俺は……必要ないよな……)
かぁっと体が熱くなる。ひくりと喉が震えるのを耐えようと息を詰め歯を食いしばった。
『……ローチ? お前……』
「……あっ……すいません、電池切れそうなんで切りますね! おやすみなさい!」
『おいっ』
制止の声に耳を貸すことなく、今度こそ通話を切り端末の電源も落とした。
壁にもたれてため息をつく。
はやく、忘れないと。はやく、なかったことにしないと。
「……んな気持ち……気付かなきゃよかった」
零れた呟きはあまりに力がなくて、自分でも笑ってしまうくらい説得力がなかった。
(……でも、気をつけよう)
ゴーストの忠告を思い出す。確かに成績は悪くないのだが、何故か妙な所で間抜けなミスをすることがあるし、折角ゴーストがわざわざ注意してくれたのだ。指導役である彼を失望させないために、そしてちゃんと無事に帰ってくるために、ローチはゴーストの言葉を胸に刻み込む。
通話を切られ今度はこちらからコールしてみたものの、返ってきた機械的なアナウンスの声にため息をつきながらゴーストは通信を切った。
――睨みつけていた端末の画面に表示された名前を見て、気付けば反射的に応答ボタンを押してしまっていた。
(……泣いてた、のか……?)
震えたような吐息が聞こえて、声をかけようとした矢先に切られてしまったため真相はわからない。けれど言いたかったことを伝えることが出来て少しほっとしてもいる。――言ったところで意味があるかは分からないが。
夢で見た、あの光景。
ローチ達の部隊が残党に襲われる。そして殿を務めていたローチは、敵の凶弾に――。
「…………」
夢の中で感じた体の冷たさと硬さを思い出して小さく身震いする。
あんなのは、ごめんだ。あんな光景が現実になるなんて、あってはならない。自分の知らないところで、あの笑顔が失われるなんて――。
「……もしもし、大尉殿? ……えぇ、変更はなしです……うっせぇな、私情で隊編成変える馬鹿がどこにいんだよ」
マクタビッシュに連絡しながら、ゴーストはローチのマグカップをそっと指先でなぞった。
――――――
その部屋には二人の人間がいた。
一人はベッドに横たわり、一人はその傍らに置かれた椅子に腰掛け、ベッドの上の人間の手を包み込むように両手で握っていた。
――あたたかい。
それは生の証だった。
その温もりをもっと感じたくて、手に少しだけ力を込めた。
ぱち、と目が覚める。
清潔感のある白のカーテンと天井が視界に入り、何度か目を瞬かせた。
基地の医務室――そう気付いて、記憶を辿りながらゆっくりと体を起す。
「いてて……」
所々ひりひりと痛む体に顔を顰め、任務の事を思い出した。
(そだ……確か敵の追撃が……)
目標を達成しヘリに戻る途中で、敵の残党が結集し密かに追ってきているのに気付いたのだ。
無線でマクタビッシュらに伝えて不利な場所を避けて進み、こちらから攻撃を仕掛けたことで被害は抑えられたが、敵の動きに気付いていなければどうなっていたか分からない。
(先輩のアドバイスなかったら危なかったかもなぁ……)
いつも気を抜いているつもりはないが、奇襲される前に気付けたのはゴーストの言葉のおかげだったかもしれない。
何度も銃弾が肌を掠めて傷も負ったが命に関わるようなものはなく、自分の足でヘリに乗り込んで――その辺りから記憶がなくうんうん唸っていると仕切りのカーテンからマクタビッシュが顔を覗かせた。
「お、起きたか。具合はどうだ?」
「大尉! 問題ありません! ……あの、俺」
ぴっと背筋を正すが、マクタビッシュは楽にしていいと手で制する。
「ヘリの中で気失うみたいに寝たんだよ。まあ今回お前が一番危険な目にあってたから精神的にも疲れてたんだろう……全然起きないからアーチャーがここまで背負って運んでくれたんだぞ。後で礼言っとけよ」
「はい、すみません……」
恥ずかしさで消え入りそうになりながら返事をするといつものようにくしゃくしゃと頭を撫でられた。子ども扱いされているようで時には嫌だと思うこともあるけれど、今は生きて帰ってきたのだと教えてくれているようでほっとする。
「寝てるうちに傷の治療はしといたからな。シャワー浴びた後とかは自分でやれよ?」
「はい、ありがとうございます」
「それと報告書な。まあこんな状態だから遅くなるってことはゴーストも知ってるが、できるだけ早めに持ってけ」
ゴーストの名が出て複雑な想いを抱きつつも返事をするとマクタビッシュは頷き、医務室を出て行こうとしてふと振り返った。
「そうそう、ゴーストな、ちょっと前までここにいたんだぞ」
「えっ」
「お前がここに運ばれたって聞いたらしくて血相変えて飛び込んできてな」
「……そんな……大袈裟な……」
妙に楽しそうに語るマクタビッシュから目を逸らすが、僅かに心拍数が上がる。肌が赤くなっていないか気になって仕方ない。
(やめろ馬鹿……期待するなって言っただろゲイリー……)
期待なんてするなとあれほど自身に言い聞かせていても、あのゴースト中尉がここに来てくれたというだけで喜んでしまう。期待したってどうにもならないのに。
「あいつもまだ仕事あるのに、暫らく起きないぞって言ってもなかなか帰ろうとしないから『王子様がキスでもしたら目が覚めるんじゃないか』なんて言ったんだが」
「へっ……!?」
冷静を装うローチに爆弾発言をかまし、柔らかい視線を向けながらマクタビッシュがくっくと喉の奥で笑う。
「か、からかわないでください!」
「その後俺はこっちで軍医と話してたから見てないんだが……どうだった?」
「大尉!!」
赤くなって叫ぶローチを置いてマクタビッシュは笑いながら部屋を出て行った。
一人残され、赤くなったまま頭を抱えて唸る。そしてふと、夢の中で感じた温もりを思い出した。
誰かが傍にいてくれた夢。握られた手が暖かくて、その手がゆっくりとローチの意識を現実に引き上げてくれた。
(だめだ……考えるな……期待なんて、するな……)
シーツを握り締めながら深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。ローチの内に残る棘が冷静さを取り戻させる。
『お前は今まで通り大人しくケツ貸してりゃいいんだよ……この――』
冷たい視線と声が、優しく傷痕をなぞっていく。
期待なんて、しない。
別の男を想いながら抱かれるローチを、きっとゴーストは穢らわしいと思っただろう。だからあんなに怒ったのだ。
好意なんて持つはずがない。期待なんてしない。今まで通り、ただの上官と部下として付き合えればいい。
自分に言い聞かせるように何度も何度も心の中でそう繰り返した。
――――――
ローチが医務室に運び込まれた――任務を終えて装備を外していたところでそんな話を聞き、ゴーストが医務室に駆け込んだのが数時間前。
結局怪我は大したことはなかったが、あんなにも肝を冷やしたのはいつ以来だろうと考えながら、ゴーストは自室のパソコンで雑務処理をしていた。
食事は疾うにすませ、眠気覚ましのコーヒーを飲む。温かさと苦味が通り過ぎ、ほうと息を吐いた。
あの時医務室のベッドで、穏やかに眠っているだけのローチを見て、どれほど安堵したことだろう。
夢と同じような光景。しかしローチには熱があった。あの氷のように冷たく硬い体ではなく、温かく脈動し呼吸をする、生きたローチがそこにいた。それだけで、救われた気分だった。
こんこん、と控えめなノックが聞こえて顔をあげる。こんな時間に誰だと思いながら返事をすると、思いもよらない人物からの声が返ってきた。
『あの……夜分にすいません、ゲイリー・サンダーソン軍曹です』
「っ……」
がたんと立ち上がり扉まで走って勢いよく開くと、危うく顔をぶつけそうになったローチがぎりぎりのところで避けて目を瞬かせていた。
「……あ、……お、遅れてすみません……報告書を持ってきたんですが……」
「…………」
戸惑いながら話すローチがそこにいる。生きて、そこに立っている。
それだけで、もう。
「うわッ……!?」
報告書を差し出した手を掴まれ、思い切り引き寄せられたローチはバランスを崩してゴーストの胸に飛び込むように部屋に入ってしまった。
はらりと報告書が落ちる音と背後で扉が閉まる音を聞きながら、ローチの思考と体は停止する。
――ローチの肩に顔を埋めるようにしながら、ゴーストはその体をしっかりと抱きしめていた。
温かな体と、久しく感じていなかったローチの香りが酷く胸を揺さぶる。堪らず腕に力をこめると、漸く思考が働き出したローチが腕の中でもがいた。
「ッ……あ……は、な……放、して……くださっ……」
「……嫌だ……」
「せんぱいっ……!!」
呼び方が『中尉』でなく『先輩』に戻っていることを気にする余裕もなく、ローチはただ腕から逃れようとし、ゴーストはそれを無視してローチを腕に閉じ込める。
(なんでッ……!!)
温かい腕に包まれ、自分に何度も何度も言い聞かせてきた『期待するな』という言葉が呆気なく消え去りそうになりローチは震えた。
もうあんな思いをするのは嫌なのに。あんな――。
『このビッチが』
「――ッ他を当たってください……!!!」
渾身の力を込めて暴れる。驚いたのか僅かに腕の力が緩んで、その隙にゴーストの体を押し返して距離を作った。
はぁはぁと震えた呼吸のまま、俯いて泣きそうになるのを堪える。
「…………っクスの相手なら……他を当たって、ください……」
じわ、と目の奥が熱くなってきて唇を噛み締めた。もうこれ以上、情けない、みっともない姿は晒したくない。
「あなたなら……いくらでも相手はいるでしょう……?」
俺じゃなくたって、という言葉は飲み込んだ。いつものように笑顔で取り繕おうと俯いたまま表情を作る。なかなか上手くいかずに焦っていると、ゴーストが体を押すローチの手に自分のそれを重ねた。
「……違う……そんなんじゃない」
「……だったらどうして……!」
「…………話したいことがある」
――感情が爆発した。
今まで抑えこんできたものが堰を切って溢れ、ローチ自身にも制御できなくなってしまう。
「……今更……何をっ…………!」
堪らずゴーストの胸倉を掴んで睨め付けた。
ゴーストの物言いたげな視線を無視し、『何もなかった』ように振舞ったのはローチだ。あの件について話す機会を自分から奪っていたとも言えるだろう。だが、例え理不尽だとしても思わずにはいられなかった。
「――今更……ッ……」
ぼろぼろと涙が落ちる。
いくら忘れようとしたって無駄だった。それでも、何度も何度も自分に言い聞かせて、甘く苦く疼く思い出を記憶の底に沈めようとした。
それをどうして、今更蒸し返すのか。
「……ど、うせ……っ……れの事、なんか……っ」
好きじゃないくせに。ただの、部下で、都合のいい相手としか思ってないくせに。
あの時、拒絶した、くせに。
ずっと隠していた、無視し続けていた、心の奥底に燻らせていた暗く澱んだ想いが溢れてくる。
――けれど。
憎らしく思いながらも、それでも、愛しくてしょうがなかった。
きっかけなんてもう覚えていない。気付いた時にはもう、そうなっていて。
想いが返ることはないと知りながら、それでも関係を続けたのはどうしようもないその感情のせいだった。
ゴーストが、好きだ。
「ローチ……っ!」
「放してください……っ……放せ!」
ゴーストの手を振り払おうとし、それを押さえ込むように再び抱きしめられた。
体温も匂いも、すっかり体が覚えてしまっている。それを感じただけで身を預けたくなる衝動を撥ね退けながらもがいた。
「お前じゃなかったらしなかった……!」
一際強い抱擁と言葉に、びくりと身を震わせて固まる。
「あの時……部屋にいたのがお前じゃなかったら…………俺は、あんなことしなかった……」
ゴーストを押し退けようとしていた手から力が抜ける。嗚咽は止まって、荒れ狂っていた感情の波が引いていく。
それは。それは――つまり――?
自身に刷り込み続けてきた『期待するな』という言葉が脳裏に浮かびながらも、体がじんわりと熱くなってくるのを止められない。
ゴーストの指がローチの柔らかい髪に差し込まれ、梳くように優しく撫でていく。
僅かに体が震えたのは、笑っているからだと声で気付いた。
「……なぁ、馬鹿だよなぁ……笑っちまうよなぁ……こんな……簡単なことに気付かなかったなんて」
「……せんぱ……、……あ」
そこで漸く、『いつもの』呼び方に戻っていることに気付いて赤面する。
ああやっぱり忘れることなんてできないんだと、思い知らされる。
くすりと耳元で笑う気配がした。少しだけ、湿ったような声で。
「許してくれなくていい。終わったら出て行くなり殴るなりしてくれていい。……でも、聞いてくれ」
抱きしめられたまま耳元で紡がれる言葉は、ずっと欲していたものだった。
ローチが、一番望んでいたものだった。
止まっていた温かな雫がまた溢れ始める。
ゆっくりと離れようとした体に、腕を伸ばしてしがみついた。
肩口に顔を押し付けるようにしながら喉を震わせる。
「……いいん、ですか……」
「…………」
「俺……あなたを……ッ……好きで、いて……い、んですか……っ」
伝えてはいけないと思っていた。伝えれば嫌われると思っていた。
もっと早く気付くべきだったのかもしれない。もっと早く伝えるべきだったのかもしれない。――お互いに。
「ローチ」
少し体を離して、ゴーストはローチの目元を拭う。そのゴーストの瞳も、いつもの凍てついたものではなく、鏡面のように静かな湖の青を宿していて胸がいっぱいになった。
「……名前、呼んでいいか」
はっとして、窺うようにゴーストを見ると、柔らかく笑んで頷かれた。
「……サイ、モン」
「ゲイリー」
どちらからともなく唇を合わせた。触れ合わせ、何度も啄ばむように。そして次第に深く貪るように。
「っ……ん、は……ぁ……サイモンっ……」
抱きしめあい、背中や腰に手を這わせるとぞくぞくと官能を刺激される。こうして触れ合うのは何日ぶりなのか――想いを通わせたことでますます求める気持ちが強くなる。
「……っん……ぅわ……っ」
ゴーストはもどかしそうに唇を離すと、ローチの体を抱え上げてベッドに連行する。
抱え上げた時の勢いとは裏腹にベッドに優しく下ろされたかと思うと、覆い被さり再び激しく舌を絡ませてきた。
自分達を隔てる一枚の布すら邪魔だと言わんばかりに、互いに服を脱がせあう。
「――ッ!! んんっ……ふっ……、……ん!」
上半身の服を取り去り、ぐり、と膝でローチのそこを刺激すると上擦った呻きを上げながらひくひくと体を震わせた。
「……ゲイリー……?」
「……っ……」
唇を離して様子を窺えば、息を震わせながら真っ赤になって腕で目を覆うローチがいた。
まさかと思いながら膨らんだそこに手を這わせると、にちゃ、と濡れた音がする。
その手から逃れるように身を丸めるローチに、青臭くも欲望を煽られる。
(……お前……そんなに……)
キスと軽いふれあいだけで達してしまうほど求められているのだという、その事実がゴーストの熱をますます昂らせた。
そこまで求められていながら気付かなかった自分に呆れながらも、ゴーストはその想いに応えるべく再びその体に覆い被さった。
――――――
(紅茶のにおい……)
いつか感じた、寝起きの幸福を思い出させる香りに意識が覚醒する。
カーテンは開けられ、柔らかな朝日が部屋に差し込んでいた。
ぼんやりとした視界に、簡易キッチンに立つゴーストの後姿が映る。
まだ夢見心地のまま、ローチはその背へと手を伸ばして――ベッドから落ちた。
「うあ゛っ」
「!?」
ローチが転げ落ちる音に驚いて振り向いたゴーストが慌ててやってくる。
まともに目があって、その青で昨夜のことを一気に思い出してぼっと顔が熱くなった。
「おい、大丈夫か」
「っ……あ、大゛丈夫、で…………、……」
「ゲイリー?」
情事の名残で擦れた声を止め、ますます顔を赤くして俯くローチにゴーストが心配げに声をかける。
しばらく黙っていたローチだが、やがて蚊の鳴くような弱弱しい声でぽつりと。
「……立て゛な、い……です……」
「…………ふ……っ」
くつくつと笑い出したゴーストをキッと恨みがましげに睨むと、頬に軽くキスされひょいと体を持ち上げられる。
「う゛わっ……」
「これで満足かお姫様」
「誰がっ」
まだ笑っているゴーストに抗議しようとすると、優しくベッドに下ろされて言葉がどこかへ行ってしまった。
「おはよう」
「……おはよう、ございます」
ゴーストの柔らかな表情は初めて見るものでローチは少しどきどきする。
キッチンへ行く背中を眺めていると、何かを持って戻ってきた。それは湯気の立ち上るマグカップ。
「……置いててくれたんですね」
「お前が置かせてくれって言ったんだろ」
淡いブルーに髑髏の絵のマグカップは、なみなみとロイヤルミルクティーを注がれて持ち主の手にすっぽりと収まった。
それを一口飲む。
あの日と同じような朝。
あの日と同じ香りと味。
けれど、抱く想いは別のもので。
「……やっぱり、先輩が淹れてくれたのが、一番美味しいです」
「……『紅茶が』好きなんだろ?」
そんな事を言いながら、意地悪く笑うゴーストにローチも笑い返す。
「……それだけじゃないですよ」
「へぇ……じゃあ何だ?」
頬をつけ、耳元に唇を寄せて囁いた言葉を記すのは、野暮というものだろう。
くすくすと笑うローチからまだ中身の残るカップを奪うと、ゴーストは紅茶の味がする唇をゆっくりと味わった。
End.