「さて、少しは落ち着いたかな?」
「あ、はい! あの、ありがとうございます」
湯気のたつカップを受け取りながら少年が礼を言うと、ブラスカは柔和な笑顔を向けた。
「はは、そんなに畏まらなくてもいいよ。まあ起きた時にこんな強面のおじさん二人に囲まれていれば誰だって驚くさ」
「おいブラスカ……」
「本当のことだろう?」
「ま、顔に傷のあるサングラスかけたオッサンなんかいかにもヤバい仕事とかしてそうだもんなぁ」
「傷ならお前だってあるだろうが。それにお前みたいな上半身裸の大男のほうが怯えるに決まっている」
「んだとコラ」
「あー、あのっ、さっきはすんません突き飛ばしちゃって……」
言い合う二人を見て少年は僅かに慌てるが、慣れているブラスカは彼をリラックスさせるためにもいつもより穏やかに語りかける。
「ははは、心配しなくてもいいよ。二人はいつもこんなだからね。あれで仲はいいんだ」
のほほんとしたブラスカの様子に安心したのか、幾分か少年は表情を柔らかくした。
渡されたホットミルクに口をつけるのを見てジェクトもまた、少し安心する。
――――――
ティーダと瓜二つな……いや、ティーダその人にしか見えない少年は、記憶を失っていた。
ようやく見つけたと思った大事な息子の、予想もしていなかった事態にジェクト、そしてアーロンもまた呆然としていた。
そんな中でブラスカが訪ねてきてくれたのは幸運だったのかもしれない。
「ジェクト。アーロンもいるのかい? ちょっと上がらせてもらった……」
ティーダが目覚め、その様子に誰も動けなくなっている時にブラスカはやってきた。
手土産であろう酒瓶の入った袋を持ったまま、アーロン、ジェクト、そして少年に目線を移し、思案するように目を細めた。
未だ俯いたまま呆然としている少年と、その前で膝を突いているジェクトに歩み寄ると、その人柄の良さを思わせる笑みを向ける。
「ちょっといいかいジェクト」
「あ……あぁ……」
「ねぇ君」
声をかけられたことに反応し、肩を震わせた少年はゆっくりと俯いていた顔を上げ、しゃがんで目線を合わせたブラスカを見た。
「どこか怪我はしていないかい? 痛いとか気分が悪いとか」
「…………、……ない、です」
覇気はないものの返答があることにジェクトもアーロンも安堵する。ブラスカも微笑んで頷いた。
「それはよかった。見た所、溺れていたのを助けられた……という感じだと思うけど、そのままでは風邪をひく。この家のシャワーを貸すから温まってきなさい」
まだ信用はしていないのだろう、三人を窺うように見つめる瞳には不安の色が濃い。当然の反応にブラスカは苦笑した。
「そうだな。君にこの家の鍵を貸そう。私たちが信用できなくて怖かったら、いつでも出て行ってかまわない」
「…………」
彷徨っていた瞳はやがてブラスカを真直ぐに見つめると、こくりと小さく頷いた。
――――――
風呂から出てきた少年は、ジェクト達が驚くほどに落ち着いたようで、最初の怯えた様子は然程感じられなかった。
「風呂の中で色々考えてたんだけど……本当何もなくってさ……おれが誰、とか、ここどこだよ、とか……わけわかんないけど、どうにもなんないし、とりあえず今は受け入れようかなって」
困ったように笑いながらそう言った少年に、変わらないな、とアーロンが呟いたのをジェクトは聴いていた。そして、お前に似ているとも言われ、面映くなる。
外傷はないが、念のために病院で診てもらおうというブラスカの提案にも彼は大人しく従った。
そして今、再びジェクトの家へと戻ってきた四人はリビングに集まっている。
「さて、いくつか訊きたいことがあるけど、いいかな?」
相変わらず仕切るブラスカに異を唱えるものはいない。ジェクトはいささか不満そうではあるが、その関係上、人一倍少年に対して感情的になってしまう自分を自覚しているのか大人しくしていた。
「君自身について話せることはあるかい? 名前、生まれた街、年齢……なんでもいい」
しばらく視線を彷徨わせたが、やがてふるふると首を横に振る。それは答えを探していたのではなく、『何もわからない』と答えるのが申し訳なく、躊躇っているように見えた。
「あ、でも……」
ちら、とジェクトに視線が向く。それだけでジェクトの心臓は跳ねたが、それは期待できる言葉ではなかった。
「さっき……えっと……ジェクトさん、が……おれを見て『ティーダ』って呼んでた。それはおれの名前……?」
「……ああ、そうだよ」
無性に叫びだしたくなる衝動を抑え、けれど真直ぐな視線を受け止めきれずに顔を逸らしてそう答えた。
「いやあ、まだ断言はできないよ」
「ああ?」
ブラスカの言葉についイラついて険のある声になってしまう。それを抑えながらもう一度少年へと目線を走らせた。
「……違うわけ、ねぇだろ……」
「何もわからないんだ。他人の空似、なんてことももしかしたらあるかもしれない」
「でもどう考えたって!」
顔も、背格好も、身につけているものさえ、シンの中で出会った時のそれと同一なのだ。何を疑うことがあるのかと声を荒げてしまうが、それに驚いて身を硬くした少年に気付き急速に感情の波が引いた。
「可能性の話だ。……すまない。君はジェクト達の知っているティーダ君とそっくりらしいけど、その名前に覚えは?」
また申し訳なさそうに首を振る少年にジェクトは苦い気持ちを抑えきれない。
彼は間違いなくティーダなのだ。見た目ももちろんだが、見つけた時に確かにそう感じた。直感で、心で、魂でそれを感じた。
十年もの間共に過ごしたアーロンなら分かるだろうと視線を送ってみるが、眉を顰めたまま目をあわせようとしなかった。
「あのー」
おずおずと少年が声を上げる。
「あの、世話になっといて何なんスけど……迷惑なら出て行くから」
「あぁッ? 何言って」
「ジェクト」
その発言に本気で焦るジェクトをアーロンが窘める。
「出て行く……といっても、記憶もないし行く当てだってないだろう? 今日の所はここで休んでいきなさい。私たちは構わないから」
「……今は混乱しているだけで、明日になればあっさり思い出しているかもしれんしな」
「そうそう。実際ここに来たばかりの時は、シンの毒気にあてられたような状態になる人も少なくないみたいだし……」
「…………ん」
困ったように眉を寄せる少年はジェクトへと視線を移す。一応家主であることを知っているからか、あるいは不機嫌に見えるジェクトに遠慮をしているのかは定かではなかったが。
「部屋も食い物も好きにしていい。鍵もお前が持ってていい」
「……おれがウソついてるとか、悪いコトするとか思わないの?」
「思わねぇよ」
即答するジェクトに少年は目を丸くする。何故と問いたそうにジェクトの紅い瞳を見つめていたが、やがてはにかむように微笑んだ。
「じゃあ……とりあえず今日は……」
お願いシマス、と小さく頭を下げるのを見てなんともむず痒くなる。父親を嫌っていた子供の姿はどこにもない。生意気な態度もなく、ただ他人行儀な様子にどうしようもなくもどかしさを感じるが、一先ずはここにいることになって安心する。
記憶がなくても、彼はティーダなのだ。ようやく戻ってきた彼を手放すつもりなどさらさらなかった。
「さて、話は一応まとまったし……私は一度家に戻るが、今日はこっちに泊まってもいいかいジェクト」
「ああ」
「部屋の準備をしてこよう」
勝手知ったるとばかりにアーロンがティーダの部屋、そして客人用の部屋を整えに行く。家主であるジェクトよりも先に動き出すのをみて少年は不思議そうに首を傾げた。
「……あっ! おれも手伝う!」
てきぱきと動くアーロンに触発されたのか、何もしないのも落ち着かないのか、はっと立ち上がって手伝おうとする少年をアーロンはゆっくりしていろと手で制した。
そうは言われてもと落ち着かない様子で部屋の中をうろうろする少年はソファに座ったままのジェクトに気付いた。
「…………」
「…………」
お互い何を話していいか分からずに見つめ合ってしまう。ぽりぽりと頭をかいていると少年は不思議そうにアーロンのいる方とジェクトを交互に見た。
「……この家って……ジェクトさん、の家だよな? 手伝わないのか?」
「どうせすぐ終わるしな。オレがやると雑だしかえって邪魔なんだとよ」
普段からこまめにアーロンが整理してくれているおかげで客室もティーダの部屋も散らかっているわけではない。整えると言ってもシーツを取り替えたりちょっとした埃を取るくらいのことだろう。
必要に迫られてジェクトも掃除なら自分でするようにはなったが、如何せん物を適当にしまうせいでどこにあるか分からなくなるからとアーロンに文句を言われるため、彼が片付けをする時は邪魔をしないよう避難するか掃除機をかけるくらいだった。
そんなことを話してやれば少年は可笑しそうにくすくす笑った。
「家事、苦手なんだな」
「…………」
「……? なに?」
「いや……」
屈託のない笑顔に見入ってしまっていた。記憶があったとして、ティーダは同じように笑ってくれただろうか。
正直な所、ティーダを探してはいたものの、いざ会えたらどうなってしまうのかという不安もあったのだ。
事情もあったとは言え、シンの中で十年ぶりに再会した時でさえぎこちない会話しかできなかったのに、ここで普通に暮らしていけるのだろうか、と。
それが、どうだ。
やっと再会したと思えば記憶は綺麗になくなっていて、けれど向けられるのはかつてのような嫌悪や憎しみではなく、他人と接するような態度と無邪気な笑みだ。
「……大丈夫?」
気遣わしげな視線を受けて我に返る。気持ちを切り替えるようにソファから立ち上がった。今は思い悩んでも仕方がない。
それに今一番不安なのは少年なのだ。自分が誰なのかすらわからなかったのにこれ以上不安を煽るようなことをしてはいけない。
「アーロンはまだ客室やってるな。部屋、行ってみるか?」
「あ、うん」
部屋に行けば少しは記憶を揺さぶるものがあるかもしれないという期待もあった。自分の家のはずなのにきょろきょろと周りを見回しながら雛のように後ろを付いてくる少年は、部屋に入っても同じような反応を見せた。
「この部屋は自由に使っていい。夕飯まで時間あるし、片付け終わったら寝ててもいいぜ」
「…………」
何か思い出しただろうかと様子を窺う。部屋の中を歩くと並べられた楯やトロフィーを不思議そうに眺め、部屋を見回した。
「……ここ、ジェクトさんの部屋じゃないよな」
内装や若者向けの雑誌、ゲーム機なんかを見てそう思ったのだろう。質問に答えてやりたかったがどうにも先ほどから呼び方が気になって仕方がないジェクトはがりがりと頭をかきながら俯いた。
「あー……その……なんだ……『さん』はつけなくていいからよ……」
「え……でも一応年下だし世話んなってる、し……」
「…………」
戸惑う少年につい「慣れねぇんだ」と洩らしてしまうと微かに息をのむような気配がした。
顔をあげると、酷く困ったような表情をした少年が一文字に結んでいた口を開いてゆっくりと息を吐き出した。
「ごめん……こんなこと訊くの、酷いかもしれないけど……ほんとは自分で思い出さなくちゃいけないんだけど……」
母親譲りの海を思わせる青の目で、真直ぐに見据えてくる姿が、シンの中で出会った姿と重なった。
「おれは、誰……? あんたの言ってた、ティーダって人……? ティーダは、あんたの、何……?」
「……お前は……」
躊躇ったのは、答えてしまうことで彼を縛り付けてしまうのではないかという思いがあったからだった。
けれど結局ジェクトは、誘惑に負けた。
ずっと会いたかった。
全てを乗り越えて分かり合えた、そう思えた息子に、自分の言葉で伝えたいことがあった。
「ティーダは……オレの、息子だ」
たっぷりと、三十秒はあっただろうか。
時が止まったかのように沈黙したまま動かない少年は、ジェクトが声をかけようとした瞬間に弾かれたように部屋を飛び出した。
何事かと驚いて動けないジェクトの元に、しばらくしてばたばたと騒々しく走りながら少年が戻ってくる。
肩で息をし険しい表情のままジェクトの顔をじいっと見たかと思うとまた部屋を飛び出していった。
走っていった方向と足音から考えるに、風呂場か、洗面台あたりだろう。何故そんな所にと思うが、そういえば鏡があると思い立った時、また戻ってきた少年はビッと人差し指を向けて。
「う……嘘だぁぁ!!! ぜんっっっぜん似てねぇー!!!!!」
「おいコラ待て」
信じられないといった表情のまま、家中に響く声で失礼極まりないことをのたまった。