五:日常

 海の水は冷たいのに、体の奥底から熱が湧き上がってくる。
 少し離れたところでボールを持ったままこちらを睨む目に昂る心を抑えられない。
 パワーでは敵わないと分かっているのか、素早く身を翻してすり抜けようとするのを難なく止めると、そこから攻撃に転じてくる。
 勢いのないタックルではジェクトの体はびくともしないが、不意にティーダが何の脈絡もなくあさっての方向にボールを放って目をむく。
 すぐさまボールに手を伸ばすが、判断の一瞬の差は大きい。再びボールを手にしたティーダがジェクトの脇をすり抜ける。
 それをジェクトが許すはずもなく、水の抵抗などないかのように突き出した手でティーダの足を掴むと、そのまま元いた方向へと投げ飛ばした。
 周りは岩場など何もない場所だからぶつかることはなかったが、勢いを殺しティーダが体勢を立て直した時は最初にいたところよりも離れてしまっていた。
 そろそろ頃合かと水面を指差すと、こんなにも距離を開けられてしまったのが悔しかったのか、むすっとした表情のティーダが上がっていく。
 ジェクトもそれに続いて水面から顔を出すと、丁度太陽が真上にあった。昼時だ。
「お前らいつまでやってるつもりだ。そろそろ飯できるぞ」
「だから上がってきたんじゃねぇか」
「聞いてよアーロン、おやじさあ手加減なしだよおれ初心者なのにさ」
「なあにが初心者だよ。初心者はオレ様と対峙しただけでびびるっつーの。つーかボールから手ェ離すなよ。そりゃ意表を突くってのでは有効かもしれねぇけどよ」
「わかってるよ。ただ抜けるかなって試したかっただけ」

 拗ねたように口を尖らせるティーダの濡れた髪をわしわしと撫でる。
 海から上がり用意されたタオルで軽く水気をふき取っていると、ティーダが上がってこないことに気付く。
「どした?」
「……んー……もうちょっと潜ってくる」
「おい……」
 息を吸い込むとちゃぷんと身を沈めてしまったティーダに頭をかく。練習が終わった後、決まったように潜りたがるのだ。
 最近、こうして泳ぐだけではなくブリッツの練習に付き合ってくれるようになった。その動きはやはり素人では有り得ないもので、どうしようもなくジェクトを楽しませる。
 やはり体が覚えているのだろうか。だとすれば、こうして練習したり実際チームでプレイすれば、記憶が刺激されて……。
「…………」
 まただ、とジェクトは目を閉じる。ティーダの記憶を取り戻したいという無意識な願いは未だジェクトの中で息づいている。
 こうして共に暮らし、時にブリッツをして、……そして『おやじ』と呼んでくれる。それだけでも十分僥倖であるはずなのに。
「なんだ、また潜ったのかあいつは」
 食事の準備をしながら呆れたようにため息をつくアーロンに苦笑すると、体を拭いたにも関わらずもう一度海に入る。
 潜ってすぐ目に付くところにティーダの姿はない。
 ふと薄ら寒いものを感じてジェクトは水を蹴った。

 最初にティーダを見つけたのは海だった。生まれた場所に帰るように、海に潜ればそのまま戻ってこないような――そんな考えが過ぎり周りを見回しながら底へ底へと潜っていく。

 日の光が少し届きにくい、青に染め上げられた世界に見つけたティーダの姿は、その名の通り太陽のようだった。
 青の中に揺れる金の髪。ジェクトに似ているから、ジェクトを重ねて見られるから、ジェクトと比べられるから。そんな理由からプロデビュー前に染めたのだという話はアーロンに聞いていた。
 自分と同じ色でなくなったのは少しの寂しさを覚えるが、その金はティーダによく似合っていた。

 水面を見上げるように仰向けになり、ゆらゆらと浮かんでいるだけのティーダは目を閉じたままで、まるで眠っているようだった。
 その姿は全身で世界を感じているようにも、海に守られ全ての感覚を拒絶しているようにも見えた。
 ふとジェクトの気配に気付いたらしいティーダがふわりと瞼を開く。
 夏とは言え、底に行けば水温も低くなる。ティーダに近づき頬に触れてみると、大して時間は経っていないはずなのに随分と冷えているようだった。
 くすぐったそうに目を細めて笑うティーダに愛しさが募る。こんな風に触れ合える日が来るなんて思いもしなかった。
 さあ今度こそ上がるぞ、とティーダの手を掴むと、ティーダが先に水を蹴り逆にジェクトを引くような形になる。負けるかとジェクトもそれを追い越すように泳ぐとティーダもそれに続く。
 潜った時よりもずっと速く水面に上がった二人は、腕組をして仁王立ちしているアーロンに出迎えられて苦笑するのだった。

――――――

「キングの復活か、これは次の試合チケットはプレミアがつくな」
「んだよ、オレがいなくたって強豪なのは違いねぇだろ?」
 十年ぶりに会うエイブスのオーナーは以前と変わらぬ豪快な笑い声を上げた。
 ジェクトが活躍していたころのチームメイトは殆どが引退していたが、何人か見知った顔も残っており懐かしい気持ちを抱きながらスフィアプールに足を向ける。

「うわっジェクトさんだ!」
「すげー本物!」
「オレ、ジェクトさんに憧れてブリッツ始めたんス!」
 若い選手達は幼い頃憧れ、伝説となっていた存在を目の当たりにして沸き立つ。
 矢継ぎ早に声をかけてくる選手達をいなしつつ、準備運動をしてプールに入る。こちらに来てから初めてなので、スフィアプールに入るのは十年ぶりになる。
 懐かしさと高揚感に包まれながらウォームアップに軽く泳ぐ。重力から解き放たれたように縦横無尽に泳いでいると、外からそれを見る選手達の熱い視線に苦笑する。
 まだ試合に出られない二軍の選手にはティーダと年の近い者もいるらしい。これだけ選手層の厚いチームに入れたのだから、彼らも有望な選手なのだろう。
 そしてそんなチームで、僅か一年足らずでエースにのし上った息子をジェクトは誇りに思った。
「どうしたジェクト、やけに嬉しそうだな。昔は練習なんて全然来なかったくせに」
 一度プールから上がると、引退し今では二軍のトレーナーとして働いている元チームメイトが話しかけてくる。
 そんなに浮ついて見えるのだろうか。だが仕方のないことだとジェクトは思う。
 オーナーにも言われてはいるが、いずれ今の生活に慣れてきたら、ティーダにもチームに復帰して欲しい。
 ――同じチームでプレイする。それは普通にザナルカンドであの十年を生きていたら、叶わなかったかもしれないことだ。
 共に練習し、ティーダにブリッツを教え育てることはできても、ティーダが活躍できる年になる頃には流石に引退していただろう。
 そう思えば、今のこの状況も悪いことばかりではないと、少しは前向きに考えられるようになった。
 尚もからかってくるチームメイトの男を適当にあしらいながら、ジェクトは再びプールに潜り込んだ。

 丁度休憩の合図が出たころ、プールの外でどよめく気配がした。
 水から上がってみると、入り口に小さな人だかりが出来ていた。その中心には見知った金髪の少年が立っている。
「おおー我らがエース様のご帰還だ!」
 集まったチームメイト達にわしわしと頭を撫でられ小突かれ揉みくちゃにされている。
 エイブスは強豪でありそれだけの実力を持った選手達のプライドは高いが、他のそういったチームに比べ仲がよくチームワークが高いことも人気の一つだ。
 弱冠十七歳という年齢でエースになったとあっては嫉妬の対象にされやすいのではないかと心配していたが、弟分的存在として可愛がられているようでジェクトは安心する。
「ティーダ!」
 ジェクトが声を上げるとティーダもそちらに顔を向ける。少しほっとしたように駆け寄ってくるのに思わず頬が緩んだ。
「どした? スクールはもう終わりか?」
「うん、午前だけだった」
 ジェクトがチームに復帰するのと同時に、ティーダもスクールに通うことになった。これは主にティーダの希望で、色んな人と接触したほうが何か思い出せるかもしれないから、ということだった。
 ティーダは記憶を取り戻そうとするのに積極的だ。それはジェクトとしても嬉しくはあるが、無理に思い出そうとして辛い記憶を呼び起こしはしまいか、と不安でもある。思い出して欲しいと願いながら 矛盾しているとは思うが、ティーダには笑っていて欲しいと思うのもまた事実なのだ。
「うちのスクールにもエイブスの二軍に入ってる人いてさ、おれの友達……らしいんだけど……そいつがちょっと一緒に練習してみないかって」
 周りに聞こえないよう声を落とし、友達『らしい』と言うティーダは酷く申し訳なさそうな顔で苦笑した。
 ティーダを連れてきたらしいその友人は他の選手に簡単に事情を説明しているようだった。ある程度のことはジェクトからも伝えてあるが、ああして実際接触した他人からの説明はありがたい。
「ほらティーダ、こっち来いよ」
 呼ばれて人だかりの方へと行くと、皆の視線を一身に受けてティーダもたじろぐ。
「えーっと……こっちきてから記憶曖昧で……誰が誰とか全然わかんないッスけど! よろしくお願いするするッス!」
「何ぃー? オレらのこと忘れただと薄情者め!」
「あんだけ可愛がってやったのに」
「俺飯奢ってやったのに」
「おらおら」
「わーっ! わっ、何するんスか!」
 その後監督から一喝されるまで、しばらくティーダはチームメイト達に揉みくちゃにされていた。

「ハンドサインとか覚えてっか? ほら一応表渡しとくから」
「うっす」
 渡された紙に目を通した後、ティーダも二軍の練習に加わることになった。まだ本格的に復帰すると決まったわけではないが、果たして腕は落ちていないのかと監督含め選手達も気になるようだった。
 ジェクトも見に行きたいのは山々であったが自分の練習もある。軽く練習試合形式でのそれをこなしていると、プールの外側から熱い視線を感じる。
 その感覚がジェクトは好きだった。注目される、期待されることはプレッシャーにもなるが同時に大きな力にもなる。
 ゴールを決め、次のボールが打ち上げられるまでの間にちらりと外側に視線を移す。その中でも一際、ぴりぴりと肌で感じるほど強いそれを向ける人物を見つける。
 そっちの練習はどうしたんだと苦笑が漏れるが、その視線を受け悪い気はしない。海で練習する時に向けられる敵意、対抗心ではなく、純粋にブリッツに憧れる少年のような輝き。
 昔もジェクトの技を真似しようとしたりと、とことんまで嫌われているわけではないのだと思ってはいたが、ひょっとしたら子供の頃にもそういう目で、ジェクトの試合を見ていたのかもしれない。

 練習が終わると丁度もう一つのプールで二軍の練習試合が終盤に差し掛かっている所だった。練習用のミニプールで、人数も四対四と少ないがその分ボールの奪い合いも激しい。
 プールの中にはティーダもいた。敵側のディフェンスをするりと回避し泳ぐ様は見ていて美しいとすら思う。
 そのままティーダがゴールを決めたところで試合は終了した。続々と選手達がプールから出てくる中、ティーダはなかなか上がろうとしなかった。
「どうした。練習終わりだぞ」
「あ……うん……」
 一緒に試合をしていたらしい友人に声をかけられてようやくプールから出る。点数ではティーダのチームが勝っていたというのに、その表情はどこか浮かないようなものだった。
「なんだよ全然鈍ってないじゃんか。キングに続いてエースも復帰したとなっちゃ皆大騒ぎだな」
「うわっ、また……頭撫でんのやめて欲しいッス……」
「つーかさ、記憶ないとか聞いてたから心配してたけど、前と変わんなくて安心したよ」
「俺もこっち来た時は記憶混乱してたけどさ、そのうち良くなるって」
 ジェクトと同じく見ていたらしい一軍の選手達が口々にそう言いながらティーダを構う。和やかな雰囲気の中でジェクトはふとティーダの様子が気になった。笑ってはいるものの、覇気がない。 よく見たら、顔色も悪い。
「おいティーダ……」
「っ……」
 ジェクトが声をかけるのと同時にティーダの体が崩れ落ちる。辛うじて床に手をつき倒れることはなかったが、焦点の合わない目で短い呼吸を繰り返した。
「おいどうした、大丈夫か?」
 周りが一斉にどよめく中でティーダに駆け寄る。俯いたままだが、顔色が悪いのが分かった。
「……はは……んか……自分の、体じゃ……ないみたい……」
「酸欠か? 窒素酔いか?」
「ドクター来ました!」
 無理に笑顔を作ろうとする姿が痛々しい。へたり込んだまま動けないティーダを寝かせ、チームドクターが診る。
 監督に声をかけられ、他の選手達は邪魔にならないように退散していくが、皆一様に心配そうな目を向けた。
「俺らがちょっと騒ぎすぎたかな……まだこっちきて短いんだろうし、無理させて悪かったな」
「ちゃんと休めよ」
「…………」
 出て行く選手達に顔を向け、ごめん、と口を動かすが声にはならず息が洩れただけだった。

 特に異常はなく、しばらく横になっていたら顔色も戻ったため軽い酸欠と疲労だろうと診断された。立てるようになったティーダを手伝いながらシャワーで体を温めて着替える。
 ジェクトとその息子であるティーダの共演は多くのファンに望まれるところだが、今日の様子から復帰は急がないほうがいいだろうとオーナーとも話し合った。
 車に待たせていたティーダと共に帰路につく。

「……ごめん」
 もうすぐ家につくという頃になって、それまで黙っていたティーダがぽつりとそう呟いた。
「謝ることなんて何もねぇだろ。酸欠なんてブリッツやってりゃよくあることだしな」
「……ちがくて」
 何も思い出せなかったから、と。ぼんやりと外を眺めたままティーダはまた謝った。
「……それこそ、謝ることじゃねぇだろ……んなことよりホントに大丈夫なのかよ。今日はなぁ、ブラスカの嫁さんが飯作りにきてくれるって言ってたんだぜ、ニギヤカになるな。 折角のご馳走だしいっぱい食っとけよ。おめぇヒョロヒョロだから体力つけねぇとな」
 努めて明るい口調で言ってみれば小さく笑う気配がした。そうこうしているうちに家に着く。
 扉を開ければ食欲をそそる香りが漂い、アーロンとブラスカが出迎えてくれた。
「遅かったな」
「二人ともおかえり。今妻は手が離せなくてね、後で挨拶するよ」
「おう。大したことじゃねぇんだが練習で色々あってな。ほらおめぇも早く入れよ」
 後ろに立っていたティーダを促して扉を閉める。もう先ほどのような症状はなくなったらしく、ふらつかずに自分でしっかりと立っていた。
「今日からスクールに行ってたんだってね。また話でも……」
 荷物を持って部屋に上がろうとすると不意にブラスカが言葉を失う。アーロンも驚いた様子でジェクトの後ろにいるティーダに視線を向けており、ジェクトも後ろを振り返った。
「……ティーダ」
「え、何? なんかついてる?」
 きょとんとした顔でそう尋ねたティーダの両目からぽろぽろと雫が溢れている。自分の手で頬に触れて初めてそのことに気付いたらしく、驚いて目を擦る。
「うわっ何これ……あはは、変だな……」
「あんま擦んな」
 ごしごしと強く目元を擦る手を止めさせる。弱まったものの、涙はまだ零れてくる。
 一先ずリビングへ移動した後、しばらくして涙は治まったがジェクトは心中穏やかではない。
「……スクールも行って、エイブスの練習にも参加したんだろう? 久しぶりのことだし、今までの疲れも出たんだろう」
「え、でもおれ」
「自分が平気だと思っていても、心は意外と疲れているものだよティーダ君」
「部屋で休んでろ。飯できたら呼んでやるから」
「ん……」
 躊躇うように視線を泳がせる。擦りすぎたせい目元は少し赤い。涙の跡をそっと指先で掬うと少し恥ずかしそうに目を伏せて呟いた。
「……ここに……一緒にいたい」
 駄目かと問う姿に異を唱えられる者などいなかった。

 妻の手伝いに戻ったブラスカ以外の三人はソファに座ってブリッツの中継を見る。今日は西ブロックの決勝をやっているらしく、白熱した試合展開だった。
「うお、あそこでパス出すか普通。トリッキーなのは伝統みてぇだな、あのチーム」
「戦った事があるのか?」
「十年前だけどな。ま、オレ様のスーパープレイにかかれば……?」
 こつんと肩に軽い衝撃と重みを感じる。見れば、ティーダが寄りかかり寝息を立てていた。
「……何か体にかけるものを持ってこよう」
 肩を竦めるとアーロンは立ち上がる。その背を見送ってから再びティーダの寝顔を見た。
 表情は穏やかなものだった。さらさらと髪を梳く様に撫でれば微かに瞼が震えるが、目を覚ますことはない。

「……あんま無理すんなよ」
 ぽつりとそう洩らしてしまう。
「……させてんのは、オレか」
 思い出せなくてごめん、と言ったことを思い出して苦い気持ちになる。
 ジェクトは未だ自分の気持ちを測りきれないでいる。矛盾した心を抱えながら接することで無意識のうちにティーダに負担を与えたのかもしれない。
 愛しむように額や頬に指を滑らせる。寝ている息子に触れるなど、赤ん坊の時以来だろうか。
「ダメな父親だな……」
 殺して欲しいと願ってしまった時点で、そんなこと分かりきっていたけれど。
 こうして時間を与えられた今、自分はティーダに何を与えてやれるのだろう。

 食事の準備ができるまで、ジェクトはずっとティーダの頭を撫でるのをやめなかった。

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