七:不安

 カーテンの隙間から差し込む朝日に覚醒を促され、二日酔いの頭痛に魘されながらジェクトは目覚めた。
 そこまで深酒したつもりもないのだが――そう思った所で風呂場での出来事を思い出し、頭痛とは別の意味で頭を抱えたくなった。

 共に風呂に入っている時、酒の影響か自身の意思とは関係なく立ち上がってしまったティーダのそれを、同じく酔っていたとは言え鎮めるために手助けしてしまった。いや、手助けなんて言えるのだろうか。
 お節介? セクハラ? 下手をすれば虐待?
 そんな嫌な単語がぐるぐる脳内を駆け巡る。しばらくはそんな調子でベッドの上で唸っていたが、ふと時計を見るといつもティーダが起こしに来る時間をとうに過ぎていた。
 スクールもブリッツの練習もないからゆっくりしているのか――否、昨日の今日で顔を合わせ辛いのかもしれない。
 自業自得ではあるのだが避けられるのは嫌だなどと身勝手なことを思っていると、昨日ティーダの口から零れた言葉が脳裏を掠めた。

『……ぁっ…………ェク、ト……ッ!!』

「…………」
 無意識のうちにため息が漏れる。それは、ジェクトなりにショックなことだった。
 ティーダ自身、その言葉を口にしたことに気付いていない様子だったが、それはつまり、無意識にそう呼んだという事で。
「……やっぱ……駄目なのか」
 無意識にそう呼んだという事は、ティーダの中では未だ、ジェクトを『父親』だと思えていないのではないか。
 口では『おやじ』と呼んでくれていても、やはり記憶のない彼では、他人のようにしか思えていないのではないか。
 否、そもそも何も思い出せずとも、例えジェクトを父親だと思えなくても、ティーダが幸せならそれでいいと、ジェクト自身思ったのではなかったのか――。

「あーくそっ……」
 何に対してか分からない悪態をつく。上手くいっているのだと、ここ最近感じていた幸福感が消えてしまいそうでジェクトは勢いよく起き上がった。
 うじうじと悩んでもしょうがない。やってしまったことは取り消せないのだから。
 ティーダが未だ記憶を取り戻せないのも、どうしようもないこと、なのだから。
 一先ず昨日のことを謝るべきか……考えながら階下に下りると丁度扉が開き、ランニングから帰ってきたらしいティーダと鉢合わせた。

「よお……」
「あれ、一人で起きれたんだ。つか、珍しいなこんな早くに」
 至って普通の反応に拍子抜けする。ひょっとして昨日のことは夢――なんて一瞬思うが、あんなリアルな夢があってたまるかとその考えを振り払う。
「メシできてるから温めて……」
「なあ」
 躊躇いはあったが、昨日のことを話そうと肩に手をかけた瞬間、ぺしりと無慈悲にも払われた。
「触んなスケベ」
 じとりとした目で睨んでからツンとそっぽを向いてしまう。完全に臍を曲げられてしまった。いや、食事を用意してくれているだけまだ救いはあるのだろうか。
 払われた手は行き場を失い宙を彷徨っていたが、やがてジェクトががっくりと項垂れるのに合わせて下に下りた。

 温めなおした朝食を食べていると、シャワーを浴び汗を洗い流したティーダが髪を拭きながらキッチンに入る。
「…………」
 飲み物を求めて冷蔵庫を開ける背をぼんやり眺めてみても振り返ることはない。ごくごくと冷えた牛乳を飲んでいる様子はどこか微笑ましくすらあるのだが。
 ティーダが一息ついている間に食べ終わった食器を持ってキッチンに入るとさっと距離をとられた。
「おい……」
「おれの半径一メートル以内に入るなヘンタイ」
 容赦のない言葉がぐっさりと心に刺さる。完全に拗ねきっている。
 普段の、ゴミはちゃんと分別しろだの遅くなる時は連絡しろだのという小言を無視して怒らせた時よりもよっぽど性質が悪い。
「悪かったって……昨日はそのよ……えー……なんだ……」
 何も言葉が浮かばないまま悩んでいると、ティーダは飲み終わったグラスを軽く濯ぐと流しに置いて去ろうとする。
「……用事ないならもう行くからな」
「あ……? どっか出かけんのか?」
 呼び止めようと伸ばしかけた腕を止めると、不貞腐れた顔でティーダが振り返る。
「今日は友達と遊んでくんの。昨日も言っただろ。メシは残り物あるからテキトーにしてよ」
「……ああ」
 かける言葉も引き止める理由も見つからず、結局短い返事だけをした。

 部屋に戻って準備を整えたティーダが家を出ようとするのを、ジェクトは黙って見送る。
 ふとその後姿に言いようのない不安を覚える。いつだって出て行くのはジェクトの方だった。見送る側は――妻や息子もこんな気持ちを味わったのだろうか。そう考えると自然と言葉が出ていた。
「……あんま、遅くなんなよ」
 ティーダはぴたりと足を止めた。振り返った顔は久しく見る表情。
 眉を寄せた困ったようなそれは、どこか泣きそうにも見えてどきりとする。
 子供の頃を思い出させる幼げな表情につい身構える。昔は物言いたげな視線をしつつ、結局何も言わないことも多かったが。

「……あんたは、さ……記憶が戻ったほうが、嬉しいよな」
 その問いに、ジェクトは僅かな違和感を覚えた。
 どこか余所余所しいような――まるで他人事のような――。ふと昨夜の出来事を思い出してじっとりと嫌な汗が滲む。
 やはり、上手くなどいっていなかったのだろうか。
 記憶がないことをもどかしく思いながらも、この生活が嬉しいと感じていたのはジェクトだけで、何も分からぬまま息子扱いされたティーダにとっては迷惑だったのではないか。
 何も思い出せないことも、ジェクトを「おやじ」と呼ぶことも全て、重荷になっていたのではないか。
「戻ってほしいよな……?」
「あ……いや……」
 再度訊ねられ負の思考が中断される。
 可能ならば、当然戻って欲しい。それは確かに、今でも思っている。けれど、それをティーダに強要したいわけではない。親殺しなんて罪に濡れた記憶を、無理に呼び覚ます必要などない――。
「そりゃあ……つか……お前だって思い出さなきゃ不便なこともあんだろ……この前みたいに変な奴らに絡まれても、わかんねぇだろうしよ……」
 結局はっきりとした答えを言えずに、そんな言葉で濁してしまう。
 その言葉に納得したのかしていないのか、ティーダは曖昧な笑みを浮かべた。
「そっか……だよな」
 独り言のように呟くと、今度こそティーダは扉をくぐった。

――――――

 身体が鈍らないように軽いランニングやストレッチをして、家でのんびりと過ごす。
 頭の中では昨夜から今朝にかけての出来事がぐるぐると駆け巡っている。
 時間を置いて冷静になった頭で、時間を与えられれば嫌でも考えてしまう。

 酔った勢い、という言葉で終わらせることはできない。
 そもそもジェクト自身、酒に酔ったせいで普段抑えている『触れたい』という欲求が表出した自覚があったからこそ、それを口にするのは躊躇われた。酒のせいなどではなく、それは確かにジェクトが抱いていた想いで、その愛情表現は親子の域を超えているのだから。

(……いや……そうじゃねえ)

 はた、と。
 そこまで考えてジェクトは、それに気付いた。

 触れたい? 親子の域を超えてる? そもそもそんな考えに行き着くことがおかしい。
 ジェクトは先日こうも思った。この狂おしい程の息子に対する想いを、親子としての触れあいでは足りないと。では恋人にするようなその行為を息子にできるのかと問われれば、イエスと答えられるだろうと。
(……なんだよ、それ)

 『できるのか?』ではない。
 『したい』のだと。

 実の息子に対して抱くものではない感情を自覚する。
 

 息子を愛している――それは真実だ。
 けれど、ただの『親子愛』だと言うにはあまりにそれは、度が過ぎていて、歪んでいる。
 自覚する。それは異界に来てからではない。もっとずっと前から、それは確かにジェクトの中にあって、ただ気付かないように目を逸らしていただけだ。
 そこにあるのは確かに愛情であり、執着でもある。

 ずっと会いたかった。
 ずっと殺して欲しいと願っていた。
 求め続けた存在が目の前にあって、その想いに気づかないわけがない。
 十年の孤独と絶望に比べれば、ティーダのいなかった最初の二週間など大したことはないのに、あの時は今にも気が狂いそうだった。
 それほどまでにジェクトはティーダを望み、求めている。
 どうして、何故、などという理屈は意味を成さない。
 ただその視線を、体を、想いを全て独占してしまいたい。

 触れたい。キスしたい。舌を絡めて、若々しい肉体に手を滑らせて、そして、その先まで――。

「っ……」
 ドアチャイムの音にはっと顔をあげる。インターホンの映像を見るとアーロンが来たようだった。

「よお、どうした?」
「いや、少し作りすぎてしまってな……暫らく家を空けるからお前達にと思ったんだが……」
「おーいつも悪いな」
「…………」
「……あんだよ、何か顔についてるか?」
「あいつと何かあったか」
 歳をとってから妙に鋭くなった友人に苦い顔しか返せない。それを見てアーロンは肩を竦めると遠慮なく家に上がる。アーロンも、ことティーダに関しては十年面倒を見てきた経験もあり何かと気にかけているのだ。
 茶くらい出せと背中で言われている気がして、貰ったものを冷蔵庫に入れるついでにアイスコーヒーのボトルを取り出した。
 アーロンの向かいのソファに座り、コーヒーを淹れて一息つく。アーロンからは何も言ってこないのが、なんだか無言で責められているようで居心地が悪い。
 僅かな逡巡の後、ジェクトは自分から口を開いた。

「なあアーロン」
「何だ」
「あいつの事抱けって言われたらできるか?」
「…………は……」
 ジェクト自身もあまりに直球すぎてどうかと思ったのだが、回りくどい言い方は苦手であったし、こんな話をそれとなく誤魔化しながら話せる器用さも持ち合わせていなかったから、こうする以外に考え付かなかった。
 案の定ストレートすぎる質問にアーロンは言葉を失っている。
「……一応聞くが……抱く、というのは抱きしめる、という意味ではないんだな?」
「おう」
「…………」
 眉間に皺を寄せたまま黙り込んでしまった親友を見て、やっぱり言わなきゃよかったかと思いながらコーヒーを啜る。

 どれくらいの間だっただろうか。波の音と心地いい風が窓から入ってくるのを感じながら、友の口が開かれるのを待った。

「……もし……まあ、もしもの話だが……そうしなければいけない、何か特別な理由があれば……もしかしたら、そうする、かもな」
 色事には滅法弱かったアーロンから無理矢理答えを聞き出すのは心苦しかったが、どうしても聞きたかった。十年ティーダを見守り、ある意味ジェクトよりも父親という存在に近いアーロンに、自分の気持ちを整理するために聞かなければいけないと思った。
「じゃあ何も条件がなけりゃやらないってことだな」
「ああ……」
「なんかこうよ、すっげえ可愛いなぁとか愛してるとか思って、抱きしめたくなったりキスしたくなったりすることもないよな。……つかおめえそんなキャラじゃねえもんな」
「……何が言いたい」
 アーロンはもう気付いているだろう。半信半疑ではあるかもしれないが、それでもジェクトがどうしてこんなことを訊くのか、何を考えているのか――それらを察している。

「なんか……オレ……もう駄目かもしんねぇ……」
 その声が、普段の自分からは考えられないほど弱弱しくて思わず乾いた笑いが零れた。
 俯いたまま言った言葉はちゃんとアーロンに届いたようだった。当然、その意味も。
「ジェクト……」
「勝手に呼んで、殺せだなんだ言って……挙句の果てにこんなヨコシマなこと考えて……父親どころか人間も失格だぜ」
 まあ人間じゃねぇけどな、と冗談めかして笑おうとするジェクトをアーロンは静かに見つめる。
 本当は、一、二発は殴られる覚悟で言った。規律戒律に厳しい堅物な男だから、息子に劣情を持つなど言語道断だと厳しく詰られると思っていた。
 他人の子とは言え、ティーダのことを大事に思ってくれているから、てっきり怒り狂うものだとばかり予想していたのに、この静かな反応はどうしたことだとジェクトが訝るとアーロンは一度深く息を吐いた。
「それは、ティーダを愛しているが故のものか」
「……なんだろうな……上手く説明できねぇ……けど、愛してる。世界で、誰よりも」
 きっと、自分自身よりも。

 しばらくの沈黙の後、アーロンは「そうか」とだけ呟いた。
「……怒んねぇのか?」
「怒ると思ったか?」
「殴られると思ってた」
 ふ、とアーロンが苦笑する。まさか笑うとは思っておらずジェクトは目を丸くする。
「俺もな、十年歳をとったんだジェクト。しかもザナルカンドなんて、スピラとは正反対の世界でな。嫌でも変わるさ」
 堅物だと思っていたアーロンのこういう変化を見せられると、十年という長い時の流れを嫌でも感じた。
「お前達は世界を救った英雄だ……そんなお前が、あいつを愛するあまりそういう想いを抱くようになったのなら……俺はそれを止めはしない。 本当なら反対したいさ。親子で、男同士で、許されるわけがない、とな」
 新たな命が生まれることのない異界で、同性間でのセックスなど問題ではないのかもしれない。
 けれど、意識に刻まれた道徳や倫理観はどうしても後ろめたさを生み出す。それが、禁忌とされる近親者であるなら尚の事。
 それらをよく理解した上で話すアーロンを、ただ黙って見つめた。
「……お前達がただの他人であればきっと俺は否定してしまうだろう……だがもし仮に、ティーダが同じ想いを持っていたとしたら……お前達がそれで幸せだというのなら……俺は止めない。多分、ブラスカもそう言うだろう」
 言い終わり、軽く息を吐いた男から、やはりジェクトは視線を逸らすことができなかった。
 先ほどまで抱えていた重苦しい気持ちが、少しだけ軽くなったように感じるのが不思議だ。
 本人も言った通り、本当はジェクトの持つ感情を認めたくはないのだろう。それでも止めないと言ってくれた友人の心中を思わずにいられなかった。
 ブラスカもそうだが、本来は関係なかったはずのジェクト、そして息子のティーダまでをもスピラの運命に巻き込んだことに、今もまだ罪悪感を抱いているのだろう。
 彼らとてスピラにとっての英雄であるというのに、ジェクト達に何かあればすぐに駆けつけ、相談に乗り、時にはこうして訪れてくれる。
 償い――というほど大げさなものではない。けれど、失ったはずの故郷と時間とを得ることの出来た二人に、ただ幸せであってくれと願い助力を惜しまない友に、ただただ感謝の念でいっぱいになる。
「まあ、あいつを泣かせるような真似をしたら、その時は容赦なく殴るがな」
「やっぱ殴るのかよ」
 つい突っ込みながら笑ってしまう。
 倫理に反する、許されない想い。それを、最も身近にいる人間が許容してくれるという事実は、ジェクトの重く澱んだ心を僅かでも掬い上げた。

「それで?」
「あん?」
「あいつに何かしたんだろう? それで自分の気持ちに気付いた……違うか?」
 本当に鋭くなったものだと顔を引き攣らせたジェクトが事の顛末を説明させられ、結局拳骨を食らったのは言うまでもない。

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