あれから、ジェクトが拍子抜けする程ティーダはあっさりと機嫌を直した。
けれど、その代わりのようにジェクトはどこか壁を感じるようになっていた。
目の前にいるのに、態度はいつもと変わらないのに、ガラス一枚隔てたような微妙な距離感。
一度気付いてしまうと、やはりそれを無視することは難しく。かといってあの日の出来事を蒸し返すことも出来ず、しばらく悶々とした日々を過ごした。
「いってきまーす」
最近では知り合いも増え、出かけることも多くなった。
当然一人ではなく、信頼できる友人達と一緒に遊びまわっているようだ。
帰った後にはあれをしたどこに行ったと話してくれるので安心はしている。とは言え、共に過ごす時間が減ってジェクトとしてはやはり面白くなかったのだが。
自身の想いに気付いてからというもの、今まで以上にティーダが愛しく、共にありたいという気持ちが強くなった。
親として逸脱してしまったこの想いが成就することはないと分かっていても、気持ちが変わる事はない。
ただ幸せになってほしいと思う。
ティーダは、大切な息子なのだから。
「あいつ……放してやったほうがいいのかね……」
「何の話だ」
ティーダは帰りが遅くなると言っていたので、暇だから付き合えとジェクトは酒瓶を持ってアーロンの家に押しかけていた。
酒を酌み交わし、程よく酔いが回ってきた頃、ぽつりと零れた言葉にアーロンは眉を寄せる。
ジェクトの気持ちを聞いて尚、今まで通りに接してくれるのは素直に嬉しかった。
ただ、時折『あいつを泣かせてないだろうな』とでも言いたげな目線を向けられるくらいだ。
「記憶、戻んねぇしよ……オレに付き合せるより、自由にさせた方がいいんじゃねぇかな……あいつはオレと違って家事できるし、一人暮らしできる金もあるし……なんならオレが出て行っても」
「あいつがそうしたいと言ったのか?」
険しくなるアーロンの視線に口ごもる。
「言ってねえよ……けど……」
ジェクトは件の風呂場での出来事で、咄嗟に『ジェクト』と呼ばれたことを話した。
本当はただの他人としか思えていないのではないか、共にいるのは苦痛なのではないか、と。
「案外よ、最近よく出かけんのは部屋探しのためだったりしてな!」
わははと笑うがアーロンは相変わらず険しい表情のままだ。
「なぁ……それとなく話してみてくれねぇか? オレ相手だと遠慮して言わねぇかもしれねぇし……」
「断る」
ピシャリと即答する友人は険しくも呆れたような空気を纏わせため息をついた。
「ジェクト、考えるのは勝手だがそれが答えだと決め付けるな」
「でもよ」
「だってもでももあるか。うじうじとネガティブでお前らしくもない。小難しいことなぞ考えないで素直になったらどうだ? お前は馬鹿で単純で我侭で飲んだくれでろくでなしで」
「ひでぇ……」
ティーダに抱く感情を止めはしないと言ったアーロンだが、時折風当たりが強い気がするのはやはり、手塩にかけた娘を嫁に出す父親のような心境なのだろうか。
「だが、いつだって前を向いていた」
「…………」
ジェクトはシンの中で十年間、息子の事だけを考えて堪えていた。
そして今もまた、ジェクトの思考は常にティーダのことでいっぱいだ。
「……あいつと一緒にいたいんだろう」
「……ああ」
観念したように肯定すると、アーロンはふんと鼻を鳴らした。
「一度ちゃんと話し合え。前にもそう言っただろうまったく……あいつはどこかの誰かと似て馬鹿で単純で素直じゃなくて意地っ張りだからな。お前の言うように何か抱えてるのだとしたら、早くしたほうがいい」
――今のこの生活は、一見平穏だ。
それでも、ティーダの記憶の欠落という枷がなくなったわけではない。
記憶が戻らないからなのか、何か他の理由なのか……笑顔を見せていても、元気に生活していても、ティーダは今もどこか不安定で、頼りない。
ほんの少しのきっかけで、脆く崩れてしまいそうな危うさがあった。
気付いていないわけではなかった。けれど、日々の平穏な生活は――ティーダが笑いかけてくれる生活は幸福で、ティーダの憂いも時間が経てば和らいでいくのではと思っていたのだが……。
「そうだな……話、しねぇとな」
もしかしたら逃げていただけなのかもしれない。
最初にティーダを見つけた時のように、他人行儀で接せられるのが……全く知らない赤の他人のように見られるのが、怖かったのかもしれない。
天下のジェクト様ともあろうものが、腑抜けたものだ。
いつか壊れるかもしれないことを恐れながら過ごすよりも、後悔のないように素直な気持ちを言葉にしたほうがいい。
心を決めたジェクトの様子にアーロンも僅かに安堵を見せると、空になったグラスに酒を注いだ。
その時、ジェクトの携帯端末が震え始めた。
ティーダやブリッツ関係者以外からは滅多にかかってこないそれを取り出し画面を見ると、ひやりと背筋が寒くなった。
それは最近登録したばかりの番号で、ティーダとよく一緒にいてくれている学友のものだった。
彼は夢のザナルカンドの頃からアーロンもよく知っており、信頼できる人間だったから、何かあった時のために連絡先を交換していた。
今日もティーダは彼と遊びに行ったはずだ。
嫌な感じがする――。
電話を取る様子のないジェクトにアーロンが訝しむ。
悪い予感を振り払い、震えるそれのボタンを押して耳に当てた。
――――――
「アーロンか!? そっちは!」
芳しくない返事を聞いて舌打ちしそうになりながらも次の場所を伝えて電話を切る。
『あのっ、ティーダ帰ってますか!?』
アーロンの家で電話を取ったとき、耳に飛び込んできたのはティーダの学友の焦った声だった。
『ちょっとトイレ行ってる間に姿が見えなくなって! 携帯も繋がらないし位置情報も出ないし……』
「くそっ」
こめかみを伝う汗が鬱陶しい。ブリッツの試合でいくら動こうとも殆ど息切れなんてしないのに、いつの間にか肩で息をしている。
ティーダを見失ったというのは人通りの多い場所だった。もし以前のように妙な輩に絡まれたのだとして、ティーダが嫌がり抵抗していれば目立つはずだがそういう目撃証言はなかった。
まさかまた『友達』だと言われて、疑いながらも付いていったのだろうか?
「……っかやろう……」
もしそうだとしたら、あれ程注意しろと言ったのに何故……と怒りが湧き上がってくる。
……否、まだ決まったわけではない。そう自分に言い聞かせながら周囲の視線も気にせずに走った。
「え、ティーダ君ならさっき友達と歩いてるの見ました!」
「本当か! どっち行ったか分かるか?」
ジェクトに話しかけられてきゃあきゃあと喜ぶ女学生達に焦りつつも笑顔を向けて訊ねる。
友達というのが今ティーダを探すのに奔走している彼ならばジェクトにも連絡が来ているはずだ。それがないということは――
嫌な予感を振り払いながら女学生達に礼を言うと、彼女らが示した方へと足を向ける。
「今日はめっちゃラッキーだね~ジェクトさんともティーダとも会えたし!」
「でもあの友達もかっこよかったよね」
「ていうかアレあの人じゃない? ほら、前にエイブスにいた――」
後ろから聞こえる会話にますます足が速まる。
上手くいっていると思っていた。普段の生活も、ブリッツでも。
けれど本当は、気付かぬうちにゆっくりと、崩れ始めていたのかもしれない。
あるいは、最初から確たる足場など、なかったのかもしれない。
――――――
そこは以前、ティーダが妙な男達に連れ込まれた路地からほど近い場所だった。
明るく華やかな表通りと違い夜の闇を集めたように暗い中で、扉のなくなった建物の奥からの声を捉えられたのは不幸中の幸いだっただろう。
足音がしないように注意深く地下へと続く階段を下りる。僅かな明かりが漏れる場所に近づくほど声は大きくなっていく。
「にしてもよぉ、友達っつったらホントにのこのこ付いてきやがって笑えるっての。誰がおめーなんかとトモダチなんだよ」
「記憶ないって本当だったんだな。マジで覚えてねーのかよ」
「……だから知らねーって」
バシンと乾いた音が響く。何をされたか容易に想像できて、ジェクトは瞬時に全身の血液が沸き立つ程の怒りに襲われる。
怒りで震える手を握り締めながらそっと声のする部屋の中の様子を窺った。
部屋の中で三人の男達に取り囲まれたティーダの姿を確認した。即座にアーロン達の端末に決めておいた合図を送る。後は端末の位置情報を見てここに来られるはずだ。
ジェクト一人でも負けはしないが、スター選手であるジェクトが暴力沙汰を起すと後々厄介なことになりかねないと、切羽詰った状況でなければアーロン達を待てと言われている。
今すぐにでも飛び出したい衝動を押さえ込みながらジェクトは祈るような気持ちでティーダを見つめた。
後ろ手に縛られたティーダの胸倉を一人の男が掴みあげる。
「お前がエイブスに入った時からそーいう生意気なとこが気に食わなかったんだよ。あの時お前さえ来なきゃオレがエイブスのレギュラーに……!」
「……なにそれ逆恨み? だっせ」
今度は鈍い音がする。男の拳が鳩尾に入ったらしく、苦しそうに呻くティーダを男は乱暴に床に落とした。
何故刺激するようなことを言うのかと堪らずジェクトが飛び出そうと構えた時、ティーダの静かな声が響く。
「他の……げほっ……二人も、同じ理由、かよ」
「あ? 俺らはエースとか言われて調子乗ってるお前が気に入らないだけだよ」
「……そんだけか」
「は?」
その発言に気分を害したように苛立ちを募らせる男達を、ティーダは鼻で笑う。それは、自嘲にも似ていた。
「あんたらが知ってる『ティーダ』の話はそんだけかって言ってんだよ」
「何言ってんだテメェ」
「も……いいよ。それしかないなら……おれ、帰る」
縛られたままなんとか上半身を起して立ち上がろうとしたティーダは肩を踏みつけられ、再び床へと倒された。
「ってぇ……」
「何が帰るだよ調子乗ってんじゃねぇぞ!」
「……っるせぇな! 関係ねぇだろおれには! 知らねえつってんだ!!」
「記憶ないからってなかったことになると思ってんの?」
「だから……っ!!」
尚も言い返そうとするティーダの髪を鷲掴み体を起させると、怒りで赤くなった男が拳を作る。
「何も覚えてねぇっつーならよぉ、頭に衝撃くれてやりゃなんか思い出すんじゃねーの?」
「ショック療法ってやつか?」
げらげらと笑いながら他の男が折りたたみ式のナイフをちらつかせる。
アーロン達はまだ来ない。
ジェクトはスッと目を細めた。限界にまで高まった怒りはむしろ人を冷静にさせるのだと知る。拳を握りなおすとティーダを傷つけない、最速で男達を片付けられる動きを瞬時に予測して、脚に力をこめた。
「……やってみろよ」
「は……」
「その程度で思い出せるならやってみろって言ったんだ!!!」
「っ……こ、の!!」
振り上げられた男の拳がティーダに痛みを与える事はなかった。
衝撃に構えていたティーダが目を開けると、男達は全員地に伏せ、そのうちの一人の胸倉を掴んでさらに殴ろうとする男がいた。
「……っ……」
ティーダが男へ目を向けた瞬間、先ほどまでの強気な態度が嘘のように消え、怯えた表情になる。
それを目の端で捉えたジェクトは今にも殴りかかろうとしていた拳を動かすことができなくなった。
「ジェクト!」
遅れてやってきたアーロンに手首を掴まれ、ジェクトは怒りに震えながらゆっくりと腕を下ろした。
既に気を失っている男を、先ほど彼がティーダにやったように乱暴に床に投げ捨てる。
ブラスカに拘束を解かれ身体を起したティーダの方へ足早に歩くと、腕を掴んで無言で歩き出す。
「おいジェクト!」
「……悪い……こいつを家に置いてくる……後任せた」
返事も聞かずにティーダの腕を引いて歩く。途中でタクシーを拾い、家に向かう最中もティーダは口を開かず、ジェクトも無言のままだった。
家に着き、金を払った後もタクシーから引きずり出すように乱暴に腕を引いた。抑えようと思っても、先ほどの光景が蘇ってきて舌打ちしたくなる。
「っぅ……」
扉を開け、中に入ると堪え切れなかったのか痛みに呻く声が聞こえても、手を緩めることができなかった。
そのまま強引に引き寄せて、真正面から目を合わせる。顔を逸らせないように顎を掴めば、怯えの色が濃くなった。
ジェクト自身、わかっていた。これはただ、親が子を心配するだけの怒りではない。
怒りの中に潜むのは、嫉妬、独占欲だ。
世界で一番大切なものを傷つけられたことが許せない。この存在を傷つけるのは、傷つけていいのは自分だけだという理不尽な想い。
そしてあの男達を煽るようなことを言ったティーダ自身にも、その怒りは向けられていた。
「……なんであんなこと言った」
「なに、が」
地を這うような低い声が如実に怒りを表していて、自嘲する。そして自分に怯えるティーダに苛立ちが募る。
「やってみろって、言ったよな。何であんな煽るようなこと言った」
「…………」
「のこのこ着いていったんだってな? 何でそんなことした」
「…………」
僅かに瞠目し、しかしすぐ目を伏せ口を開かないティーダに、ジェクトは思わず手を上げていた。
乾いた音と、じんと痺れる手の平に、男達にやられた時よりもよほど強く痛みを与えているだろうことがわかる。
「どんだけ迷惑かけたか、どんだけ心配かけたかわかってんのかお前はッ!!」
叩かれた頬を手で押さえ呆然としていたティーダの瞳が揺れる。
泣くのだと、思った。
けれど潤む瞳から雫が落ちることはなく、ティーダは唇を震わせながらも微かに、笑って見せた。
「ごめ……おれ、思い出さな、いとって…………だ、から……ごめん、ね……心配、かけ……」
下手な笑顔を浮かべながら、やはり堪えきれなかった雫が零れた。一つ落ちてしまえば後はもう、堰を切ったように流れ出す。
「……っあ、れ……ご、めん……びっく、りして……っ……あ……」
「……ティーダ……?」
ティーダは何度も何度も涙を拭うがそれが止まることはない。
笑顔を作ったまま何度もごめんと謝る姿に流石にジェクトも怒りを殺がれる。
「ちが……こん、な……ぅ……まれ……止まれッ……とま、れよ……!」」
目が傷つくんじゃないかと思うほどに強く擦るティーダの手を掴んで止めさせると、拭うものを失ったせいでまたぼろぼろと涙が落ちる。
海のように揺らめく瞳と目が合った。
声を上げまいと歯を食いしばる様は憐れみすら誘う。
怒りに我を忘れ、泣かせてしまったのはジェクト自身だとわかってはいても、声をかけずにはいられなかった。
「……ティーダ……」
「ッ!!」
その途端ジェクトの体は突き飛ばされた。力は然程強くなかったが、全く心構えができていなかったためによろけ、その隙にティーダは家を飛び出してしまった。
「おいっ!」
走るティーダを追いかける。
流石にブリッツでも戦闘でもスピードが自慢のティーダが全力で走れば、ジェクトとて追いつくのに苦労する。
「待てっ! 待てっつってんだろ!」
走る方向の先には、ジェクト達が初めて異界に来た時に立っていた浜辺がある。
街から離れたその場所は海水浴シーズンでも人が少ない。今の時期、夜も明けないこの時間では人っ子一人いないだろう。
(何で……)
行く先も決めず、ただがむしゃらに走っているだけなのか。――それとも、還るつもりなのだろうか。彼が初めて姿を現した母なる海へと。
「っ」
砂に足を取られよろけた一瞬を見逃さず、ジェクトはぐんと地を蹴って加速した。
伸ばした手が、ティーダの腕を捉える。
「っや……!」
転ばずに何とか踏ん張ったティーダは途端に腕を振り払おうとするが、ジェクトの腕力がそれを許さない。
「……や、だ……放せッ……!」
「逃げんなっ! ぶったのは、悪かった……でも何でなんだ、ちゃんと話を……」
「いやだっ……! もう……」
「ティーダ!」
びくっ、と体を震わせ抵抗が弱まる。
はあはあと二人の荒い息と、波の音だけが暗闇に響く。
ジェクトが腕を掴んでいた力を緩めると、俯いたままの少年に、怖がられないように声をかけた。
「……ティーダ?」
「……な」
名を呼ばれて微かに肩を震わせると、何事か呟いた。それはあまりに小さくて、ジェクトはもう一度問う。
「なあ……どうしたんだ、ティ……」
「呼ぶな……っ!」
悲痛な叫びにジェクトが怯んだ。顔をあげた少年の瞳から、また一筋の涙が落ちる。
震える唇で、もう一度、哀願するように同じ言葉を繰り返す。
「……の、名前で、おれを……呼ばないで……」
その言葉を理解するのに、ジェクトは僅かな時間を要した。
じわりと脳に意味が染み渡り、生まれた感情は、困惑。
「何……言って……」
「おれは『ティーダ』じゃないッ!!!」
声は夜の闇に響き、やがて解けていったはずなのに、頭の中で何度も繰り返し鳴り響く。
その意味は、ナイフのようにジェクトの胸を深く鋭く突き刺した。
本当は、言うつもりなどなかったのだろう。
表情に後悔を滲ませながら、それでも少年は吐き捨てるように言った。
「おれはっ……あんたが望んでる、『ティーダ』じゃ……ないよ……」