「おれ……っぃ……ちどもッ……自分が、『ティーダ』だって、思えたこと……ないよ……」
途切れ途切れに、涙を堪えながら告白する少年は、夜の闇に飲み込まれてしまいそうなほどに頼りない存在だった。
――そうではないかと、確かにジェクトも思ったことがあった。自分という存在が分からず、ジェクトを父とも思えずに、不安定なままなのではないかと。だがそれを口に出したことは、一度もなかった。
「あんた達に……言われても……写真見て、昔の話聞いて、色んな場所に行って、友達も、いて……っ……! だけど何もっ……思い出せなかった……」
嗚咽を堪えた少年はしかし、一番封じ込めておきたかった言葉を堪えきれなかった。
「……っんたのこと……父親って……おもって、あげられ、ない……ッ」
それは懺悔のようだった。身の内にため続けてきた全てを曝け出した後、ジェクトの前から消えてしまう――そんな予感すらして、少年の腕を掴んだ手にそっと力を入れた。
「思いつくこと全部やったんだ……精神科行ったり催眠療法やったり……友達に頼んで、怪しい黒魔術研究してる所だって、胡散臭い占い師の所だって連れてってもらった! 殴られたって思い出せるならそれでもよかった!! だけどっ……なにも……おれッ……」
瞬間、先ほど男達に捕まっていた時の言葉を思い出す。
『その程度で思い出せるならやってみろって言ったんだ!!』
自棄になっていたわけではない。ほんの僅かな可能性だったとしても、ゼロではないのなら試さずにはいられなかったのだ。
「っ……だったら……何で言わなかった! 思い出せねぇって……ティーダだと思えねぇって……!」
少年が素直にそれを言っていれば、ジェクトとて何かしたはずだ。彼が、『ティーダ』としてではなく、新しい人間として過ごしていけるように、何かを……。
「……皆、おれのことティーダって呼ぶんだ……」
擦れた声はジェクトの耳になんとか届いた。じっと俯いたままの少年を見つめていると、また一つ雫が砂浜へと吸い込まれていった。
「『ティーダ』じゃないって、わかったら……あんたも……アーロン達も……皆も……いらなくなると思ったんだ」
何を、なんて問うまでもなかった。
「ひとりになるのが、こわかったんだ」
瞬間、怒りが湧き上がりそうになるのを耐えた。そう思われるだけの対応を、ジェクトや周りが彼にしてきたということだ。
そもそも、思うところがあったにも関わらず何も言わなかったジェクトが、『ティーダだと思えない』と告白しなかった彼を責めることなどできないのだ。
ぐ、と奥歯を噛み締める。互いに言葉が足りなさすぎたのだと。
「……しねぇよ。お前を一人にしたりしない。記憶のことだって……思い出せないなら無理しなくていい……気にするこたねぇ……」
そう言っても、少年の顔は晴れない。どころかますます俯いて、縮こまる。
「だってあんた……辛そうな顔するじゃんか……おれが『普通』にしたら……ジェクトって呼んだら……苦しそうだった、じゃないか……!」
「……それ、は」
「おれがおやじって呼んだら……ブリッツしたら、あんたは喜ぶ……ティーダと同じことやったら懐かしそうにするんだ……」
ジェクトは言葉を返すことができない。それは確かに事実であったから。
「あんたの、辛そうな顔……見たくなかった……」
立つ気力すらも失ったかのようにへたり込む少年につられジェクトも地に膝を突く。
父親だと思えない……そう言いながらも、そこまで想ってくれていることに胸が詰る。
記憶がなくなろうとも彼はティーダである――それはジェクト達にある当然の認識だった。
周囲の人間にとって当たり前のことは、彼にとってはそうではなかった。自分をティーダだと思えないまま、ティーダと……自分の知らない誰かと重ねられ、比較されていると感じていた――。
「なんで……」
自然と呟きが漏れていた。そして答えは既に出ている。
ジェクト達に見放されると思ったから言わなかった。ジェクトを苦しめたくなかった――それは分かっても、やはりどうして話してくれなかったのかと思わずにはいられなかった。
少年は自嘲するように笑う。
「あんたさ、最初に会った日なんて言ったか覚えてる……?」
暗い瞳がジェクトに向き、ぼんやりとした淡い思い出が記憶の底から蘇る。
『さっき……えっと……ジェクトさん、が……おれを見て『ティーダ』って呼んでた。それはおれの名前……?』
『……ああ、そうだよ』
『いやあ、まだ断言はできないよ』
『ああ?』
そう、確か――。
『……違うわけ、ねぇだろ……』
『何もわからないんだ。他人の空似、なんてことももしかしたらあるかもしれない』
『でもどう考えたって!』
ジェクトは信じきっていた。だから疑うこともなく、ブラスカの示す可能性も否定した。
「あんたはおれが最初から『ティーダ』じゃないって言っても……ッ……もしおれが……『ティーダ』と全然違う外見だったとしても……それでもおれのこと息子だって…… 『ティーダ』だって思ってくれたのか……?」
その質問に、ジェクトはすぐに答えることはできなかった。
「あんたは……誰を見てるんだ……」
海で彼を見つけた時、確かにジェクトは『ティーダ』であると感じた。魂が震える程に渇望した存在であると。
だがもし外見が全く違ったら――性別すらも違っていたらその時は、どうだったのだろう。
「……ちゃんと……てよ……」
『おれ』を、見て。
重ねないで。
『ティーダ』じゃなくて、『今のおれ』を。
その時、一瞬ジェクトの脳裏に過ぎった記憶。それは遠い日の、十年以上前の記憶。
『おかあさん』
『ちょっと、待っててね』
子供の声に、彼女は振り返ることなく答える。
『ジェクトの息子か、将来が楽しみだな』
『ジェクト二世!』
誰も彼も、一言目からジェクトの名を出す。
その時、どんな目をしていたかを、ジェクトは知っている。
知っていて、どうすればいいか分からなかった。何も、してやれなかった。
”こっちをみて”
”ちゃんとみて”
”おれを、みて”
声すら上げずに泣いていた子どもの姿が、少年と重なる。
(やっぱり……お前じゃねぇか)
ジェクトは閉口してしまう。
記憶のない彼は、もうティーダではない、別の存在なのかもしれない。
だが、確かに彼は『ティーダ』なのだ。
あの日のまま、自分を見て欲しくて、愛してほしくて泣いている子どものままだ。
言いよどんだジェクトに少年は微笑んだ。
それは諦めとも、慈愛とも、悲哀とも取れる瞳。
「……ごめん……そんなこと言われたって、困るよな。外見が違ったら、なんて……そんなのわかんないよな……ただの八つ当たりなんだ……分かってるんだ……ごめん……」
微笑みながら、その目からは後から後から透明な雫が生まれ続ける。それはきっと塩辛く、この体はきっと海で出来ているんだろう。
「だけどおれ……もう、どうしていいか……わかんないよ……」
「、……」
名前を呼ぶことは憚られた。彼はティーダであって、しかしティーダではない。だが、確かにティーダだった。
「ねぇ……教えてよ……」
”おれは、だれ?”
それはあの日と同じ問い。
あの時自分は、何と答えたのだろう。
瞬間的に思い出すことはできず、ジェクトは夢中で手を伸ばした。
例え彼がそう思えなかったとしても、記憶がなくても、彼は確かに『ティーダ』で、もう二度と、失いたくはなかった。
「お前はっ、オレの息子だ!!」
両腕で、小さな体を折れんばかりに抱きしめる。
ふ、と耳元に吐息がかかった。
「……ありがとう」
小さな声に応える間もなく、ぐいと体を押し返された。
「ごめんね」
瞬間、何をされたのか分からなかった。
眼前にあるのは閉じられた瞳。唇には温かく、柔らかな感触。
胸に当てられた手がかすかに震えていた。
名残を惜しむように軽く音を立てて離れた。
「……普通の息子は、父親にこんなことしたいなんて……思わないよ……」
微笑すら浮かべて、少年はジェクトを真直ぐに見た。
「だからおれは、あたの息子に、なれない」
ごめんね、と。
謝って離れようとする体を抱き止めた。
「っ……ジェク……」
「駄目だ……放さねぇ……」
腕の中の体が震えた。それが驚きによるものなのか、恐怖によるものだったのかはわからない。
「お前が息子じゃないってんなら……オレだってもうとっくに……父親じゃねぇ。そんな資格、とっくに無くなってんだ」
「……何……を……」
そうだ、殺して欲しいと願った時から、親である資格なんてとっくに無い。
だが、そうだとしても血の繋がりがなくなるわけではない。だとしても――。
少しだけ腕の力を緩め、体を離す。前髪を軽くはらい、その顔を覗き込む。
暗闇の中でも、ジェクトの目は少年の目を捉えた。
「……言わなきゃ、わかんねぇよな」
アーロンに言われた言葉を思い出す。きちんと言葉にしなければ、伝わらないのだ。
いつだって、言葉が足りなかったから。
「お前がたとえ何も思い出せなくても、『ティーダ』なんだって思えなくても、お前は確かにオレの息子なんだ。それは、オレにだって変えようがねぇ。 ……だから、『ティーダ』としてお前を見るのをやめることはできねぇ」
悪いな、と指の腹で目元を拭ってやる。濡れた瞳がジェクトを見上げ、酷く愛おしいと想った。自然と表情が柔らかくなる。
「けどよ、ちゃんと『お前』を見るから……だから思い出さなくたっていい……ティーダになろうとしなくていい……んなことしなくたって、お前はオレのガキで、世界で一番大事な存在なんだ」
両手で少年の頬を包み、額に、目元に、そして唇にキスを落とした。
ジェクトの息子はティーダで、そして少年は確かにジェクトの息子だった。それを認めて尚、手を伸ばした。
あの日自分を救ってくれた手を、今度は自分が。
「確かに親子で、なんて常識じゃ間違ってんだろうな。オレだって最初はそう思った。……でもしょうがねぇだろ。お前がいいって、一番だってここが言うんだ」
握った手を、自分の胸に押し当てる。
少年の体が震えた。唇が戦慄いて何か言葉を紡ごうとしたけれど、それは声にならなかった。
それは一瞬のようでいて、永遠のようでもある時間。
見詰め合った瞳が揺れる。
少年の瞳に映った自分は小さすぎてよく見えない。でも、素直に口にした初めての言葉はやっぱり照れくさくて、赤くなっているような気がした。
何も答えられない少年の強張った体を優しく抱きしめる。その体はとても暖かくて、初めて彼を見つけた日を思い出した。
『……クト……ジェクト……』
声が、した。
顔を上げれば、二人の傍で幻光虫集まり、次第に人の形を成していく。
それは少年の姿をしており、しかし少年とは思えない老成した雰囲気を纏う者だった。
「お前……バハムートの」
『ジェクト……よかった……』
ほっとした表情を見せたのはバハムートの祈り子。記憶のない少年は当然覚えていないのだろう、突然現れた祈り子に目を丸くする。
祈り子はフードに隠されがちな表情を引き締めると、淡い光を持つ右手を持ち上げた。
『持ってきたんだ、君の記憶……』
「え……」
その言葉に、ジェクトも少年も驚きを隠せなかった。
どことなく焦りの色を見せる祈り子はしかし、あくまで落ち着いて二人に説明する。
『君が……ティーダが、忘れたいって思ったものなんだよ』
幻光体で出来ている夢のザナルカンドにいる人々や、一度祈り子となり魂のみの存在となったジェクトとは違い、スピラで肉体を持ったまま消滅したティーダだけは、そのまま異界へ行くことはできなかった。
再びスピラへと肉体を持ったまま存在させることはできなかったけれど、せめて魂は異界に行けるようにと祈り子達はバラバラになってしまったティーダのカケラを集め再構成した。ジェクト達よりも遅く異界に現れたのは、再構成に時間がかかったからだ。
だがどうしても記憶だけが見つからなかった。それはティーダ自身が失くしてしまいたいと願い、幻光虫が反応してしまったからだ。
「おれ、が……」
『……記憶はそれ自体が幻光体に近いから世界に溶けやすい。急がないと本当に消えてしまうから、僕達は全員でそれを取り戻そうとした。まさか、記憶のないままの君が ジェクト達のところに行ってしまうなんて思わなくて……伝えに来れればよかったんだけど、そういう余裕もなくて……』
祈り子は苦笑する。それは少年のような外見に似合わない、年月を感じさせる老成したものだった。
『これは……僕たちのエゴ……自己満足だよ。ティーダが忘れたいって願ったものを、勝手に集めてきただけ』
「……どうして?」
海色の瞳が祈り子をじっと見つめる。その問いは、祈り子の行動に対するもののようでも、ずっと探していた記憶を自ら忘れたいと望んだことに対する自問のようでもあった。
『ジェクトと、ちゃんと話して欲しいって思ったから……かな。記憶を失くしたいと思った理由はわからない……それは多分、君自身にしか分からない』
祈り子は少年へ手を差し出す。それは淡い光を帯び、不思議な暖かさを感じさせた。
『君が忘れたいと望んだものだから……取り戻せば、君にとって辛いことになるかもしれない。 でも……もしこのまま受け取らなかったら、君は完全に『ティーダ』とは乖離してしまうと思う』
「ティーダに……戻れなくなるのか?」
『君も感じているはずだよ。『ティーダ』とのズレ……それがこれ以上大きくなれば、この記憶も君には馴染まなくなる……ごめん、あまり急かしたくはなかったんだけど……』
少年はもう一度祈り子の手を見つめた。そこに触れればきっと、失われたものが戻ってくる。何もない空っぽな空間に、そこに本来あるべきだったものが入るのだ。
少年は今一度考える。それを取り戻したら、自分はどうなるのか。この想いは、どこへ行くのか。
隣に膝をつくジェクトを見た。
ジェクトはただ優しく笑んで、少年の髪をくしゃりと撫でた。
「大丈夫だ」
ジェクトの答えは既に出ていたし、少年もそれを理解していた。
だから選ぶのは、少年自身。
「ジェクト」
その呼び方を、ジェクトが忌避することはもうない。真摯な瞳は、少年に安堵を与えた。
「……色々……迷惑かけて、ごめん」
「……馬鹿」
謝るまでもないと、ジェクトは苦笑しその頬に手を滑らせた。
その温もりを感じながら、少年は僅かに目を伏せる。目覚めてから今までの、僅かな思い出を懐かしむように。
「今更、信じてもらえないかもしれないけどさ……父親だと思えないんだ、って……好きだって、言ったけどさ……本当はずっと、あんたみたいに強くて、かっこよくて、……家ではちょっとだらしないけど、でも優しくて……」
少年が頬を包むジェクトの手に自分の手を重ねる。それはもう、ジェクトの記憶にある、紅葉のような小さな手ではなかった。
「……そんなあんたが父親だったら……父親だってちゃんと思えたら……誇らしくて、嬉しいだろうなってずっと、思ってたよ」
伏せた目を上げ、少年は少しだけ、照れくさそうに微笑んだ。それはジェクトが今まで見た中で、一番温かなものだった。
「おれ、あんたの息子に、なりたかったんだ」
唇が動く。
それが、声に出されることはなかった。
”おとうさん”
幼い頃の面影が重なる。
『おとうさん』
まだジェクトを、そう呼んでいた頃が、確かにあった。
ジェクトが何か言うよりも早く、少年は祈り子の手を取った。
瞬間、真昼のように強い光が溢れる。
光の中で少年の体を抱きしめながら、ジェクトは小さく声を洩らした。
「……馬鹿息子」
本当は、ずっと、そう呼びたかったんじゃないのか。
『ティーダ』としての呼び方じゃなく、自分の呼び方で、言いたかったんじゃないのか。
『強がりで、甘え下手な子供だ。――泣き虫で、強くて、優しい子だ』
不意にアーロンの言葉が蘇る。
ああ、確かにお前の言うとおりだと、ジェクトは目を伏せた。
いつの間にか成長してしまった息子の体を、ジェクトはただ抱きしめ続けた。
――――――
歌が、聞こえる。
それは遠い昔によく聞いた、懐かしい歌。
ちょっとだけ下手な、でも優しい歌。
意識が浮上する。
ゆっくりと目を開ける。
目に映ったのは、薔薇色に染まりゆく空と、その中に浮かぶ真紅の瞳。
「おはよう」
酷く穏やかな声と表情で、優しく頭を撫でながら男がそう言うものだから、つんと目の奥が熱くなって逃げるように体を起して背を向けた。その時に気付いたが、どうやら男の腿を枕にしていたらしかった。
あまりに優しいその視線に耐えられず、逃げるように体を縮こまらせた。
「ティーダ」
優しい声に肩がはねる。
「……なんだよ、顔見せろよ」
どこまでも穏やかなそれに、どうしていいかわからなくなる。
「……なんで……」
なんで思い出してしまったんだ。
なんで怒らないんだ。
なんで。
「ったく、勝手に忘れてんじゃねぇぞ馬鹿息子」
「ッ……なんで……!!」
背後で、立ち上がる気配がする。さくさくと砂を踏む音と共に、傷の有る脚が視界に映った。
しゃがむ男から隠れるように俯くけれど、落ちる雫は隠しようがなかった。
「なに泣いてんだよ、泣き虫。そんなにオレ様に会えて嬉しいのかぁ?」
「っ……」
茶化してくるその声は、十年前のままで。
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。なのに男は……ジェクトは手を伸ばしてきた。
その温もりに触れられる資格なんかなくて、けれど振り払うこともできなくて。
「オレが殺したんだッ!!」
とうとう口をついて出た言葉に、頬に触れる寸前だった指先が止まる。そのことに胸を刺すような痛みを覚えながら、自身の身勝手さに吐き気がした。
「オレがっ……アンタを殺した……」
「オレが望んだんだ」
「分かってるよ!! 全部分かってるッ……!! 自分で決めて、覚悟して……だけどっ……」
『シン』を永遠に消す唯一の方法。
スピラを、召喚士を、祈り子を死の螺旋から解放するための手段。
――否、そんな大義名分よりももっと大切なのは、何より、ジェクトが『それ』を望んだから。
『それ』をするべきなのは、望まれたのは、許されたのはティーダだけだったから。
「オレ、は……っ」
全てを理解して、運命を受け入れても。ティーダ自身が、父を救いたいのだと思っていても。
「殺、したく、なんか……なかった……ッ!!」
それはきっと、初めて口にした本音で、弱音。
「あ、んた……を……殺す、感触……んて、知りた、く、なかっ……!!」
今でもその手には、体を貫いた感触も、溢れる紅の熱も、はっきりと残っている。それはきっと、永遠に消えないものだ。
誰も止めなかった。誰も責めなかった。誰も咎めなかった。
むしろ、正しいことなんだと、そう気遣う雰囲気ですらあった。
父親を殺すという、人としての禁忌を犯すことを、誰一人として否定する者はいなかった。
『シン』を消すにはそれ以外の道はなかったから。
いっそ詰られたほうがずっと楽だった。
咎められない罪がどれほど人を苛むのかを、ティーダは身をもって知った。
けれど弱音を漏らすことは許されなかった。ティーダ自身、言うつもりもなかった。
だって、それを一言でも口にしたら。
明確な言葉にしてしまったら、もう、その場から一歩たりとも動けなくなってしまっただろうから。
「……忘れたかったのか」
ジェクトの声に、ティーダはすぐに答えなかった。
膝をついたまま答えを待つジェクトを、ティーダはやはり見ることはできなかった。
「……ずっと……アンタが、嫌いだった」
そう思って生きてきた。
「でも……本当は……」
いつでも心の中に居続ける存在。
からかわれるのが悔しくて、だいっきらいで、いつも心を揺り動かす存在。
いなくなってからも忘れられなくて、ずっと心を占め続けた存在。
旅の中で、そこにある憎しみ以外のものに気付いてしまった時、ティーダはそれを自覚した。
「好き……なんだ……」
声が掠れる。
会えば、気持ちが抑えられないと分かっていた。
殺したくなかったという後悔も、父親を好きなのだという禁忌も、隠し続けることなんてできる自信なんてなかった。
弱い自分は、見せたくない。
最後まで、強くありたい。
『ジェクトの息子』でよかったと、誇りに思った自分のまま。
偉大な父を越えた、ジェクトにとって自慢の息子のまま。
この想いに気付かれないまま、ジェクトと共に消えるのなら、それでよかった。
けれど気付いてしまった。おぼろげな意識の中で、祈り子達の力を。物語の、『続き』があるのだと。
罪悪感に苛まれる息子を知れば、その運命に導いたジェクトは自身を責めるだろう。肉親としての情以上に想っているのだと知れば、ジェクトはきっと嫌悪するだろう。
どちらも嫌だった。
ジェクトを苦しめるのも、ジェクトに拒絶されるのも、怖かった。
「こんな想い……なければって……思った……」
これは、ただの我侭だ。
自分が傷つくのが怖くて、ジェクトを苦しめるのが怖くて、逃げ出した。
「記憶が……あんたの思い出が、なくなったら……忘れるって、思ったんだ……っ」
実の父親を殺したことも、愛してしまったことも、そのきっかけも、過程も何もかも。
「忘れたら……戻れる、て……ッ……『普通の親子』にッ……、なって、やり直せるって……思った、んだ……っ」
止まることのない涙は、ずっとずっと我慢し続けたものなのだろう。
その告白は、真綿で締めるように優しく、苦しい愛おしさをジェクトに与える。
「ティーダ」
呼ばれても答えず、浅ましく愚かな自分を見られたくないかのように、もっと身を小さくしてしまう息子に、ジェクトは強引に手を伸ばした。
両脇に手を差し込むとそのまま立ち上がり、ティーダの体をしっかりと抱えて腕を上げる。
「あっ……」
それは、小さな子どもによくする、所謂『高い高い』だった。
子どもにするそれをティーダは恥ずかしいと思ったが、ジェクトの表情に何も言えなくなる。
優しく、眩しそうに細められたそれは、大切な宝物を見るような目だった。
「……でかくなったなぁ」
「っ」
その、たった一言で、馬鹿みたいに涙が溢れて止まらなくなる。
郷愁と、後悔と、喜びと。
たくさんの想いがこもった言葉に、何も言えなくなる。
何か言おうと口を開けば、それは全て嗚咽に変わってしまう。
だからティーダは、ただ口を引き結んで涙を流すしかできなかった。
昔からそうだった。
ジェクトの言葉に言い返したいのに、それはうまく言葉にならなくて、悔しくて、結局言葉の代わりに涙を流すことでしか、感情を表現できなかったあの頃。
ジェクトの目尻に落ちてきたティーダの涙は、まるでジェクト自身が泣いているかのように見せた。
ゆっくりとティーダの体を下ろすと、ジェクトはその体を思い切り抱きしめる。
どうしてあの頃、こうしてやれなかったのだろうと思いながら。
「お前は、全部を救ったんだぞ」
語りかけながら、背中を撫でた。その体は、ずっと震えたままだったから。
「スピラも、召喚士も、祈り子も、エボン=ジュも救った」
もっと早く、こうしていればよかった。
そうすれば、お互いこんなに苦しむことはなかったかもしれない。
「――オレを、救ってくれた」
この手が、と。指を絡めて握りしめる。そこから伝わる震えは、ジェクトの胸を疼かせる。
「なぁ、ティーダ」
その肩に、顔を埋める。
「あの時、お前が来てくれて、オレがどんだけ嬉しかったか……他の誰でもない、お前に殺されて、オレがどんだけ幸せだったか」
肩に落ちた熱で、ティーダは初めて、父が泣いていることを知った。
「なぁ、わかるか、ティーダ」
そうさせているのが自分なのだと思い至って、心が震える。
「オレを殺してくれて」
あの時、言えなかった言葉。
ずっと、伝えたかった言葉。
「オレを、救ってくれて、ありがとう」
ジェクトの言葉が、沁みこんで来る。
「ティーダ」
ジェクトが何度も名前を呼ぶ。抱きしめながら、何度も繰り返す。
ありがとう。大好きだ。愛してる。
親殺しの咎を負わせた謝罪よりも、もっと、ずっと伝えたかった言葉。
もっと早くに言ってやればよかった。例え記憶がなくて、それがどういう意味なのか分からなかったとしても。
「……お……やじ……っ」
小さな声は、それだけでジェクトの胸を打つ。
「なあ、ちゃんと戻ってこいよ……お前がいなきゃ、オレがここに留まる意味なんか、もうねぇんだ」
そろそろと持ち上がった腕は、やがてジェクトの背に回された。その手は一瞬ためらったが、触れてしまえば、縋るようにきつく抱きしめ返された。
「オヤ、ジ……っ」
壊れた涙腺はずっと涙を流し続ける。
後悔も何もかも、その涙と一緒に流れてしまえばいいと、ジェクトは抱きしめる腕に力を込めた。
もう、許していいんだと。
「……っ……ご、め……な、さい……っ」
殺して、ごめんなさい。殺すことしかできなくて、ごめんなさい。
痛かっただろう。苦しかっただろう。
途切れ途切れに何度もそう言うティーダに、愛しさが募る。
――誰も責めなかった罪。
例えジェクト自身に望まれたのだとしても、それで世界が救われたのだとしても、親殺しというその罪を、父親を愛してしまったことを一番許せなかったのはティーダ自身だった。
自分の罪が許せなくて、ジェクトを苦しめるのも嫌われるのも嫌で、でも離れたくない――。
我侭な自分の想いを選べなくて。
「オレはちゃんと言ったぞ。だからお前もちゃんと言え。お前がどうしたいか、オレとどうなりたいか、全部」
お前、欲張りなんだろ?
そう言って笑うジェクトの言葉で、抱擁で、ゆっくりと閉じ込めた気持ちが溶けていく。
子どものように泣きじゃくるティーダに、ジェクトはただ言葉を重ね、抱きしめ続けた。
溜め続けた涙の海が、空っぽになってしまうまで。