消滅

 月の光を受け、それは碧に輝いた。
 マテリアのような外見のそれは、二人分の記憶が詰まっている。知識エネルギーで出来ているという点においては、マテリアと同義ではあるのだが。
「…………」

 ――記憶を奪ったことを、悔いてなどいない。ああしなければ、彼はいずれジェノバ細胞に意識を食われていたかもしれないのだ。
 それは、本意ではなかった。あの男ならまだしも、彼を意思のない人形にするなど。

「…………」
 気付くのが、もっと早ければよかったのかもしれない。
 彼にジェノバ因子が入り込んでいることに初めて気付いたのが、二度目に口付けた時。
 その時にはもう、自分に関する記憶にジェノバ因子が深く根付いていた。
 無意識に、彼と話したいと想う毎に、ジェノバがそれに反応して侵食が進んでいたのだ。もう少し遅ければ彼自身の記憶にまで及んだだろう。因子を取り除くには、記憶ごと奪うしかなかった。
 もっと早くに気付いていれば、失うのはほんの一部だったかもしれないのに。

 ――そこまで考えて、自分が、失うことを嫌っていることに、愕然としたのだ。
 初めから何も持っていなかった。僅かに得た友も消え、失うものなど何もないのだから、何も恐れるものなどないとそう思っていたのに。

「……私は、弱くなってしまった、のかもな」
 しかし、だからこそこの記憶を捨てるべきだと、そう考えた。

 所詮は堕ちた英雄、モンスター。
 ほんの少しの間、彼と過ごして、人間であった頃に戻れたような気持ちになれたからといって、それは変わらない。
 だから、必要ない。モンスターに、優しい記憶など。

 丸い形をしたそれを手の中で弄ぶ。これがある限りは、封じた記憶は思い出すことができる。
 仮にこれが彼の手に渡れば、彼も全てを思い出すだろう。急激に大量の記憶を思い出すことで、精神崩壊するかもしれない。
 自分の記憶が彼に入り込んだ時、それが起こらなかったのは幸いだった。

「……」
 消さなければいけない。確かにこれは、自分に多くのものをもたらしてくれた。だからこそ、
「…………」
 海の色か、はたまた星の色か、美しい碧のそれを月にかざしてみた。

 しかしそれは、月をうつすことなく、

「――――、」

 手からこぼれ、ゆっくりと落下するそれに手を伸ばそうとして、体が上手く動かないことに気付いて
「、っ」

 胸から突き出たそれは、確か魔女の

「ぐッ、」

 痛みはない。血も出ていない。なのに、指先も満足に動かせない。
 それでも動こうと力をこめれば、何本もの魔力でできた矢が雨のように降り注ぎ、体を地面に縫い付けられる。
 ピンで留められた虫の標本のように、手を、足を穿たれ、身動きができない。攻撃ではない、呪縛のために特化した魔女のそれに、自分の魔力では抗えない。

 受け止められることなく地に落ちたそれが、重力に逆らうように浮かび上がる。同時に、目の前に悪趣味な金の靴が見え、無理矢理に顔を上げた。

「皇帝……」
「あまり手間をかけさせるな。英雄、なんだこれは?」
 ふわりと浮いた球体を面白くなさそうに手に取る皇帝に、ざわりと体が反応した。
「いつまでも貴様がぐずぐずしているから、私自ら赴いてやったのだ。光栄に思うがいい」

 ―――な

「ほう、どうした? 貴様の役目はあの男を倒すことであって、子供と遊ぶことではないはずだが?」

 ――、るな

 バチ、と体を拘束する矢が音を立てる。

「優しさなど、まやかしです。貴方が大事に持っていたそれは、貴方を蝕む毒……」

「貴様には、必要ないだろう?」

 あざ笑う魔女と皇帝に、体の奥底から燃え上がる熱を感じた。

「……ッ、それに、触るな!! が、ッ……」

 半ば強引に解いた呪縛の矢は、すぐにまた体に降り注いだ。
 それを見て鼻で笑った皇帝は、それを再び浮かび上がらせると魔力を集め始める。

「どうせ消すつもりだったのだろう? 貴様がいつまで経ってもやらないから、私が手伝ってやろうというのだ」

「そう、必要ない。優しさにすがるのは弱い人間です。貴方は違うでしょう?」

 より強力になった呪縛は、声すらも奪った。ひゅ、と乾いた音だけがやけに大きく響いて。

「所詮、貴様は」

本当は、消したく、ない

「や、」

 皇帝の手に集まった魔力がそれへと注がれて、キシ、と内から圧迫されるような音がした。

――――――

「いいのですか?」
「放っておけ。アレと意識が繋がっていたようでな。破壊したショックで気を失っただけだ」
 ふぅ、とため息をつくと魔女は呪縛の矢を消した。一瞬とは言え、あれを外された時には焦ったのだ。
「寝返るなどということはなかっただろうが……イレギュラーな事態になる前に、可能性は摘み取らねばな」

 二つの人影が消え去った後、男は目覚めた。
 記憶が少々飛んでいることは自覚した。体に異常はなく、立ち上がって頭を整理する。
 この世界のこと、自分の目的、あの男のこと――。

「…………、」
 他にも、何かあった、だろうか。

 ――否、ない。身の内に燻るのは、憎しみと怒りだけだ。他に何もない。

 足元で崩れ行く欠片には気付かず、男は自分の宿敵の元へと歩き出した。

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