―それはきっと、水辺に棲む妖だったのだろう―
ちょっと失敗した。
そう、ちょっとしたことなのだ。
なのに何故か、顔が熱くなって、視界が歪みそうになることがある。
気付かれないように笑顔になってみたり騒いでみたり、それでも苦しい時があって。
だから、時折一人でキャンプを抜け出す。聖域の近くならと、一応許してもらっている。
今日もまた真夜中に一人、離れた泉まで来ていた。広さも深さもあり、お気に入りの場所だった。
(ねむくない……)
こぽ、と水面へと向かっていく泡を眺めながらゆったりと水の中を漂う。
ちょっとした、なんて気休めで、本当はすごく気にしている。父親のことだとか、記憶のことだとか、色々だ。
水をひとかきすれば、すいと体が進む。水に包まれている間はとても心地よくて、いっそここで寝てしまおうかだなんて思うこともあるのだけれど。
(そろそろ戻んなきゃ……)
少しだけ苦しくなってきた事もあり、いつまでもここにいられないことを惜しく思いながら水面を目指す。
力強く水面を蹴る。ぐいぐいとスピードを上げて、月と星の光があふれる水面を突き破った。
水に濡れた体が外気に触れて少しだけ肌寒い。
水面からゆうに数メートルは飛び上がって、弧を描くように体を反らせて頭から水面へと落ちていく。新鮮な空気をいっぱい取り込んで。
ふと、目を開ける。
(あ……)
人が、いた。
腰よりも長い銀の髪と黒衣。
目が、合った。
星と似た色をした、不思議な翠の瞳が、少しだけ驚いたように見開かれていた。
ざぶん。
それは一瞬のことで、再び水の中へと戻った。――が。
(え……ど、どうしよう)
彼はカオスの戦士。クラウドの敵。しかも滅法強いと聞いている。
何故こんな所に、こんな時間に、しかも秩序の聖域近くは安全なはずなのに……考えがぐるぐるとまとまらない。
一先ずいくらか潜ってみてからくるりと向きを変え、水面を見上げた。
人影が僅かに見える。ゆらゆらと揺れて定かではないが、確実にあの男だ。
(水面に出た途端攻撃……とか……)
あのやたらと長い刀を思い出し、ぶるりと身震いする。おそらく水中までは追ってこないだろうが、いつまでもここに潜っているということもできない。
ふと、水面を叩く音がした。
再び視線を上げると、水面から指が突き出ていた。黒い手袋をつけたまま、まるで手招きでもするかのようにぱちゃぱちゃと水面を揺らしている。
訳がわからないながらも、敵意を感じられなくて、念のため少し離れてから水面を目指した。
恐る恐る、という表現ままに顔の上半分だけ水面から出してみた。
やはり男はそこにいて、服が汚れるのも構わずに膝をついていた。
「おい」
話しかけられて思わずびくっと体が震える。それに気付いたのか男は小さく息を吐いた。それが少しだけ、少しだけ傷ついたように見えた気がして、思わず返事をしていた。
「な、何すか……?」
「……もう一度」
「え?」
「もう一度、さっきの」
「え……あ」
先ほどのジャンプのことを言っているのだろうかと気付くが、しかし何でまた、とも思う。
「……ジャンプしてる間に攻撃、とか……」
「せん。殺す気があればとっくにやっている」
それもそうだ。こちらは慣れてきたとはいえ戦いの素人。あのクラウドでさえ苦戦するという男に敵うわけがない。
伺うように男を見てみるが、こちらを見つめ返すだけで何もしてこない。
「…………」
仲間がいたら確実に説教コースだろう。だが、不思議と恐怖は和らいでいた。月と星の光が乱反射するこの泉に、幻想的な雰囲気に、飲まれていたのかもしれない。
すいすいと泳いで男へ近づく。あと少しで手が届くという所までくる。相変わらずムカつくほどに整った顔立ちが、きょとんと子供のような表情をしていてちょっと可愛い、だなんて。
「えと、さ……なんで……?」
別に聞く必要なんてなかった。ただ言われたとおりにジャンプを見せれば、すぐ帰ったかもしれないのに、何故聞いてしまったのだろう。
「…………」
相手も聞かれるとは思っていなかったのか、ぱちりと瞬きしてから、自分自身もよくわかっていないような戸惑いを滲ませて答えた。
「……綺麗、だったから」
ぴちゃぴちゃと濡れた髪から雫が水面へおちる。
伸ばされた指先が、濡れて張り付いた前髪を軽くはらった。
「…………そ、か」
それだけ答えて水中に潜った。なんだか熱くて、水の冷たさが心地いい。
まだ眠くはないけれど、なんだか落ち込んでいたことが頭の中から消えていて。それは彼のおかげかもしれないから、とびきりのジャンプを見せてあげようと思った。
深く深く潜って上を見ると、彼が待っている。
水面目指して、思い切り水を蹴った。
――――――
それはきっと、水辺に棲む妖だったのだろう。
いつも日の下にいる太陽の少年。明るく笑い、騒ぎ、周囲を照らす存在。それと同一人物だとは思えないほどに。
滑り落ちる雫は涙のようで、しっとりと濡れた髪と肌に漂う艶と、あどけない表情は酷くアンバランスだった。
だからきっと、それは妖だったのだ。
でなければこんなにも、心惑わされるわけがないのだから。