32.希望が示す先は

 今でも、その温かさを覚えている。
 最初はその戦い慣れた風体と鋭い目付きから、アラミゴ難民を追い払うために雇われた冒険者なのだと思った。
「あのー、すみません」
「お前、冒険者か?」
 隊長のメッフリッドに声をかけたその人は、第一印象とは裏腹な、穏やかな声をしていた。

「わ……酷い熱……大丈夫ですか……?」
 その大きな手は薄汚れた仲間の背を、躊躇うことなく擦ってくれた。
「アンテロープの大角……そういえば父さん達もよく扱ってたなぁ。でも多分、ギラバニアとは種類が違うから……そうだ、バスカロンさんにちょっと聞いてきます!」
 返せるものなど何もない自分達のために、森の中を奔走してくれた。
「無事でよかった……怪我はないですか?」
 手負いの仲間を助けるために敵前に飛びこんでいく背中の、なんと頼もしかったことか。
「バスカロンさんに貰った分と……全員分にはならないと思うけど、傷薬も」
「おいおい、冒険者が手持ちの薬を全部渡すもんじゃないぞ」
「私はすぐに買いに行けますから。困ってる時は助け合えって父さん達もよく言って……、あっそうだった!」
 リトルアラミゴの者達と話をするため、アラミゴ人の協力が必要だった。申し訳なさそうにそれを伝えてきた彼女に、今更悪感情を抱く者などいなかった。その善意が本物だということは、彼女自身の行動で示されていたのだから。
「道士様、傷が癒えるまでは大丈夫でしょう? 私達冒険者も、時々森では野宿させてもらってますし」
「うぅん、まぁそうですねぇ……森を傷つけるようなことをすれば、保証はできませんが」
 リトルアラミゴに向かう前、森の道士に口利きまでしたその人は、最後まで自分達のことを気にしていた。
「紹介状、本当にありがとうございます。困った時は是非バスカロンさんのところに。元気になってくださいね」
 そう言って、風のように駆けて行ったその背中を、助けられた全員が見送っていた。

 後にリトルアラミゴへ合流した時、彼女が若者達の暴走を止め、命を救ってくれたことを。
 やがて帝国との戦いに打ち勝ち、英雄と呼ばれた者が、彼女だということを。
 千年続いた戦争までをも終わらせたのが、あの背中だったということを。
 それを知って、どうして希望を持たずにいられよう。
 あの日救われた恩を、分け与えられた優しさを、眩いほどの後ろ姿を、アラミゴの民は決して忘れない。
 その光は、紛うことなき希望の灯火だったのだ。


「ああ、君も着替えが済んだようだね。私の方も、なかなかだろう? どこからどう見ても、警戒しようがないアラミゴ難民だ!」
「……うぅーん」
 鉄仮面の影武者と話をするため、アラミゴ難民に見えるような服をパパリモに用意してもらった。それを着て集合場所に来てみれば、アルフィノは服を着ただけの変装に妙に自信ありげである。こういった格好をするのは人生で初めてなのだろうと思いつつ、ハルドメルは苦笑した。
「アルフィノは育ちがいいから、隠しきれないオーラが……」
「むむ……君の目で不十分ならもう少し手を加えたほうが……?」
「そうだなぁ……ちょっとごめんね」
「うわっ」
 ハルドメルの手が徐にアルフィノの頭に触れ、わしゃわしゃと柔らかな髪を撫で混ぜる。
 いつも綺麗に身だしなみを整えるアルフィノの髪がくしゃくしゃになり、結んだ部分もほつれてしまった。さらにハルドメルはしゃがみこみ、アルフィノの顔を両手で挟んだ。あまりにも間近にある海色の瞳に、さすがにアルフィノもたじろぐ。
「わ、ハルっ」
「ごめんね、後で綺麗にするから……」
 右手で足元の土を触り、アルフィノの頬や額に撫で付ける。ハルドメルとしても汚してしまうのは申し訳なかったが、ほんの少し、髪も同じように土を付けた。
「……うん、これでもっとそれっぽくなったかな? ほら、私も。どう?」
「あ、あぁ……ありがとう……なるほど、変装とは奥が深いものなんだね……」
 自分の顔や髪にも同じように土を付けて見せれば、どこか戸惑いつつもアルフィノは頷いた。影武者とは言え警戒が強いという鉄仮面のこと、完全に騙すのは無理かもしれないが、少なくとも遠目に見れば難民に見えるこの格好ならば、近づくことはできるだろう。そう思いつつハルドメルは立ち上がり、改めてアルフィノを見る。普段の彼からは想像もつかない――言ってしまえばみすぼらしい恰好だ。
「……アルフィノがこういうことしてくれるようになるなんて思わなかったよ。クルザスに行った頃は……」
「っ……む、昔のことは反省しているよ……だからその……うぅ……あまり掘り起こさないでほしい……」
「……ふふ、わかった」
 寒さに震え、地道な聞き込みを忌避していたあの頃のアルフィノはもういない。そんな変化を間近で感じられることが、ハルドメルは単純に嬉しかった。以前の自分の行いを思い出したのか、肩を落とすアルフィノが微笑ましくて。
「本当は……すごーく気になってるんだけど我慢してるんだよ。クルルさんが言ってたこととか、アリゼーが言ってたこととか」
「……いつか」
「うん?」
「……人に、話されるのは嫌だから……いつか……自分の中で消化して、昔のことだと笑えるようになったら、話すよ。だからそれまでは……頑張って我慢してくれるかい?」
「わかった。待ってる」
 長い耳が、微かに赤い。アルフィノが見上げない限り表情は見えないけれど、ハルドメルは笑ってくしゃくしゃにした髪を撫でた。


 その姿を、見間違えるはずもない。男は驚きに満ちた表情が仮面で隠されていることに安堵しながら、難民風の恰好をした二人に近付いた。
 努めて冷静に振る舞いながらも、心の内は溢れんばかりの喜びに満ちている。自分は鉄仮面卿の影武者なのだと言い聞かせなければ、今にも飛び出し、感謝の気持ちを伝えたい程に。

 クリスタルを集め、蛮神召喚を目論んでいるのではないかという暁の者の言葉には、鉄仮面卿と関わる男の助言通り、アマルジャを雇うためだと真実を伝えた。綺麗事を言う女は不愉快だったが、かの英雄は革命を為したいこちらの覚悟を感じ取ってくれたのだろうか。その目は険しくとも、あの日と同じ、人を思いやる色をしていた。
 暁の血盟は、蛮神対策の担い手でもある。恩人である彼女の手を煩わせるのは心苦しいが、これも革命には必要なことなのだと鉄仮面卿は言った。故国奪還のためならば、全てを失う覚悟でもって戦い抜くと男は誓ったのだ。

「……もしや、あなたが『暁』の英雄殿か?」
 別れ際、男はどうしても堪えきれずに彼女に言葉を投げかけた。僅かに戸惑いながらも頷いてくれた彼女に、男は仮面の下で表情を綻ばせる。
「かつてあなたに救われ、聖戦に身を投じた者も少なくない。かく言う私も、クォーリーミルであなたの薬に救われたアラミゴ人の一人……あなたは、きっと覚えていないだろうが」
 そう、彼女にとっては過ぎ去る景色の一つに過ぎない。多くの地を渡り歩き、多くの人に、同じように手を差し伸べてきたはずだ。そのうちの一つ一つを覚えているはずもない。
 名前もきっと知らないだろう。それでも彼女に救われた多くのアラミゴ人に代わり、改めて感謝の言葉を伝えられる機会を得られたことは、男にとって幸福で光栄なことだった。
 喜びに打ち震える男を前に、彼女は悲しげな表情をする。当然だ。せっかく救った命が、過酷な戦いに身を投じようとしているのだから。それでも男は構わなかった。その優しさがあればこそ、今自分達はここにいる。寧ろこうして故国のために戦う機会を彼女が与えてくれたと、天命であるとさえ感じられた。
「挫けた者を導いた、あなたはまさしく英雄だ。どうか、私達の戦いを見守ってほしい」
 憧れの英雄に、自分の言葉を伝えられた。それだけで十分だった。悔いなく戦いに臨むことができる。そして今この時のことを、同じように助けられた者達へ伝えよう。そう思ってキャンプへ帰ろうとした男を、彼女は声をかけて呼び止めた。あの日と同じ、優しくて穏やかな声だった。
「覚えてます、クォーリーミルのこと。あの時の人達は皆、元気になれましたか……?」
「……っ……えぇ……えぇ……あなたのお陰で、誰一人欠けることなく……!」
「……そっか」
 よかった、と。
 その者達が戦火に身を投じることに複雑な想いを滲ませながらも、彼女は微笑んだ。
 嗚呼。男は堪えきれず、仮面の下で一粒の涙を落とす。やはりこの人は、希望なのだと。
「私は余所者だから……皆の戦いに口を挟むべきじゃないけど……どうか気を付けて」
「我らの悲願は故国の奪還。その過程で命を落とすことはあっても、ただ無謀に戦うつもりではない。皆、生きて故郷の土を踏みたいのは同じだからな」
「……はい。皆さんの無事を、祈っています」
 蛮族にクリスタルを渡した、暁の敵である男の手を、彼女はあの日と同じように躊躇いなく握った。その手は、変わらず温かい。


 イダとパパリモが鉄仮面の影武者と共にキャンプへ向かっていく。その後ろ姿を見送り、アルフィノは隣に立つ人へ視線を向けた。
「…………」
 悲しいとも、苦しいとも取れる表情は、アルフィノの知らない彼女の過去の旅を思わせるのに十分だ。
「……ハル」
「……あ、ごめん。顔綺麗にしなきゃね」
 ハルドメルは持っていたハンカチを取り出して、アルフィノの顔や頭につけた土を優しく拭う。そうではなくて、とアルフィノはその手にそっと自分の手を重ねた。
「……ごめん、クリスタルを横流しする人達と親しくしたら、だめだよね」
「……ハル、そうではないよ。私は君の旅の全てを見てきたわけではない。だが共に行動するようになって、君が多くの信頼を得、多くのことを成し遂げてきた理由を知った。――その先で、今のように止めるべき敵の立場になった人がいたとしても、私は君を尊敬しているし、否定しない。君はいつだって、自分ができる最善を為してきたから」
「……うん」
「……ただ、君が心配なんだ」
 英雄という肩書き。それを得られるだけの実力と行動。向けられる期待。羨望。
 小さな善意だったはずが、いつしか眩い程の光となり、その人達の歩む道筋に影響を与えてしまった。優しいこの人は、きっと気にしてしまうだろうから。アルフィノはその手を、少し強く握る。
「前にね、オルシュファンと話したことがあるんだ。暗闇でも、吹雪の中でも……一目で方向がわかる、標みたいになれたらいいねって」
 けれどその標が、間違った方向にあったら? その先に道なんてなくて、ただぽっかりと口を開けた大穴があるだけだったら? 唇を引き結んだハルドメルの表情から、ありありとその想いが伝わってくる。
「……標があったとしても、道を選ぶのはその人自身だよ。それに、方向を指し示すだけじゃない……その灯りは希望を抱かせるものでもあるんだ」
「っ……でもウィルレッドは…… !!」
 僅かに声を荒らげたハルドメルは、はっとしてすぐ黙り込んだ。その名を聞いてアルフィノは思い出す。かつてクリスタルブレイブに所属したアラミゴの若者のことを。
『国の境なく、人と人が助け合う……その理想がどうなるか、見届けたいんだ』
 ハルドメルに声をかけられて来たというその青年は、アラミゴ占領後にウルダハで生まれたという、故郷を知らぬアラミゴ人だった。まだ見ぬ故郷に思いを馳せ、自分達の置かれた状況に憤り、アシエンに唆された自分達を彼女が止めてくれたのだと語っていた。
 アルフィノにとって、彼は熱意ある隊員の一人にすぎなかった。そして結果的に、クリスタルブレイブとウルダハの陰謀に巻き込まれた、犠牲者だ。
 彼女が声をかけたことで志願してきた者は他にもいる。そうでなくとも、彼女の名を聞いてやってきた者もだ。それらの中には、裏切った者も、犠牲になった者もいただろう。だがその一つ一つを。彼女がどんな経緯で彼らと出会い、どんな対話をなしてきたのかを、アルフィノは知らない。
 ウ・ザル・ティアと話をした時感じていた彼の憤り。クリスタルブレイブの瓦解のことだけではない何かがあることをアルフィノは理解していた。きっとこのことだったのだと合点が行く。あの日からずっと、ハルドメルは思い悩んでいる。自分のせいで人の道を捻じ曲げてしまっているのではないかと。
「……すまない、ハル」
「違う……違うのアルフィノ……アルフィノを責めたいわけじゃない……ごめんなさい」
 彼女は、殆ど無理矢理笑顔を作った。苦笑いとも言えない、頼りない笑顔だった。
「……駄目だね、まだ……しっかりしなきゃって思うのに……全部、助けられるわけじゃないって、わかってるのに……」
 アルフィノは、祈るようにその大きな手を額につけた。手に届く範囲ならばどうにかしたいと、いつも誰かを想うその心が守られるようにと。
「クリスタルブレイブのことは、私の責任だ。……そんなことはないなんて、言わないでおくれよ? だが君が自分に責があると、誰かを誤った道へ導いたと思ってしまうのなら……私達も一緒に背負っているのだと、忘れないでほしい。これから起こることだってそうだ。君だけじゃない、暁の血盟そのものが、『希望の灯火』たらんと活動しているのだから」
 その唇が何かを言いかけて、それは音にならず吐息となって消えた。手を握り、俯くアルフィノからその表情は伺い知れない。しばらくして返って来た言葉は、僅かに安堵の混じる、穏やかな声だった。
「……ありがと」
「……さあ、行こうハル。彼らのクリスタルが蛮神召喚に用いられる前に、止めよう」
「うん、行こう!」

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