東の空が少しずつ明るくなりながらも、まだ薄闇が残る早朝。ラノシアの片隅で木人を叩く音が密やかに響いていた。
「ッは……」
その人物の身長は二ヤルムを優に超える。引き締まった肉体は、日々の鍛錬を欠かしていないのを証明していた。
黒い肌から汗が滑り落ちていく。最後に一突き、真っ直ぐ胴に向けて剣を突き出す。訓練用の木剣は木人の胴を貫くことはなく、痺れるような衝撃が返ってくるだけだ。
ほう、と一つ大きな息をつく。あの日から彼女は――ハルドメル・バルドバルウィンは欠かすことなく剣の稽古をした。その甲斐あって、大抵の場所は一人で出歩いても平気になっていた。
自分の身は自分で守る、その目標は果たされている。歳は、二十三になっていた。
親の商売はルートが必ずしも決まっているわけではなく、頻繁に訪れる場所というのはない。グリダニアやウルダハなどの大都市よりも、その周辺の辺境にある小さな集落へ行くことの方が多く、貴重なものが採れるのだと人が踏み入らない山岳地帯へ行くこともあった。
そういうものは専門の採掘師や園芸師に依頼すればいいのでは? と聞いたこともあるが、このほうが楽しいだろう! と返された。その返答でなんだか納得してしまったのは、自身が彼らの血を引いているからなのだろうか、と少し不思議に思ったものだ。
商品を積み込んで旅をする以上、時には物騒な目に遭うこともある。子供の時分は積み荷の中に隠れていなさい、と言われるだけだった。商売の才だけではなく、武術も長けた両親は、上手く対処していたのだろうと思う。
強い二人だからきっと大丈夫だと信じていても、外から聞こえる剣戟の音や怒号、悲鳴は酷く恐ろしく、幼かった彼女はいつも耳を塞いで耐え忍んだ。
しかし世界の情勢が芳しくないと野盗の数も比例するように増える。ハルドメル自身、いつまでも隠れてはいられないのだと立ち上がった。何のために剣の稽古をしてもらっているのか、と。十五の時のことだった。
その年の頃には既に、ルガディン族などの高身長になる種族以外、殆どの男性を追い越す身長になっていた。両親は止めはしなかったし、いずれ必要になることであるともよくわかっていた。
「よく見ておきなさい」
野盗が出た時は自分も戦うのだと主張してから、初めてやってきたその機会。
積み荷とチョコボを守るように言われた彼女は、前に出て武器を振るう勇敢な両親の姿を初めて見た。
そして、両親が人を殺める姿を、初めて見た。
「――ッ」
悲鳴を、上げるのはなんとか耐えた。
死体を見るのは何も初めてではない。旅の途中に骸となって山中に転がっているものを見たこともあれば、魔物に殺され教会に運び込まれる遺体も見た。けれど、生きた人間が、病死などではなく、武器で命を奪われるのは――。
たった二人を相手に死者を出し、なおも力で押される野盗達は不利と見たのか、指導者らしい男の号令で撤退して行った。
「ハル、大丈夫?」
血を纏った剣先を拭いながら、母はいつものように娘に語りかけた。結局何をできるわけでもなかったハルドメルは、僅かに震える息を吐いて頷く。父は、手慣れた様子で遺体を運び、埋めるための穴を掘り始めていた。
「怖かったでしょう。私達も怖かったよ。いつもだ。私達が失敗したら、ハルがどんな目に遭わされるか……」
その言葉にまた身体が震えた。そんなの当たり前の事なのに、いつまでも隠れていたくない、両親の手助けをしたい一心で、何も見えていなかったのかもしれない。
負けたら、そこで終わりだ。殺される――否、殺されるだけならまだ幸せなのかもしれない。あるいは殺された後ですら尊厳が陵辱されることもある世界で、自分はなんて、愚かで、甘いのだろう。
母がそっと抱きしめてくれる。温かくて、安心する。
「無理に戦う必要はまだない。旅を続けるならいつかはやらなきゃいけないけど……でもねぇハル、私達はそろそろ街で暮らせるようにしてもいいんじゃないかって思っててね」
思わず顔を上げる。
「最近は帝国の動きも不穏だし、蛮神召喚なんてやってる奴らもいる。ハルもわかってるでしょう? 最近こういう野盗が増えたって」
わかっている。でも、それは――。
「私も、この人も腕っぷしには自信があるけど、最近の野盗は多さも、様子も何だかおかしい。今までは平気だったけど、これからもそうとは限らない」
街にいるからといって絶対に安全というわけではない。だがそれでも、旅をするよりは余程堅実に生きられることは確かだ。
けれどハルドメルは知っている。両親がこの行商の旅を好きなことを。自分もまたこの旅が好きなことも。
その土地に伝わる偉人の話や、遺跡の話を聞くのが好きだ。その土地にしかない風習を知るのが好きだ。そこでしか味わえない料理を食べるのが好きだ。出会った冒険者達に聞く、驚きに満ちた話が好きだ。
たとえ友達ができなくても、ハルドメルは旅をするのが、好きだったのだ。
危険な目に遭うかもしれない。死ぬことだってあるかもしれない。それでも旅を辞めたいとは、思えなかった。
もしかしたら異常、なのかもしれない。危険とわかっていてなお飛び込むのは、普通の人は選ばないかもしれない。それでも、彼女の答えは決まっていた。彼女は旅が、好きだから。
第七霊災直後は、各地が本当に酷い有様だった。
父と母はしばらくの間、行商ではなく各地に物資を運ぶ奉仕活動を行っていた。それでも訪れた先では、物資が間に合わずに集落ごと飢えで全滅しているところもあった。
十八になっていたハルドメルも両親と共に奔走し、物資を運び、時には遺体を運び、墓を作った。
そして、霊災の混乱が少しずつ、少しずつ収まってきた頃、また野盗が急増し始めたのだ。
あれから実戦を重ねた彼女は、野盗相手でも怯まなくなった。襲ってくる以上相手を殺さなければ、自分達が殺される危険がある。それも十分理解はして、だが彼女は未だ、人を殺せたことがなかった。
「――、こ、のっ」
その日の野盗は執念深かった。一度は引いたはずなのに、深夜になってまた襲いかかってきたのだ。
剣を防ぎ、相手の身体を蹴り飛ばす。ミッドランダーの男性とはいえ二ヤルム超えの長身から繰り出される蹴りはひとたまりもなく、後ろに大きく吹き飛んだ。
「――女だ、女がいるぞ」
聞こえてきた言葉にげんなりする。それは半ば決まり文句のように出てくる言葉だった。
女だから、なんだというのだ。下卑た笑いは気持ち悪くて、首の後ろがぞわぞわとした。
ちら、と両親の方を見る。流石に少し疲れが見えて、早く終わらせなければと思った矢先。
「く、ぅあ!」
同時に二人の野盗に狙われ、攻撃をいなしきれずお返しとばかりに蹴りを喰らった。
「ハル !!」
敵を斬り伏せた父が叫んだ。しかしまた別の者が襲いかかり、身動きが取れない。倒れ込んだハルドメルを、野盗の男は笑いながら見下ろす。
気づいているのだ、彼女がまだ人を殺めたことがないことを。
(――やらなきゃ)
負ければ死だ。あるいは、奴隷として売り飛ばされるのか、慰み者として弄ばれるのか。
(いやだ)
どれも真っ平ごめんだ。
――この期に及んで彼女はまだ、『できることなら殺したくはない』という考えを持ち続けている。だが、それでも。
(やらなきゃ、やられる)
両親はその背中でずっと教えてきてくれていた。生きたいのなら。この先もずっと旅を続けるなら、これは必要なことなのだと。
自分を守るために、躊躇ってはいけないのだと。
口を引き結ぶ。落としてしまった剣ではなく、隠し持った短刀に手をかける。
――一瞬。一瞬だ。殺せはしないと油断した男。近づいてくる、その一瞬。
「――?」
横一線に振り抜かれた短刀が、男の喉を撫でた。
何が起こったかまだわかっていないその男の横で、出血量にもう一人の男が怯んだ。
「――ああぁッ!」
一息で体勢を立て直し、怯んだ男の胸に、真っ直ぐ突き立てる。
保存食を作るために肉の切り方を習った時の感触が、頭の片隅で思い出された。
二十三になった今でも、彼女は『できることなら殺したくはない』という思いは捨てきれずにいた。
もちろん、身の危険があれば躊躇いはしない。それでもそう思ってしまうのは、彼女の甘さであり、愚かさであり、優しすぎる欠点だった。両親はその考えを否定しなかった。それはとても、ありがたいことだった。
鍛錬を終えて身を清めた彼女はしかし、そわそわした様子で仮宿の自室に戻る。そして昨日見つけた、商品の中に紛れていたゴミ同然の紙切れを開いた。
地図だ。ここから少し離れたところにあるオシュオン神殿の遺跡、その湖の近くを記したもの。小さなバツ印が書かれた地図。
両親は新しい商品の買い付けのために出かけている。ハルドメルにとっては休日だ。そんなタイミングで見つけては――嗚呼、我慢できるはずもない。
書き置きを残して、ハルドメルは家を飛び出した。
――その土地に伝わる偉人の話や、遺跡の話を聞くのが好きだ。その土地にしかない風習を知るのが好きだ。そこでしか味わえない料理を食べるのが好きだ。出会った冒険者達に聞く、驚きに満ちた話が好きだ。
宝の地図、なんて、惹かれないわけがなかった。
地図の場所へ向かう途中、急に眩暈のような、頭痛のような感覚に襲われる。脳裏に見たことのない光景が過ぎる。オシュオン神殿が見える森の中で、女性が男二人に囲まれる光景。
「っ……?」
白昼夢のようなものなのだろうか。宝の地図に浮かれて、ありもしない事件を思い描き、その人を助ける自分に酔うような……否、それにしてはその光景は、酷く現実味を帯びていて。
「……」
胸騒ぎがする。宝の地図に浮き足立っていた心は鳴りを潜め、ハルドメルは脳裏に描かれた光景を思い出しながら走った。
それは果たして偶然だったのか。
眩暈と共に見た光景、それと同じ場所。その近くを注意深く探って、見つけた。茂みの奥で二人の男が女性を組み伏せているのを。
躊躇いなんてなかった。走り寄り、馬乗りになる男を全身の力を込めて蹴り飛ばす。
一人はヒューラン、もう一人は大柄なルガディン。酒にでも酔っているのか、薬でも使っているのか、どこか定まらない視線で男達は怒り、喚き散らした。
(躊躇うな)
躊躇ってはいけない。自分一人ならまだしも、後ろには被害者がいるのだから。
他人を守りたいなら余計に、躊躇ってはいけない。
だからきっと両親は、あんなにも強かったのだ。
どうにか二人を昏倒させ、ハルドメルは一先ず安堵の息を吐く。当たり前だが手加減はできなかった。あの怪我では当分起き上がれないだろう。
――女性は見たところ擦り傷だけだったが、心はそうもいかないだろう。酷く怯えて、自分の身を掻き抱いている彼女にそっと近づく。
「あの……」
「ヒッ……!」
その目には恐怖しかなかった。それは、そうだ。彼女にとってはあの男達も、彼らを倒した自分も等しく、恐ろしいものだっただろう。
「……ごめんなさい、でもここは危ないから……」
怖がられるのに慣れていて良かった、なんて思う日が来るとは自分でも驚きだった。身を強張らせる彼女には申し訳ないと思ったが、少々強引に茂みから街道側まで連れ出す。
それ以上怖がらせるのも酷なので、その場に座らせたまま全力で走った。すぐそばにある湯治場には人も多く、リムサ・ロミンサの軍人も常駐している。簡単な事情と――可能なら女性隊員にも来て欲しいと伝えると、彼らはすぐさま現場へ向かってくれた。それを見届けてから、ハルドメルはそっとその場を離れた。
(大丈夫、平気)
どくんどくんと大きく脈打つ心臓を宥めるように。あるいは自分自身に言い聞かせるように、心の中で呟く。怖くなかったと言えば嘘になる。相手は二人、こちらは一人を守りながら。うまくいったから良かったものの、毎度こうはならないぞと自身を戒めた。
ふぅ、と息を吐いて気を取り直す。彼女はどうしても、宝の地図を諦められない。
バツ印が書かれている場所に辿り着く。果たしてこれは何かが埋まっているということなのか、なにか、秘密の洞窟でもあるのか。思いを巡らせながら辺りを確認する。と――。
「わっ……と」
何かに躓きかけた。振り返ると、地面からほんの少し飛び出た何か。よく見ればそれは石ではなく、不思議な金属で出来た箱のようだった。
鼓動が速まる。周りの土を取り除き、それは姿を現した。
小さな箱。彼女の大きな手の中でちょこんと鎮座するそれは鍵などなく、実にあっさりと蓋が開く。
「……」
入っていたのは、コインが三枚。
銀色をした、コインが三枚入っていた。
「……ふ、ふふ」
思わず声を上げて笑う。
否、もちろん予想していた。そんなに都合よくお宝などあるわけがない。子供の遊びかもしれないし、誰かのイタズラの地図かもしれない。そんなことはわかっていた。
「あはははっ」
それでも彼女は笑ってしまう。そして思う。これが――嗚呼、これが。
彼らの話はいつも驚きや発見に満ちていた。遺跡のトラップに引っかかり、強すぎる敵に追い回され、碌に稼げないような仕事も時には引き受けて。
両親との旅も大好きだった。でも、と思う。思ってしまった。
一歩間違えれば死んでしまうだろう。人助けをしても、感謝どころか石を投げられることも、時には命を狙われることだってあるのだろう。楽しいばかりじゃない。――でも。
「……困ったなあ」
実際には全く困ったような顔ではなかったが、彼女は独りごちる。
その蓋を開く時の高揚を。誰も見たことのない景色を見る驚きを。謎を解き明かす喜びを。
知ってしまったらもう――それはもう!
「ハル! 遅かったじゃないか、心配したぞ」
「うん、ごめんなさい」
家に帰る頃には辺りは暗くなっていた。もっと早くに帰るつもりだったから、書き置きを見た両親も流石に気を揉んだようだ。
温かい、夕飯の匂い。優しい家族。そんな恵まれた人生を変えてしまうなんて、あまりに愚かなのかもしれないけれど。
「父さん、母さん。私ね」
でももう、この好奇心を抑えられそうになかった。
「私、冒険者になる」
彼女は、旅が好きだから。