20.幕間:香りが呼び起こすもの

「オルシュファン、ただいま参りました」
「入りなさい」
「失礼します」

 フォルタン伯爵――父の私室に入るのはいつぶりだろうかと、ふと考えた。オルシュファンがここへ来るのはいつも決まって大事な時だ。この家の、フォルタン家の従騎士に任命された日。親友を助けたことで正式に騎士に叙された時。キャンプ・ドラゴンヘッドを任されることになった時。そして今は、大切な友の道を切り拓くために。
「……お前」
「は、何でありましょう?」
 中へ入ると、オルシュファンの姿を認めたフォルタン伯爵は酷く驚いた表情をした。
「その香りは……」
「むっ、何か臭いますか…… !?」
 慌てて身だしなみを確認したオルシュファンだったが、ふとここに来る直前のことを思い出す。集中力を高めてくれる効果もある、と彼女が言っていたから、あのローズマリーの紅茶を淹れてもらったのだ。
「もしやローズマリーの香りのことですか? 申し訳ありません、ここに来る前少し紅茶、を……」
 言いかけて、止まる。これを初めて飲んだ時、自分は何を思い出した? オルシュファンは伯爵――否、父を見た。遠い過去に想いを馳せるような、懐かしく、どこか寂しさを滲ませたような表情。
 エドモン・ド・フォルタンは騎士としての剣の腕もさることながら、ハーブティーや紅茶の知識についても一目置かれる存在だった。扱いが難しいとされるニメーヤリリーの根を使った茶を淹れることすら彼にとっては容易い。客人に自らブレンドしたハーブティーを振る舞うことも珍しくなかった。
 そんな彼が側にいながら、オルシュファンはローズマリーの香りをすっかり忘れていた。それが、どういうことなのか。
(思い出したく、なかったのですか)
 オルシュファンには母の記憶がそう多くあるわけではない。それは、過ごした年月もそうであっただろうし、義母――伯爵夫人からの監視の息苦しい記憶に塗りつぶされたところもあるだろう。
 それでも、忘れたい、思い出したくないと思ったことはなかった。
「……大事な友に、紅茶を淹れてもらったのです。ローズマリーの香りはお嫌いでしたか」
「……いいや。良い……懐かしい香りだ」
 その表情は、オルシュファンが思ったよりも柔らかかった。だからその言葉はきっと、本当なのだろう。
 伯爵が騎士へ向き直る。話があるのだろう、と問いかけるように。
 彼女に溢したように、父のことは苦手だった。お互い素直な言葉で語り合ったことは、きっと一度もなかったように思う。それでもオルシュファンは、真っ直ぐその目を見返した。
 今日の話は、自分のことではない。大切な友のことだ。
 ――オルシュファンへの侮蔑に憤りを見せるくせに、余所者だ、しがない金目当ての冒険者だと自身を蔑ろにされることは気にしない。ウルダハの事にしたって、無実の罪を着せられた事を怒るより、残された仲間達、今傍にいる二人、匿ってくれているキャンプ・ドラゴンヘッドやアートボルグ砦群の者達に危害が及ばないかと、他人の心配ばかりして。自身の望みはと言えば――『旅がしたい』『友達が欲しい』『嫌われたくない』――そんなささやかなものばかり。
 強く、優しいひとだ。肩を並べて戦えば、心が湧き立つ程にその力強さを感じるし、英雄と呼ばれるには些か優しすぎることが時には心配にもなる。――それでも、前に進んで行ける人だと信じさせてくれる。
 希望だ、と、そう思った。眩く、温かなその灯火。
 大切な親友を、オルシュファン自身を救ってくれたその人のために、力になりたいと心から、強く、強く想う。
 キャンプ・ドラゴンヘッドに匿い続けることは然程難しくはない。だがこんなところで彼女を、反逆者の汚名を着せられたまま燻らせておくことなどどうしてできようか。
 自由さえあれば、きっとどんなことでも成し遂げる。如何なる困難にも立ち向かえる強さを持っている。時には傷付き、迷い悩むことがあっても、決して道を違えることはない。そのことを、世界で一番信じている自負が、オルシュファンにはある。

「……我が主、エドモン・ド・フォルタン伯爵。どうか、我が友ハルドメル・バルドバルウィン……彼女とその友の、後見人になっていただきたい」

 だから今この時は、全て本当の、心からの言葉を言える。そう、確信していた。


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