闘技場に剣戟の音が響く。
授業外でも主武器の鍛錬に励む者。多芸を極めんと他の武器を手に取る者。騎士科ではないが、護身のために武器の扱いを覚えたい者等々。
イシュガルド学園の武術系部活動は様々な目的を持つ生徒達を受け入れる。武器種によって雰囲気の違いはあるが、どの部も他学園との親善試合や大会で常にトップクラスの成績を叩き出す強豪だ。
「はぁっ!」
「くっ……なんと美しい太刀筋……! だが負けはせんっ!」
「ううっ、シュファンの守りが堅すぎる……!」
家政科でありながら剣術部の門戸を叩いたハルドメルもまた、親友であるオルシュファンやフランセルと共に日々腕を磨いていた。
「二人とも休憩を入れない? 流石に息が上がってきてるよ」
訓練に一区切りついたフランセルが、夢中で剣を打ち合う親友達に苦笑しながら声をかける。二人はお互いに顔を見遣り、玉のような汗が一筋流れ落ちるのを合図に剣を収めた。
「はぁっ……あはは……ごめん、楽しくってつい……ふぅ……」
「あぁ、全くだ……! あっという間に時間が過ぎ去ってしまうぞ……! 誰か時魔法を使っているのではあるまいな?!」
オルシュファンの冗談にからからと笑いながら、ハルドメル達は闘技場の隅に移動する。フランセルが渡してくれたボトルを受け取り、礼を言ってから水を一口。冷たさが身体に染み渡るようで、ハルドメルは大きく一息吐いた。
「ふー……もうこんな時間なんだね」
「休憩したはいいが残り時間は少ないな……まだまだ動き足りないが……!」
「ううん……でもオルシュファン、最近自主練も増やしているよね。友誼祭に張り切るのもわかるけど、ちゃんと休息時間もとらないと」
「そうなの!?」
部活動の時間での訓練や、自由時間での手合わせをしているからこそハルドメルは目を丸くして驚いた。騎士科であるオルシュファンは授業でも身体を動かすことが多いのだ。その上でまだ自主練習時間を増やしているというのであれば、フランセルの心配そうな表情にも同意せざるを得ない。
「ハルも驚くだろう? キミからも言ってあげて」
「フランセルの言うとおりだよ! 休む時間がないと怪我もしやすくなっちゃうし……!」
当然だと言わんばかりにハルドメルは親友の運動量にもの申す。
「むぅ……しかし、どうにも最近動き足りないというか落ち着かないというか……身体を動かすとすっきりするのでつい、な。あぁいやしかし、騎士科の規則で決められているラインは超えないようにしているつもりだ!」
「超えないからっていっぱいいっぱいやったらもっとダメだよっ! 自主練禁止……とまでは言わないから、……シュファンが怪我したり具合悪くしたら嫌だよ」
そうなってしまった時を想像したのか、尻すぼみになっていく声。いつもの快活さは鳴りを潜め、しょぼんと肩を落とす様にオルシュファンの胸がざわめく。焦り、と言ってもいいかもしれない。
「す、すまないハル! 私も頭では分かっているのだ……うん、私もお前達と手合わせできなくなるのはもちろん嫌だからな……己の肉体を過信しすぎないようにしよう」
「うん……約束だよ、私とフランセルと!」
三人で拳をぶつけ合うと、ハルドメルはほっとしたように表情を綻ばせた。
話が落ち着いたところで、ハルドメルは再びボトルに口を付ける。が、傾ける角度の問題か、勢い余って水が零れ胸元を濡らした。
「ひゃッ……!」
「わ、大丈夫? タオルは……」
「あ、ありがとうフランセル、冷たくてびっくりしちゃっただけ! タオルもある!」
慌てて濡れた部分を拭うハルドメルだが、訓練用の軽装備の内側にまで染みこんでしまい、冷たくじっとりとした感触に顔をしかめる。
「……汗もかいたし、先に着替えてきたらどうだ? 残り時間は入念なストレッチとしよう!」
「んー……そうだね、普通の運動着に替えてくる。ごめんね」
「何を謝る! 身体が冷える前に早く行くとイイ!」
ハルドメルがくすりと微笑み、改めて礼を言うと、更衣室へ走って行く。その後ろ姿を見送った後、オルシュファンはフランセルからの視線を感じてそちらに向き直った。じ、と見つめる真っ直ぐな眼は、昔から少しも変わらない。
「……ハルが心配だね」
苦笑する親友に頷いて、オルシュファンは周囲に視線を戻す。小さなハプニングに気付いた何人かの男子生徒が好奇の目を向けていたことは、二人とも気付いていた。当の本人は自分もそういった目で見られるのだという自覚があまりないらしく、度々無防備な姿を見せそうになることがあった。今もまた着替えるよう言わなければ、軽装備を外して水気を取ろうとしたかもしれない。
ハルドメルはまだ一年生ではあるが、ルガディン族故に既に三年生と遜色ない身長をしている。発育がとても良い――有り体に言ってしまえば胸が大きい。そんな彼女が装備を外し、胸元が濡れたインナー姿を晒せばどうなるか。ハルドメルが更衣室に向かった後も、だらしない笑みでひそひそと言葉を交わす一部の生徒をオルシュファンは睨むように見た。
「……ねえ、オルシュファン」
「ん……?」
柔らかな、しかしどこか困ったような笑みを浮かべ、フランセルはオルシュファンに問いかける。
「キミは……何か、悩んでいるよね」
「……」
「自主練を増やしたのも、それが原因なんじゃないかな?」
付き合いが長い、親友であるが故に。オルシュファンはその言葉を否定することは無意味だと分かっていた。――分かっているが、口ごもってしまう。まだそれを、明確に、はっきりと、言い切ることが躊躇われた。
「……心配をかけてすまない。ありがとう、友よ。だがこれは……この悩みは、私の問題だ。だからまだしばらくは……」
「うん、わかった」
最後まで言わずとも、問題と向き合っていることを理解したフランセルはあっさり引き下がる。オルシュファンは、親友のそういうところをいつもありがたく、そして好ましく思っていた。
「ごめん! お待たせ!」
小走りで戻ってきたハルドメルに気がつき、二人は微笑んで立ち上がった。
* * *
オルシュファン・グレイストーンは悩んでいる。
「ハッ……! セイッ!」
親友達に咎められた以上あまり無茶もできないと時間を決めて鍛錬を行っているものの、気付けば大幅に予定時間を超えていることも多く、頭を抱える日々だ。
「こほん……オルシュファン・グレイストーン、鍛錬熱心なのはいいが、最近木人の占有時間が長いと苦情が来ている。日も落ちてきたから早く寮に戻りなさい」
「はっ……申し訳ありません先生! すぐ戻ります!」
「……」
通り過ぎざまにぼそりと呟かれたのは、オルシュファンの生まれと身分に対する嫌味だ。だが幼い頃から同じようなことを言われ続け、すっかりと受け流すことに慣れてしまった彼は、聞こえないかのように無反応でその場を後にするし、聞こえた内容もすぐ意識の外に押しやる。
(……ハルが聞いていたら、怒るのだろうな)
優しい友のことを思い出し、自然と口元が綻ぶ。
――きっかけは、フランセルが貴族の生徒に嫌がらせ……もとい暴行を受けていたのを、彼女が助けてくれたこと。話に聞くだけだった彼女と出会えたのは、編入初日。
理不尽に人が見下されるのを我が事のように怒り、誰かを助けようと動ける強さと優しさ。友達がいなかったと。友達になってほしいと、おずおずと差し出された手。
刃を交える度に感じる強さと、彼女もまた己との手合わせを楽しんでくれているのだという実感。
目付きが鋭く怖がられやすいのだと苦笑する彼女は、名前を呼べば花が開くように優しく微笑む。
「……はっ……いかんいかん……」
思考を中断するように、オルシュファンは首を横に振った。
気付けばハルドメルのことを考えている。これが最近の一つの悩みだった。否、『それだけ』ならまだよかったのだが――。
それは数日前のこと。
「……」
オルシュファンにとってそれは生理現象の一つでしかなかった。身体の反応を鎮めるため、ただ無心で手を上下させるだけの行為。
その時も、いつも通りのはずだった。
「……っ」
無心のはずの脳裏にチラつくのは、見慣れた黒い肌。思考の端で微かに聞こえるのは、少しハスキーな声。
「……ダメだっ……」
動揺、戸惑い、罪悪感。半端に持て余した熱が自然と落ち着くまで、オルシュファンはそれらの感情に煩悶し続けることになったのだ。
思春期というのは欲が強くなりがちだということは、オルシュファンも頭では理解している。だがその矛先を、あろうことか親友に一瞬でも向けてしまった自分にショックを受けていた。
いつも身近にいる異性であるがゆえに無意識に考えてしまったのだと自身に言い聞かせもしたし、落ち着かない気分の時は無我夢中で身体を動かすことで発散させた。それが原因で親友達には休息を取れとたしなめられてしまったのだが。
* * *
翌日、部活は休息日だった。フランセルは友誼祭の委員会に。ハルドメルはハルアとの約束があると嬉しそうに向かって行った。
騎士科の体力自慢達が手伝えることはもう殆ど終わっており、オルシュファンと同じように時間のできた者が木人で自主練習をしている姿も多い。
空いている木人を見つけられず、どこか悶々としたものを抱えたまま校内を歩いていたが、とある場所にも木人があることを思い出し、オルシュファンの足は自然とそちらへ向いた。
「帰れ」
「無慈悲な!?」
グリノー・ド・ゼーメルが他者を寄せ付けない庭園。そこからさらに進んだ奥にも木人が置いてある。通常であればここも他生徒が使っているはずだが、彼が人払いをし続けた結果、すっかり忘れ去られている場所だ。
が、いくらグリノーが人払いをしてもあくまでも公共のものである……という理屈で、グリノーがいないことを確認してからオルシュファンは木人相手に剣を振っていた。そこへやってきたグリノーはオルシュファンを見るや顔をしかめて「帰れ」の一言である。
「すまない、最近木人を占有しすぎだと注意を受けてしまってな……卿のいない時に使わせてもらえると助かるのだが! もちろん卿やハルア嬢がいる時はすぐ去るようにしよう!」
「チッ……ちょっと話したくらいで馴れ馴れしいぞフォルタンの。大体なんだよさっきのなまくらぶりは……、……」
ふと言葉を止め、グリノーは訝しげな表情でオルシュファンを見やる。その視線に何事かとオルシュファンが疑問符を浮かべていると、グリノーはすたすたと歩いて目の前に立った。
それはグリノーの直感だった。模擬戦でも見たことのある太刀筋のキレが明らかにない。『剣は心を映し出す』なんて言葉を信じているわけではないが、オルシュファンの剣はありありと『迷い』があるように感じられたのだ。そして、その『迷い』を紛らわせるように剣を振っていると。
だから――癪ではあるが、こう思ったのだ。自分と近しい想いを抱いているのではないか、と。
「……お前、あいつが好きなのか?」
その問いに、オルシュファンは即答できなかった。
「……あいつとは、」
「編入生だよ編入生! ハルアに懸想してるとか抜かしたら今ここでたたっ切るぞ!」
「いや、そんなことするわけないだろう。彼女にはグリノー卿が……」
「あぁ!? あいつに魅力がねぇってのか!?」
「存外めんどくさいな卿は!」
妙に冷静に返したのが気に入らなかったのか妙な方向に怒るグリノーを宥め、オルシュファンは改めて言葉を選ぶ。
「ハルは……、私の大切な……親友だ」
今は、まだ。
この衝動が、煩悶が、一時的なものなのか。
つい数ヶ月前まで中等部だったような年齢の彼女を大切に想うのは、例えば妹を庇護する兄のような気持ちではないのか。
そんな大切な親友だからこそ、こんなにも罪悪感が大きいのではないか。
オルシュファン・グレイストーンは、まだこの気持ちに、答えを出せずにいる。
何より彼女自身が、オルシュファンを親友として心から大切に想ってくれている。その純粋な気持ちを、穢すようなことがあってはならないのだと。
「……帰れ。お前に貸す木人はねぇよ」
「……あ、あぁ、すまない。邪魔をしたな!」
立ち去るオルシュファンの背から視線を外し、グリノーは苛立ちをぶつけるように木人に斧を振り始めるのだった。
