4.むくいる

 その日は朝から憂鬱だった。夜には件の女性と顔を合わせなければならないから。だが当然時は止まってはくれないし、夜会が延期になることもない。
 いつものチェーンメイルとは違う小奇麗な、さも貴族らしい服に身を包む。義母が拒否するために公の場には出ずこういった服を着る機会などなかったが、実際に袖を通してみれば、不思議と背筋が伸びるような、身が引き締まるような心地だった。
「うおっ、すげえ、いいじゃんオルシュファン!」
「かっこいいですオルシュファン様、はい!」
「む……あまりそう言われると面映ゆいものだな」
 洒落者のエマネランに、純粋なオノロワ。そんな二人の素直な感想にはさすがに少し照れる。とは言え目的は浮かれるような内容ではなく、相変わらず気が重い。
「オレ様も後から行くけど、面倒だからって壁でぼーっとしてんなよ? じっとしてたらあっという間に女に囲まれるぞ!」
「そういうものか?」
「適度に動いてテキトーに躱してけ! どうせ断るんだろ? それにお前にはあいつが……」
「あ、エマネラン様、そろそろラニエット様の飛空艇が戻るころです、はい」
「おっといけねぇ! オレ様の大事な薔薇をエスコートしに行かねぇと!」
 慌ただしく出ていくエマネランをオノロワが追っていく。オノロワのサポートもあり、エマネランもキャンプ・ドラゴンヘッドでよくやっているようだった。一人では頼りないが、人に囲まれると力を発揮するやつだと、オルシュファンは思っている。久しぶりにかつての部下達の顔も見たいが――今はこの夜会を穏便に終わらせなければと、オルシュファンはもう一度鏡を見た。

「ねぇ……あの方」
「まぁ……」
 注目されるのは、慣れないものだ。殆どは良い意味ではなかったから。
「フォルタン家の……? 確かによく似ておいでね」
「今回の外征騎士団で団長を務められたとか……」
 ――が、今回はどうも、どちらかというと良い意味でも注目を集めているようだった。服装のお陰か、と心の中で独り言ちながらも、様々な貴族が挨拶を交わす中に見知った姿を見つけた。向こうもまた気が付いて近づいてくる。
「来てたんだね、オルシュファン」
「お前もいるとは思わなかった」
「まぁ、復興の総監も任されてるし、人付き合いはね」
 オルシュファンは普段こういった場に来ないためゼーメル伯爵からエドモン卿を通して誘われた。貴族の社交場には縁がなかったが故に、こうした所で親友と会うのはとても不思議な気持ちだった。――昨日の今日で、気まずくはあるけれど。
「例の?」
「あぁ……」
「断っても御父上は許してくれるだろうに」
「……居候の身でこれ以上迷惑をかけるわけにはいかん」
 フランセルは肩を竦めた。昔から真面目で実直な人だ。そんな彼だからずっと一緒にいる。
「……先日はすまなかったな。話を聞いてくれて……咎めてくれて感謝している」
「キミが僕を信頼して話してくれたことはわかるから、いいんだ……でもやったことは許せないよ」
「それでこそ我が友だ」
 もう一度、フランセルは肩を竦める。彼がハルドメルを想う気持ちも、誰よりも理解しているつもりだ。もしもの話など無意味ではあるが、近くに自分がいたのなら彼の行為を止めることも、相談に乗ることもできたのにと思わずにはいられない。
 そしてオルシュファンもだが――フランセルにとっても親友である、ハルドメルのことも心配だった。彼女はきっと驚いたのだろうが、反射的にオルシュファンの胸を打ってしまったという。きっと酷く動揺しただろう。大切な、自分の命を救ってくれた友の傷を打ってしまったなんて、優しい彼女が心を痛めないはずはない。
(……それに)
 フランセルの知る彼女は、真っ直ぐで眩しくて、大好きな人たちに純粋な好意と愛情を向けられる人だ。恋人がいたような話も気配もないけれど、落ち着いて考えればオルシュファンのしようとしたことがなんだったのかを――そこにある感情が全くわからないというほど愚鈍な人ではない。とは言え経験のないそれを、無自覚な想いを、戸惑いと共に抱えているのではないだろうか。近くに相談できる人でもいればいいのだがと、遠い地にいる友を想う。
「これから」
 どうするのか。そう訊ねようとしたフランセルの肩を誰かが軽く叩く。復興事業で協力してくれている人だった。
「……お前も忙しい身だろう。行ってこい。私も自分の役割を果たす」
「……うん。あ、そうだオルシュファン」
 一歩、オルシュファンに近付いて、フランセルは耳打ちする。
「……夜会では、口にするものは必ず、給仕の人から」
「……」
「念には念を、ね」
 夜会は初めてである友に忠告をすると、フランセルは人の輪の中へ入っていった。

「騎士団長を務められたんですって」
「またギラバニアへ行かれてしまうのですか?」
「一曲踊ってくださらない?」

 エマネランの忠告通り、少し気を緩めるとご婦人たちに囲まれる。それらをなんとか躱しつつ、目的の女性を探した。こういうのは男から行くのが礼儀だというのは、これまたエマネランに言われたことである。ドレスとヒールで相手を探し回るのは苦労するであろうことは容易に想像できるため、言われなくてもそうするつもりではあったのだが。
「……オルシュファン卿?」
 鈴を転がすような声。透けるような金の髪。エメラルドのような翠の瞳。――美しいと形容するのが相応しい女性が、オルシュファンを呼び止めた。
「遠目に見た時より、ずっと素敵ね」
「……私をご存じですか」
「あら、ここでは知らない人の方が少ないんじゃないかしら」
 皮肉なのか、冗談のつもりで言っているのか。ふふ、と微笑むその人からは少なくとも悪意は感じなかった。事前に聞いていた容姿と合致するその人の名を呼べば、嬉しそうに頷いた。
「お話しできて嬉しいわ。一曲踊ってくださる?」
「夜会は初めてなので、付け焼刃ですが」
「ふふ、足を踏まなければ、それでいいわ」

 楽団が奏でる音と共に、ドレスの裾がふわりと舞う。多くの人が踊る中で、その二人は視線を集めていた。
「あらまぁ、お似合いの二人ね」
「フォルタン家は皆眉目秀麗よ。あの方も庶子なのがもったいないくらいだわ」
「美人だがゼーメルの縁者とは言えあそこは没落気味の家だろ?」
「だからお似合いってことだろ、ははは」
 ひそひそと囁かれる声は、中には純粋な賞賛もあったのかもしれないが、殆どは嫌味や皮肉ばかりだ。最も、オルシュファンはそんなもの慣れ切っていたし――どうやら相手方もそのようだった。
「苦労されているのね、オルシュファン卿」
「……貴女も」
 曲に合わせてくるりと回る。白く傷一つない肌。華奢で細い身体。比べるものではないと分かっていても、脳裏には彼女の姿が浮かぶ。この場にもしいたのなら、あれらの言葉に彼女は怒ってくれたのだろうか。――きっと、怒ったのだろう。
「……女性は他所事を考える人に敏感なものよ?」
「……これは失礼を、レディ」
 む、とした表情は実際の年齢よりも少し幼く、可愛らしく見えた。

「近いうちに、またお会いしたいわ」
「光栄ですが……騎士団を預かる身、数日後には発ちます」
「では、戻って来られた時にでも。お返事はいいわ、その時になったら書状を送るから」
 彼女は微笑むとドレスをつまみ上げ、淑女らしくお辞儀した。

 もっとはっきりと断るべきだったのにどこかぼんやりとしたまま、オルシュファンは密かに広間を離れ、人気のない廊下に出てきた。少しだけ窓を開けると、冷たすぎる夜風が心地いい。
「……、……」
 何かの会話が不意に耳に届いた。屋敷をぐるりと一周できるように作られている廊下。少し歩いた先、曲がり角の向こう。そこにある客間から聞こえてくるようだった。貴族同士の会話などオルシュファンにとっては興味がない。だが彼女の名前が聞こえた時、足は自然とそちらへ向いていた。

「フォルタン家からまだ返事はないんですか?」
「今は東方にいるらしいからな、彼らも連絡は取れないらしい。全くあれを娶れだなんて父上も無茶を言う」
「だが間違いなく使えるだろう、なんたって英雄サマだ」
 灯りを落とした薄暗い部屋の中で、どこかの貴族の男たちが話している。
「ルガディンでもせめて白肌ならな……シェーダーみたいな肌しやがって」
「まぁまぁ。胸は一級品だったじゃないですか」
「なぁ、うちの者に調べさせてるんだが……どうやら英雄サマは『まだ』みたいだぜ」
「はぁ? 二十三だろ? どんな名家のお嬢さんだよ」
 ははは、と品のない笑い声。意識は、驚くほどに静かだ。
「まぁ処女のほうが都合がいいか、英雄の『初めて』の男なんて箔が付くぜ」
「ファルコンネストの式典があっただろ? あの暴動の時は反対派に薬飲まされて昏倒してたって話だ。英雄サマもやっぱ人間なんだな」
「英雄だろうが所詮女だ。抱いてしまえばこっちの……うわ!? だ、誰だ!」
 暗い部屋の入口。そこに誰かが立っていることに気付いた男は、ぎょっとして立ち上がる。そこにいるのが銀髪の、フォルタン家の庶子だと気付くと、馬鹿にしたように鼻で笑った。
「盗み聞きか。さすが妾腹はまともな教育が受けられなかったと見える」
 灯りがないせいで表情の見えないその男は、言葉を発することなくふらりと室内へ足を踏み入れる。その得体のしれない不気味さに、貴族たちは思わず後ずさった。
「――私がなぜ騎士爵を賜ったかご存じですか」
「……は?」
 戸惑う貴族を他所に、一歩、また一歩と近づく。
「友を救ったからです。彼を捕らえたならず者を」
 やがて目の前に立った銀髪の男は、抑揚のない声で淡々と語った。
「めった刺しにした。全く、動かなくなるまで」
「っ……」
「一人、残らず」
「ぅ、ぅ……」
 恐怖からか、意味のない呻きを上げる貴族の男は、さらに一歩後ずさろうとして、何かに躓き後ろへ倒れた。
「彼女に指一本でも触れてみろ」
 ガッ、と倒れた男の顔を踏みつけるかのように、そのすぐ横に足を落として。
「……貴様らも同じようにしてやる」
 何かを言おうと口を開閉させる姿は少し滑稽だ。すっかり先ほどの威勢をなくした貴族に満足したのか興味を失ったのか、銀髪の男は現れた時と同じようにゆっくりとした動作で身を引いた。
「……っ……そ、んなことをしたら、ただでは……」
「私は正式な貴族ではない。爵位に執着も未練もない」
 だからこれは口先だけの脅しではないと、暗に言う。そこで、その場にいる全員の言葉は失われた。
 オルシュファンは静かにその部屋を出て行った。

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