6.うちあける

 暁の賢人たちの意識が戻らぬまま、謎の声に導かれて渡った第一世界。
 そこで出会った人々のことも、出来事も、長い長い話になる。
 アラミゴ解放や東方での旅のこともまだ全く話せていないのに、伝えたいことは降り積もるばかり。

 けれど、それらより先に、伝えなければいけないことがある。
 ずっと答えられなかった答えを、返すために。
「……シュファン」
 ――原初世界では、あれからまだ一週間も経っていなかったけれど。
「私は、あなたが好き」

―――――

「ここにいたのか」
 完全に夜を取り戻した世界。
 喜びに沸き、宴を開く人々の輪から外れて、彼女は一人空を見上げていた。
「主役がこんなとこでぼーっとしてていいのか?」
「……」
 彼女は水晶公――グ・ラハ・ティアに苦笑を返すと、再び視線を空に戻した。
「……なんだか、不思議だなって」
「……何がだ?」
「グ・ラハが来た……第八霊災があった未来の話」
 その世界で『英雄』は、異変にいち早く気付き人々を救わんとしたが――多くの犠牲者の一人となった。らしい。
「ガーロンド社の皆とか……旅で出会った人とか……そういう人たちなら、まだわかるんだ。でも二百年……そんなずっと先の人たちまで、顔も知らない『英雄』のために、ここまで……」
 何かを堪えるように言葉が止まる。彼女は――ハルドメルはその長い苦難の道を思って平然としていられるような人でないことは、グ・ラハも良く知っていた。そして彼女が感じる不思議さの意味も。だからグ・ラハは笑って言う。
「皆が憧れたのは、夜空に光る星々みたいな……どんな困難にも立ち向かい、乗り越えてきたあんたの冒険譚だ……顔も知らないって言うけど、見た目の話なら、あの世界であんたを助けたいと協力した人は皆、一目見たら分かると思うぞ」
 目を丸くした彼女はでも、と首を傾げた。
「……今だって、『隻眼の女戦士』とか、『屈強な大男』とかって話もあるのに?」
 彼女の疑問も最もだ。人の話というのは大げさに誇張されていったり、尾ひれがついたりと全く違う形になることもある。それが二百年。正しく伝わっていると言われても信じられないほうが普通だ。
「――一人の騎士がいたんだ。オレはガーロンド社にあった文献でしか知らないんだけど……あれの筆者は確か……オノロワ・バンラルドワだっけ」

 その騎士は、一人の女性の死に、世界で最も嘆き、世界で最も後悔した人だろうと記されていた。そして、技術者ではない人間でありながら、この計画に最も尽力し、貢献した一人だとも。
「貴重な資材の調達、計画の要である技術者たちの護衛――激動の日々の中で、彼は自分が知る英雄の冒険譚を、多くの人に語り聞かせた」
 それはかのフォルタン伯爵が残した回顧録『蒼天のイシュガルド』と同じ筋道の、だが彼が直接見たことや、英雄本人から聞いた話が織り交ぜられた話。そして彼はいつも彼女のことを、こう説明したという。
「闇に溶けるような黒い肌。夜明けの空と同じ髪。海を切り取ったような小さな瞳。それから……笑顔がイイ、世界で一番素敵な女性だったと」
 すっかり俯いてしまった彼女とは逆に、グ・ラハは夜空を見上げた。かの騎士の話はただの英雄譚ではなく――一人の冒険者としての彼女の姿も鮮やかに語られていた。だからあの世界では、『英雄』の好物がアップルタルトだなんて話も、当たり前のように知られている。
「……オレも会ってみたいな」
 つい零れた願望。二百年の先にも伝わっている、彼女と共に活躍した人たち。彼の名は歴史にこそ残っていなかったけれど、英雄の、彼女の命を救った親友として、人々の記憶に刻まれている。
「……絶対、会わせて、あげるね」
 まだ賢人たちを原初世界に返す手段もわからないのに、彼女は微かに声を震わせてそう言った。

―――――

 その言葉を聴いたオルシュファンは目を見開いた。あの日から何日経ったか。顔を会わせるにしても当分先のことになるだろうと踏んでいたが、目の前にいるハルドメルはあの日の、途方に暮れた子供のような眼ではなかった。
「……あなたのことが好き。やっと、わかった」
 オルシュファンは、ハルドメルが第一世界に渡っていたことをまだ知らない。異世界での旅を終えたその足で、自分に会いに来たなどとは想像もしていない。
 だから、まだ微かに震えるその声が――
「……それは、友として、だろう」
 友を失いたくない故の想いではないかと、思ってしまう。
「っ……ち、ちがうよ……私、本当に……」
 その答えが返ってくるであろうことを、ハルドメルも予想はしていた。だが実際にそう言われてしまうと、思わず怖気づきそうになる。
 オルシュファンの言う通り、多くの友や仲間の想いを受けて、今ここに立っていた。そのことを実感した。それでも、長年染みついた自信のなさがすぐに払拭できるかというと、まだ少し難しくて。
「……本当だよ」
 伝わってほしいと、祈るように呟いても、オルシュファンは僅かに険しい表情のまま。
(……シュファンも、ずっと……こんな気持ちだったのかな)
 想っているのに、伝わらない。そのもどかしさが息苦しい。あの時、彼の気持ちを理解できなかったことへの、これは報いだ。
「……シュファ、」
「オルシュファン様!」
 フォルタン邸の方向から、一人の女性が足早にやってくる。その人はオルシュファンの腕に手を絡め、身体を寄せた。
「すぐ戻ると仰っていたのに、遅いから来てしまったわ」
「っ、これは、申し訳ない……」
「……こちらの方は?」
 ハルドメルの体格の良さと鋭い目付きを見て、僅かに警戒したような表情で女性がそう訊ねると、二人ともつい言葉に詰まった。
 ただの知人では足りない。
 ――友人だと、そう言えば、ハルドメルの言葉はもう、なかったことになる。
 それ以上だと言うには、――
「その風体……あぁ! もしかしてこの方が英雄様ですか? すみません、私一度もお目にかかったことがなくて……フォルタン家とは懇意にしていらっしゃるのでしたね?」
 女性が声をあげて、納得したように微笑む。
「……えぇ……彼女がかの、竜の背に乗って凱旋した英雄です」
 そう、と女性は呟いて、ハルドメルの上から下までさっと視線を走らせて。
「初めまして英雄様、どうぞお見知りおきを」
 微笑んで、スカートをつまんでお辞儀してから、彼女は手を差し出した。ハルドメルも戸惑いながらその手を握り返す。
「……」
 その傷ついた、剣だこで硬くなった手に触れて、女性はまた微笑んだ。
 ――オルシュファンは、それがなんなのかを、嫌という程知っている。
 何らかの点において、『相手が自分より格下である』と判断した、安堵の表情だ。彼女のそれは、きっと無意識であろうことも。
(……きれいな、ひと)
 誰の眼から見てもそう評されるであろう人が、オルシュファンの隣で仲睦まじく寄り添っている。絵画のようでもあり、物語の一節に出てくる恋人同士のようでもあった。
(……あぁ……また)
 彼女がきっと『見合い』の相手であろうことはすぐにわかった。そして心の奥深くから噴き出す『嫌な気持ち』を感じて、ぎゅう、と服の裾を掴む。
「積もる話があるなら中へ入りましょう? 外は冷えるわ」
「あ……いえ、私は……今日は、帰ります。忙しい時にごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げて、ハルドメルは戸惑いながらも微笑んで見せた。
「……また、来るね」
 オルシュファンはその背中を追うことも、声をかけることもできなかった。隣に立つ女性は小さく肩を揺らす。笑ったのだ。
「英雄様から直接お話を伺ってみたかったけれど……残念だわ」
「……」
「あっ……お、オルシュファン様?」
 絡みつく腕を払って、オルシュファンは歩き出した。それを止めるようにもう一度彼の手を掴むと、オルシュファンは振り返ったが、やはりその手を拒否した。
「……申し訳ありません、レディ。お引き取りください」
「……何故? 私はもっとあなたのことを知りたい……家柄や生まれなんて関係ない、あなたを愛しているの」
「お気持ちは嬉しいですが……」
 イシュガルドという国で、貴族として生まれ育った者には、よくある性質だ。それは本人だけのせいではない、周りの人間の影響も多分にあるだろう。だが、だからといってそれを、簡単に許すことはできなかった。
「……私は、私の大切な人を見下す人間と、共に歩むことはできない」
「っ……わ、私は、そんな」
「無自覚なら……尚の事」
 育ちもよく、賢く、優しい女性だった。ただそれだけで補えるほど、この欠点はオルシュファンにとって軽い物ではない。
 『それ』が当たり前であるこの国で、初めて他人から指摘されただろう彼女は、賢く優しいからこそ、悔しさと羞恥で頬を染めた。

 ばちん、と乾いた音がする。昂る感情のまま涙の滲んだ目元を拭いながら、彼女は去っていった。
 ハルドメルの言葉が頭の中で繰り返される。――次に会えるのは果たしていつなのか。
 あの日、どうあっても伝わらないのかと、軽く絶望すら覚えた。先の言葉を、今でもまだ信じ切れない。
 ――それでも、もし今の彼女に触れて、口付けて、愛の言葉を囁いたら。あの日と違う結果が返ってくるのだろうか。
 軽く痛む頬を擦る。きっとすぐに引いていくだろうそれに、苦笑した。
「……ハルの掌底が、一番効いたな」

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