門の向こう側

 よく晴れた、雲一つない晴れ空の日だった。
 春の陽気と花の香りに包まれたハナムラは、いつにもましてのんびりと、だが賑やかに人々が生活している。
 それは闇の家業に手を染めるシマダ家であっても同じらしく、その日はいつもより穏やかな雰囲気があった。

 裏では犯罪行為をしつつも、日中は自警団のような活動をしているシマダ家を表立って批判する者はいない。その自警団的活動が、自分達の利権を守るためによそ者が幅を利かせるのを防ぐ目的であったとしても、町の人々にとっては自分達の平和が脅かされないのならそれでよかったのだ。
 八つになったシマダ家の長男は幼いながらも聡明で、そんな町の在り方に疑問を抱いていた。しかしながら、まだそれをどう変えるべきなのかまでは分からず、いつか自分が頭領になる時のため今日も修行と勉学に励んでいる。
 そんなシマダ家の長男も、春の陽気に誘われて勉学の合間に庭を散策していた。ハナムラという名の通りこの時期は花で溢れ、特に町の至る所に植えられた桜は美しく、シマダ城でも見ることができる。
 満開に咲き誇る姿も、花びらが風に舞う優雅さも、絨毯のように地面に敷き詰められた様も、薄桃色のその花はどれもが美しい。
 次期頭領となるため厳しく育てられている長男――ハンゾーはその美しさに心癒されながら、ゆっくりと庭を歩いていた。
「……?」
 ふと、足が止まる。普段は閉じられている離れへと続く門の潜り戸が、開いていたからだ。
 ハンゾーの記憶にある限り、大門も潜り戸も開いたことなどない。向こう側に何があるのかも知らない。だが決して入るなとは、長老たちから言われていた。
 潜り戸の傍に近寄ると、向こう側の景色に既視感を覚えた。不思議に思っていると人の気配がしてはっと後ろを振り返る。
 ――それは小さな影だった。
 ハンゾーに背を向けるようにして地面にしゃがみ込み、小さな手で熱心に野花を選んで摘んでいるようだった。
(……子ども……こんなところに?)
 自身もまだ子どもと言われる年齢なのはさておき、シマダ城に闖入者とあっては放ってはおけない。そっと近づき、目線が合うようしゃがんで、怖がらせないよう声をかけてみた。
「もし、そこの……町の子か?」
「!」
 びくっと体を震わせた子どもが振り返る。ハンゾーは奇妙に思った。人見知りにしては、いやに怯えた目をしていた。
「どうやって入った? 迷い子なら、侍女に案内させ……あっ」
 ハンゾーの言葉を最後まで聞くことなく子どもは走り出した。しかも、潜り戸を通って離れの方向へ。
 少し躊躇ったが、ハンゾーはその背を追いかけ潜り戸を超えた。そして追いかける内、また奇妙な既視感を覚える。
 先が見えない、くねるように植えられた生垣。瓢箪のような形の池を通る石橋と沢飛石。庭にある色とりどりの花。石灯籠を過ぎ、二手に分かれた飛び石の先には少しこじんまりとした家屋と、東屋。
 昔に、来たことがある。そう確信した。そもそも初めて離れに近づいてはいけないと言われたのは、ハンゾーが四つになろうかという頃だった。
 小さな子どもは、東屋のほうに走っていく。その先にいた人物に、ハンゾーは目を奪われた。

 短く切りそろえられた髪。快活そうな、明るい瞳。走ってきた子どもを出迎える、陽だまりのような暖かい笑顔。
 ――ハンゾーは昔見た『幽霊』のことを思い出していた。
 シマダ城は広い。幼い子どものうちは自分がどこにいるのかわからなくなることもあった。その頃に見た、白い着物を着た女性。
 怖くなって逃げたハンゾーがそれを侍女達に話すと、皆口をそろえて言ったのだ。きっと『幽霊』を見たのですよ――と。

 その人が、ハンゾーに気づく。一瞬驚きに見開かれた目はしかし、次第に優しいものになっていった。
「――お父上に、よく似ておいでですね」
 鈴を転がすような、美しい声。何故か顔が熱くなるのを感じて、ハンゾーは少し目線を逸らし、その人にしがみついた子どもを見た。
「ゲンジ、花を摘んできてくれたのね。ありがとう。でも『あちら』に行ってはだめですよ」
 その人は子どもを抱きしめ、嬉しそうに花を受け取る。ハンゾーは混乱しながらも、その言葉の端々から情報を読み取る。自分がこちらに来てはいけないように、彼女らもまた、ここを出てはいけないのだろうか、と。
 何か、何か言わなければ。そう思うのに、あまりに突然の出会いに、まだ八つのハンゾーがすぐに対応できるわけもなく。
「お初にお目にかかります。ハンゾー様。この子……ゲンジの母、アオイにございます。寝巻のような姿での挨拶となるご無礼をお許しください」
 東屋の椅子に座っていた女性は立ち上がり、深々と頭を下げた。一見すればどこにでもいそうな下町の明るい女性という風なのに、その立ち居振る舞いは名家の姫のような上品さであった。
「ほら、ゲンジもご挨拶しなさい。シマダ家の次期頭領様ですよ」
「……は、初めまして……はんぞー、さま」
 怯えるように母の影に隠れていた子どもが、おずおずと前に出て頭を下げる。ようやくハンゾーも冷静さが戻り始め、慌てて二人に頭を上げさせた。
「確かに次期頭領とは言われますが、私はまだ、頭を下げられるような人間ではありません」
 その言葉に、アオイと名乗った女性はくすりと笑った。また顔が熱くなるのを感じたハンゾーは、どぎまぎしながら言葉を続ける。
「私のことを知っているのですか? ……その、あなた方はどうしてここに? 住んで、いるのですか? 一体いつから……、……あ、あぁ……いや……シマダ家との関係、は……」
 何から訊けばいいのかわからず、しどろもどろになるハンゾーにアオイは少しだけ悲しそうな目をした。
「……ハンゾー様が何も聞かされていないのなら、私どもから申し上げることはできません」
 ハンゾーは唇を噛む。
 シマダ家の長男は、幼いながらも聡明であった。
 離れには近づくなという言いつけ。ここから出てはいけない彼女ら。ゲンジという存在と、その年の頃――。

「まあまあハンゾー様……このようなところまでいらしたのですか」
 しわがれた声に振り替えると、ハンゾーの乳母であった老婆がいた。侍女たちのまとめ役でもあり、ハンゾーが心から信頼する人物の一人でもある。
「あらフジノさん。今日も元気そうね」
 アオイが話しかけたことに、ハンゾーはもう驚かなかった。きっと『そう』なのだと、ぼんやりと悟っていた。
「アオイさん、今日は暖かいですが、少し風が出てきます。外に出るのなら一度家に戻られて、羽織物を持ってきた方がよろしいですよ」
「……そうね。そうしましょう。さあゲンジ、行きますよ。――では、失礼いたします、ハンゾー様」
 もう一度、深々と頭を下げた女性は、小さな子どもの手を握って飛び石の上を軽やかに歩いて行った。
「さあハンゾー様、こちらに来てはいけないと、言われているのでしょう? ばあやは黙っておきますから、一度あちらに戻りましょう」
「……あなたも、教えてはくれないのでしょうね」
「……申し訳ありません、ハンゾー様……」
 老婆の、本当に申し訳なさそうな顔に、ハンゾーもまた心苦しくなる。
 二人で連れ立って歩く。本殿と離れを区切る門に近づいてきたころ、老婆はもう一度口を開いた。
「……季節や時代が変わるように、何事もいずれは変化していくものです、ハンゾー様。あなたはいずれ頭領になるお方。シマダ家に新しい風を吹かすことも、きっとできるでしょう」
「……ああ、ありがとう。ばあや」
 潜り戸を抜ければ、世界はまた隔絶される。だが『境目』など必要ない。長老や父に真実を問うこと、いつかこの境をなくすことを胸に誓って、ハンゾーは門を後にした。

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