ある兄弟の話

 ベッドの上で目を覚ましたハンゾーは、ゆっくりと視線を動かし、そして自分の犯した罪を目の当たりにした。
 すぐそばにある、培養液で満たされた治療用ポッドに浮かぶ体。傷だらけの皮膚。胸に残る大きな痕。左腕と両足があるべき場所には何もない。成人男性一人が入れば少々狭い治療用ポッドが、広く感じる。
「……、……っ」
 息苦しい。呼吸の仕方を忘れたように、上手く酸素を取り込めない。だが、その光景から目を離すことはできなかった。

「目が覚めましたか」
 その声にはっとして、体と脳が正常さを取り戻した。声のした方へ視線を動かすと、マーシーと呼ばれる女医が立っている。戦闘時のスーツではなく、医者らしい白衣を着ていた。
「お二人とも治療は済んでいますよ。……ゲンジのボディの修理はしばらくかかりそうですが」
「……作ったのは、貴様か」
 そこに僅かな険が混じってしまったことにハンゾー自身も賢い女医も気づいていた。女医は目を眇め、ゲンジのいる治療ポッドに触れる。
「ええ。彼がここに連れてこられた時は本当に虫の息という状態で……当時の治療技術では足と左腕を治すこともできなくて、内臓のいくつかや声帯も人工のもので補うしかありませんでした」
「死にかけの人間を鉄人形にするのが貴様らヒーローとやらの仕事なのか」
「あら、『暗殺者』に咎められるなんて思いませんでした」
 くすりと苦笑する女医は嫌みではなく、どこか悲し気な、だが優しい顔をしている。
「……あなた達の事情はある程度知っているけれど……ゲンジの気持ちも汲んであげて。最近の彼は……とても寂しそうですから」
 女医は電子端末や治療ポッドのモニターを確認した後、部屋を出て行った。
 残されたハンゾーはもう一度、ゆっくりとゲンジの方を見る。
 麻酔が効いているらしく、まだ目を覚ましそうにない。
 ハンゾーの記憶の中で、死闘を繰り広げたあの日の姿のまま時を止めていたゲンジは、年相応の姿に成長していた。父似だと言われていたゲンジだがその実、快活そうな瞳は、ゲンジの母によく似ている。

『兄者!!』

「……ッ」
 怪我を負った時の光景を思い出し、頭痛と吐き気が襲ってくる。目を閉じ、深く息を吐く。
 長く、自身の犯した罪を受け入れ、その罪を背負って生きているつもりだった。だがどうだろう、その罪が目の前に現れただけで、今まで感じてきた罪悪感など取るにならないものだったと思い知らされる。
 結局は、逃げているだけなのだと。追手から身を隠すために一時的にこの新生オーバーウォッチへやってきてからの一週間を思い出しながら、ハンゾーは一人己の弱さを自覚し煩悶した。

 故郷を捨て、家名を捨て、長く放浪したハンゾーは、半年前に思いもよらない再会を果たした。
 自身の手で殺めた男。家を守るために戦い、結果的に捨てることになったその理由が、彼の命日に現れるなんて誰が予想できようか。
「問題は、『どちら側につくか』だ」
 そう言った彼は、所謂正義の味方――かつて世界を救い、シマダ家とも因縁のあったオーバーウォッチ、その遺志を継ぐ新たな組織に身を寄せているようだった。
 くだらない、と思った。栄華を極めたかの組織が、どのようにして瓦解したか知らぬわけでもあるまいに。正直者が馬鹿を見るこの時代に、わざわざ人助けなどと。
 だがそう思っていた自分が、よもや彼らに助けられるとは。

 弟との死闘を繰り広げ、そして家を捨てて既に十年は経過しているが、未だにハンゾーの元へは暗殺者が送りこまれてくる。
 それは路銀を稼ぐために請け負った『仕事』関係の者、ハンゾーを危険と見なす現シマダ家当主や長老たちから密命を受けた者、中にはシマダ家最高と謳われたハンゾーを倒し、名声を得ようとする者もいた。
 全てを返り討ちにしてきたハンゾーだったが、一週間前のその日は腕の立つ者が二人がかりで襲撃したために深手の傷を負ったのだ。
 そして偶然、その襲撃者達を追っていた新生オーバーウォッチと遭遇した。その中にはもちろん、彼がいた。
「兄者! 兄者、大丈夫か? 今手当を……!」
 毒と出血で意識が朦朧としていたハンゾーはその手を拒むこともできず、されるがままにオーバーウォッチ本部へと連れ帰られ、治療を受けたのだ。

 目が覚めた時、バイザーを外していた彼は少しだけ泣きそうな目をしていた。よかった、と。なんの衒いも遺恨もない笑顔で、そう言ってみせた。
 それが、理解できない。かつて自分を殺したものを、許し、受け入れるなんて。
「兄者、まだ傷は完全に治っていないからここでしばらく療養してくれ。追手がいてもここなら安全だし食事も出る。もしその、兄者が仲間に――」
「拙者を、兄と呼ぶな」
 思わず口をついて出た言葉は、思っていたより冷たい声となった。
「拙者の弟は当の昔に死んだ。家名も、故郷も捨てた。ここにいるのはただの『ハンゾー』。弟を騙って関わるな」
 完全なる拒絶に、周りにいた数名のオーバーウォッチメンバーも、ある者は居づらそうに視線を彷徨わせ、ある者はどう場を取り繕ったものかとあたふたしている。
 彼は、僅かに表情を曇らせた。だがすぐに笑顔に戻ると、何かあったら呼んでくれと言った。
「アテナも頼んだぞ。怪我をしていてもすぐ無茶をするから」
『了解しました』
 おそらくAIか何かなのだろう――女性のような声がどこからともなく聞こえ、オーバーウォッチの技術力の高さを知る。
 確かにこれならセキュリティも万全だろう。怪我が治るまでの間、不服ではあるがここに身を隠すことに決め、ハンゾーは改めて彼の姿を見た。
 全身がすべて機械に覆われ、バイザーを取らなければ少し変わった出で立ちのオムニックだと誰もが思うだろう。
 どこからが生身で、どこからが機械なのかもわからない。本当に人間なのかという疑問すら持ちそうだが、龍を使役できる彼は間違いようもなく――。
「ゆっくりしてくれ。――兄者」
 まだ言うか、と呆れたが、いつのまにかバイザーで顔を覆ってしまった彼の表情をうかがい知ることはできなかった。

 それからしばらくの間、好奇心旺盛なオーバーウォッチの若いメンバーに質問攻めにされたり、どういう仕組みで龍を出せるのか調べさせてほしいなどと研究者達に頼まれたり、静寂を好むハンゾーにとってはとてもゆっくりしていられない状況だった。動けるようになると、できるだけ人のいないところで世界の情勢を調べながら時間を過ごした。
 そんな中で彼は決まって、皆がいない静かな時に、少しだけ話をしにやってきた。
 調子はどうか、痛むところはないか。気遣う彼に対して、さも面倒くさそうに対応していればいつか関わってこなくなるだろうと思っていたのに、一向にその気配はない。
「……関わるなと言っただろう。傷が癒えればここを出る」
「……兄者」
「兄と呼ぶな」
 ぴしゃりと言い放てば、僅かに俯く姿に胸がざわついた。
 理解できない。何故。どうして、お前は。
「……オレは……」
 通信機を通したような、少し機械的な声が震えたような気がした。
「……昔みたいに笑い合うのは、そんなに難しいことなのか……?」
 ハンゾーの脳裏に、幼いころの記憶が蘇る。
 小さな手を引いて、祭りの喧騒の中を歩いていた。見るもの全てに目を輝かせる弟を、ハンゾーもまた笑って見守った。

「……なんの話だ」
「戸惑うのも、まだ気持ちに整理がつかないのもわかってる……けど、オレは…………」
 言いかけて、はっとしたように彼は口を噤んだ。肩を落とし、「すまない、兄者」と呟いて、静かにその場を立ち去る。
 仲間の前で見せる明朗快活で自信に満ちた姿は鳴りを潜め、今の彼の背はどこか、まだ本家に入ることを許されなかった幼き日の弟を連想させる。
 シマダ城の離れで軟禁状態だった母子。妾の子と蔑まれ、幼いながらも自身の置かれた状況を薄らと悟り、周りの顔色を窺い畏縮していた小さな弟を一番最初に外へ連れ出したのは、ハンゾーだった。
「…………」
 緩く頭を振り、思考を中断する。与えられた部屋に戻ると、少ない荷物をまとめて密かに基地を抜け出した。あのアテナというAIに気づかれるだろうが、傷はほぼ完治したのだからもうここに用はない。追ってくるなら追い返すまでだ。
 夜の闇に紛れ、高所に昇って様子を伺いつつ近くの町を目指す。その最中、当然のように現れた襲撃者の気配にため息をついた。
「暇人共め」
 一週間前と同じ二人組。どす黒い霧を纏う『死神』の異名を持つ男が音もなく忍び寄ってくるのが分かる。
 もう一人は狙撃手の女だ。同じく狙撃を得意とするハンゾーにとって、その位置を予想するのは難しいことではない。
 龍の力を借り索敵をすれば、予想通りの位置にその姿を確認できた。射線に入らぬように身を隠しながら、姿を現した死神へ矢を放つ。
 その武器はショットガン。接近されればひとたまりもない。身軽に障害物を超えながら時に身を潜める。こういう時近接用の武器を持っていないのが辛いところだが、弟を斬ったあの日から、ハンゾーは刀を使わなくなった。故に、この身と弓だけで戦わなければならない。
 ハンゾーが再び放った弓が死神の腕に刺さる。だが男はそれをものともせずに接近してくる。炸裂する矢が四方八方から襲い掛かるのに微塵もひるまない。
 このままでは――そう思った時、一つの影が風のように素早くハンゾーの前に立った。
「兄者!!」
 腰の小刀を抜くと、影は死神の撃つ銃弾を全てはじき返した。唸るような死神の声と舌打が聞こえる。霧状になって退く男から目を逸らさず、影はハンゾーに声をかけてきた。
「兄者、無事か!?」
「――ッゲンジ!!」
 返事をするよりも先にその気配を察知したハンゾーは目の前の体を退かそうと手を伸ばした。瞬間、赤い軌跡が走り、恐ろしい音と共に左腕が飛んだ。精密に作られた機械部分が露出し、バチバチと火花を躍らせている。
 ハンゾーも彼も瞬時に反応し体を動かしたが、無情にも二発目の銃弾は彼の右足を破壊した。
 地に伏した彼を前に、ハンゾーは眩暈を覚えた。記憶が混濁する。同じ光景を、かつて見たことがある。指先一つ動かせなくなる。
「あ、にじゃ」
 あの日、光の消えかかった瞳から零れた雫と共に、聞こえた言葉。
 隙間風のような微かな音で、だが確かに、ハンゾーはその唇の動きを見た。

『ご  め、ん』

 痛みと共に、そこで記憶は途切れた。

――――――

 気配を感じてハンゾーははっと視線を上げた。
 培養液に浸かる彼の瞼が震え、覚醒の兆しを見せている。
 反射的にハンゾーは目を閉じた。逃げだと分かっていて、そうせざるを得ない自分を恥じた。
「……兄者……?」
『ゲンジ、体調は如何ですか。ドクターを呼びますか?』
「アテナ……いや、まだいい。体も、手足が壊れたくらいだろう? ドクターにはいつも世話をかけるな」
 胸が、かきむしられるようだった。こんな体になる原因を作ったのが自分であるのに、天気の話をするように壊れた体の話をする彼に、無性に腹が立った。そんな資格、ありはしないのに。
『そう言うならもっと気を使ってくれ、とドクターが仰っていました』
「はは、そうだな。……兄者は?」
 その問いに僅かに緊張する。人を騙せる自信はあるが、AI相手ではそうもいかないかもしれない。
『……傷は治療済みです。先ほどまでは起きていたようですが、今は眠っています』
 内心で驚く。本当に眠っていると思っているのか、はたまたハンゾーの気持ちを汲んで――否、そこまで器用なAIなどいるまいと考えを打ち消した。
「……よかった。無事ならいいんだ……悪いが少し外してくれないか?」
『了解しました』
 席を外す、という概念がAIにあるのかハンゾーには分からなかったが、それきりAIは喋らなくなった。
 機械の駆動音以外聞こえなくなった部屋で、ハンゾーも彼もじっとしたまま時間が過ぎる。
「……今頃になって出てくるな、って話だよなぁ……」
 自嘲するような声に、締め付けられるような苦しさを覚える。
 憎んでいるでも、嫌っているわけでもない。だが今更、関係を修復できるなんて思えない。

 けれど本当は――。
「はは、やっぱりこんな体じゃ気味悪いかな。弟だなんて、思えないよな」

 本当、は――。

「でもオレは再会できて、少しでも話ができるのが嬉しいんだ。――うれしいんだよ、兄者」
 声が、震える。ハンゾーはゆっくりと目を開けた。
 俯いて、口を引き結んだ彼はこちらを見ていなかった。僅かに赤くなった目は、昔と何も変わっていない。
「……から……どこにも、行かないでくれよ……兄者……」
「…………いつだって」
 その声にはっと顔を上げる。培養液の中にいるのに、ハンゾーには確かに、彼が泣いているのが分かった。
「……いつだって、勝手にどこかに行くのはお前のほうだっただろうが」
「あ、に……」
「その情けない面をなんとかしろこの愚弟」
 ハンゾーは、少し躊躇った後、上半身を起こして治療ポッドのガラスに触れた。
 恐る恐る、というようにゲンジの右手が伸び、ガラス越しに手を重ねる。
 泣きそうに歪んだ顔は、下手くそな笑顔になった。
 暖かな陽光のようなそれが、ハンゾーの冷たく凍った心を、少しずつ溶かしてくれるような気がした。

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