誓い

 シマダ城の外、ハナムラの下町から、賑やかな祭囃子が聞こえてくる。
 今日はハナムラの城下町で花祭りが催されている。ハナムラ中の桜が一斉に見ごろになるこの時期に、花見を兼ねた今年一年の無病息災と豊作を祈る祭りであるが、果たしてその意味を覚えている人がどれだけいるだろうか。
 ただ、例えその意味が形骸化してしまったとしても、人々が大いに騒ぎ楽しめる催し事というのは愛されるもので、この街で長く続く伝統行事だった。
 風に乗って聞こえてくる笛の音を聞きながら、ハンゾーは今日も門をくぐり、くねる生垣の道を通り、小さな石橋を通り、石灯篭を過ぎる。既に数回通い、慣れてきた光景。二手に分かれた道の、東屋の方へ目を向けたが、そこに人影はなかった。
 小さく息をつき、もう一方の、家屋がある方へ足を向ける。縁側の方へ回ると、小さな子どもと女性が縁側に座っていた。子どもは米でも持っているのか、手には溢れんばかりの雀が乗っており、我先にと首を突っ込んでいる。くすぐったいのか、くすくすと笑う子どもにハンゾーもまた頬が緩んだ。
「あら、ハンゾー様」
「……様はよしてください、アオイ殿」
 立ち上がろうとした彼女を制すと、ハンゾーは子どもの前へと進んだ。と、子どもは慌てて雀を手から払い、米を離れたところに投げた。恥ずかしいのか俯いて、鳥と戯れていた小さな手を後ろに隠してしまった。ハンゾーはしゃがんで視線を合わせる。できる限り、優しい声で話しかける。
「ゲンジ、何を止める必要がある。気にせず遊べばよい」
「で、でも……はんぞー様……」
「……様はいらんぞ。私はお前の兄なのだから」
「ぅ……」
「ゲンジ、気になるのなら手を洗ってらっしゃい。ハンゾー様はまだここにいてくださいますから」
 アオイがそう言うと、ゲンジはととと、と駆け足気味に部屋の奥に消えていった。二人だけになると、何故だか急にアオイの存在を意識して緊張する自分がいる。ハンゾーはそう気づいてはいたが、どうすればよいのかはまだ分かっていなかった。
「……こちらに来ると、お叱りを受けるでしょうに」
「か、構いません。自分の弟に会うのに、何を気にする必要がありましょう」
 言いながらハンゾーは、この離れのことを、二人のことを長老たちに聞き出した時のことを思い出していた。

『見られてしまったのなら仕方ありますまい』
『しかし……』
 ハンゾーを置いて話し合う長老たちを睨むようにして待っていた。そこへ鶴の一声を上げたのは、父であり、現シマダ家頭領のソージローであった。
『ハンゾーは聡明だ。もう物事が分からぬような年ではない。まさか、いつまでも隠しおおせると思っている者が一人でもいらっしゃるのか?』
 反論するものはおらず、最終的にソージロー本人がハンゾーに真実を話すことにしたのだ。
 正妻、ハンゾーの母であるマツとは、政略結婚ではあったが愛しているということ。アオイと出会い、本当の恋を知ってしまったこと。子を授かってしまったのが露見し、長老たちの意見を完全に無視することはできず、今のような形になったこと。
『……拙者は、あの母子に会うことはまだ許されておらん』
『……では、ゲンジとは……』
 聞きながら、ハンゾーは父に対して初めて腹を立てた。長老たちの意見など聞かずとも、自分のようにあの門を超え、会いに行けばいいのにと。
『……息子よ。我らの家業はもう、よく知っているな』
『……はい』
『すまない……だが分かってくれ。ああするしか、守る方法がなかったのだ』
 その言葉の意味と、初めて見る父の、どこか弱った様子に苛立ちを飲み込んだ。父も、頭領という立場上、できないことがある。であれば。
『……現状を変えられるよう、私も尽力を』
『長老たちを変えられる自信が?』
『なに、私は『まだ』子どもです。少々出入りしても、父上のようなお叱りは受けますまい』
 にやりと笑うと、ソージローは目を丸くし、次の瞬間にはくつくつと笑いだした。
『……これは……いや、はっはっは、なかなか頼もしくなったな』
 頭を撫でられ、ハンゾーは自身の中に気力がみなぎってくるのを感じた。思えばそれは、忙しい父との久方ぶりの語らいであった。

 庭を散策してくるとアオイに告げたハンゾーは、手洗いから戻ってきたゲンジを連れて歩いていた。初めて出会ったあの日から一週間程してようやく再び離れに訪れた時、ゲンジに、自分を兄と呼んでいいのだと告げた。
 ハンゾーが事情を知ったことを、アオイは少し複雑そうな笑みで受け入れた。ハンゾーが兄だということは一応知っていたらしいゲンジはしかし、なかなか兄と呼んでくれない。だが急くつもりはハンゾーもなかった。このような離れに軟禁状態でずっと暮らしていたのだ。いきなりそんなことを言われても困るというものだろう。ゆっくりでいい、シマダ家もゲンジも、変化を受け入れてくれればと、ハンゾーは願っている。
 さて、まだ兄とは呼んでくれないゲンジは、ハンゾーと共に遊ぶことは嫌ではないらしく、遊びに誘えば必ず付いてくる。アオイの話によれば今日は来ないのかとぼやいている日もあると聞き、内心嬉しかった。ちなみに、訪れるたびに長老たちから厳しいお小言を言われているが、ハンゾーは全く気に留めていない。
 ある程度歩き、アオイの姿が見えないことを確認すると、ハンゾーは少しかがんでゲンジと目線を合わせた。大人しいものの、今日は何をするのかと期待に満ちた目を向けられて口元が弧を描く。
「ゲンジ、今日はな……お祭りに行こう」
「……おまつり?」
 きょとんとした表情は、祭りがどういったものかわからないということを如実に伝えてきた。ハンゾーは城壁の外を指で指し。
「ほら、音が聞こえるだろう? 今日はお祭りの日なんだ。いろんなお店があって、遊ぶことも食べることもできるんだ。楽しいぞ」
 喜ぶだろうと思っていたハンゾーは、ゲンジの顔が徐々に不安に彩られていくのに気づいて首を傾げた。
「……どうした? 行きたくないか?」
「い、行きたい……けど……外に出たら、長老さまに怒られる、し……」
 聞けば、一度だけ興味本位で外に出ようとした時、長老たちから酷い『仕置き』を受けたらしいことが、ゲンジの拙い言葉から汲み取れた。こんな小さな子どもに、と怒りを覚えるが、それを躊躇いなくする彼らに対して、離れに匿うという選択ができたのは父が必死で説得したからなのだろう。心中で父に謝りつつ、ゲンジが安心するように笑いかけた。
「大丈夫だ。私が『無理やり』連れ出すのだ。怒られるなら私のほうだからな」
「でもはんぞー様が怒られるの、いやだっ」
「……じゃあばれた時はいっしょに怒られよう。それなら良いか?」
 ゲンジは少しだけ躊躇い、こくんと頷く。外に出たいという気持ちは、やはりあるのだ。
 ハンゾーはゲンジを連れて大門へと向かう。門を守る衛兵を呼び、こちらに注意を向けさせているうちに外へ走れとゲンジに教えた。
 『仕置き』を受けた記憶があるからか、なかなか飛び出そうとしなかったゲンジだが、ハンゾーと目を合わせ、頷くと意を決して飛び出した。
 それを確認したハンゾーは、衛兵に祭りの様子を見てくると言い残して門を通り抜けたのだ。
 周りを見回すと、少し離れたところの岩陰にゲンジが隠れるようにうずくまっていた。声をかけると、余程緊張したのか少し呼吸が荒かった。だがハンゾーの顔を見てすぐ笑顔になる。きっとこれは、生まれて初めての『外出』なのだろうから。

「わ、ぁ…………すごい」
 城下町に近づくや否や、ゲンジはずっと感嘆の声を漏らしてばかりだ。道を埋め尽くすほどの人の群れ。所狭しと並ぶ露店の数々。賑やかな音楽。すべてが初めての経験であろうそれに、ただただ目を丸くしてきょろきょろとせわしなく辺りを見回している。テレビを見ることはあっても、実際に体験するのとでは雲泥の差だ。ゲンジの眼がキラキラと輝くのを見てハンゾーも、次期頭領としての重圧を感じる毎日を忘れ、童心に帰る。このように心が弾むのは、いったいいつぶりなのだろうか。
「さあ行くぞゲンジ、何から遊ぶ? それとも食べるか? 兄に何でも言ってみろ」
「……い、いっぱいあってわかんない……っ」
 急に何でもしていいと言われ、あわあわと混乱するゲンジを連れ、ハンゾーは笑いながら店を回る。
 ふわふわとした甘い綿菓子に目を輝かせ、すごいすごいとはしゃぐ。神輿を抱えた男たちの勢いに驚き、涙目でハンゾーに飛びついてくる。同年代の子どもたちと出会い、共にヨーヨー釣りをする。
 祭りは初めてではないハンゾーも、まったく新しい祭りにやってきたかのように新鮮で、楽しい時間だった。

 ふと、ゲンジが何かに目を奪われているのに気づいたハンゾーはその視線を先を追う。そこには射的の景品が並んでおり、客たちが狙いを定めて弓を引き絞っているところだった。
「……どれが欲しいのだ?」
 にやりと笑って問いかければゲンジは慌てて首を振った。だがハンゾーには分かっていた。ゲンジの視線は真っすぐに、景品の中で一番大きな……桃……のような形のキャラクターを模したぬいぐるみに向いていた。
 ハンゾーはゲンジを連れて店主に金を渡すと弓と矢を受け取った。矢は三本。先ほど見ていた時は他の客たちも何人か狙っていたが、びくともしないぬいぐるみに諦めたのか、誰も射る様子はなかった。
「……店主。確認するが、『この三本』で落とせばもらえるのだな?」
「そりゃもちろんさ! ひょっとしてあのぬいぐるみを狙ってんのかい坊主。難しいぞぉ?」
 ハンゾーの服を掴み、不安げに見上げるゲンジに片目を瞑ってみせると、ハンゾーは弓の具合を確かめる。遊戯用の弓は頼りなく、すこし癖もあるようだったがハンゾーにとってはハンデにもならなかった。
 一本目。ぬいぐるみから少しそれて飛んだ。
 二本目。一本目で完全に癖を見抜いたハンゾーの矢はぬいぐるみの端に命中し、大きくぐらつかせた。
 三本目。その揺れが治まらぬうちに一番傾いたタイミングを狙って放つ。目にも止まらぬ早撃ちで周りの人間が呆気にとられる中、ぬいぐるみはゆっくりと後ろへ倒れ、台の上から落ちていった。ぷぴ、というなんとも間抜けな音が鳴った。
「ふん、稽古にもならんわ」
 周りから歓声が上がる中、さすがに少し照れつつも自分の腕を誇らしく思っていると、下からくいくいと服を引かれて視線を下ろした。
 そこには、一番見たかった笑顔がこれでもかと輝いていて。
「すごいっ……すごいすごいっ! ありがとう! ……あっ……ござい、ます……」
 尻すぼみになっていく声に苦笑すると、その頭をくしゃくしゃと撫でた。
「呼び方はいいから、せめて敬語は取れ。な、ゲンジ」
 店主から渡されたぬいぐるみをぽんと渡す。柔らかなそれをぎゅうぎゅうと抱きしめて、恥ずかしそうに「ありがとう」と言った。なんだか堪らなくなってハンゾーもゲンジをぎゅうと抱きしめる。
 すると、ゲンジの体が妙に熱いことに気づいた。よく見れば、額にも汗が滲んでいる。
「ゲンジ、大丈夫か……? 今日は初めてのことばかりだから気疲れもしただろうな……少し休んでから帰ろう」
「も、もう……帰っちゃうの?」
「祭りはまた来年もある。夏祭りだってあるぞ。また連れてきてやるから」
「……うん」
 ゲンジをゆっくりと歩かせ、休憩所となっているベンチに座らせた。服の裾で汗を拭ってやるが、少し息も荒い。
「飲み物を買ってくるから、ちょっとここで待っていろ」
 こくんと頷くゲンジを置いて、ハンゾーは少し離れた露店へ向かった。ゲンジはその背をぼんやりと眺めていたが、隣に座った男が何かに火をつけたのに気づいてそちらを見る。
 それを直接見るのは初めてであった。シマダ家で――少なくとも、城の中でそれを使うものは見たことがなかったし、時折テレビで見るくらいのものであった。
 だからそれが、どんなものかよく分からなかった。煙を吸って何が楽しいのかと思っていただけだった。
 男が煙を吐き出すと、初めて嗅ぐ臭いを感じた。だが次の瞬間、喉がじりじりと焼かれるような痛みが襲ってくる。ゲンジの弱い粘膜に、肺に、煙が入り込んで痛めつける。
「っ……ほ……げほっげほッ……げほっ……」
 咳が止まらなくなる。喉が痛い。ひりひりする。涙が出てくる。苦しい。苦しい。息ができない。
 なんとか咳を止めようと、貰ったぬいぐるみを抱きしめる。ぷぴ、ぴーと間の抜けた音が鳴るだけで、咳はますます酷くなる。
「はぁ……っ……あ……げほげほッ……はッ……ぅ、え……」
 ようやく異変に気付いたらしい周りがなんだなんだと見てくるが、手を差し伸べる者は現れない。咳をすればするほど煙が中に入ってきて、ゲンジは一つのことしか考えられなくなる。
 だれか。だれか。たすけて。だれか。たすけて。
「……っ……に……」

「ゲンジ!!」
 ハンゾーが駆け付けた時、ゲンジはぬいぐるみを抱きかかえて蹲り、玉のような汗を額に浮かべ咳と空えずきを繰り返していた。
 何故そんなことになっているのか――そう考えた時鼻につく臭いに気づいてまさかと声を荒げた。
「っ……貴様、今すぐその煙草を消せ! ゲンジに近づくな!」
「あぁ? いきなり失礼だぞこのクソガキ……」
「誰か、誰か医者を!」
 ゲンジの顔が青ざめているのを見てパニックになる。はやく、はやく誰か。どうして見ているんだ。早くしないと、ゲンジが。
「あ、あんたもしかして、シマダの坊ちゃんで?」
 近くの露店にいた老人が駆け寄ってくる。その言葉を聞いて周りの人間もどよめいた。ハンゾーが力なく頷くと老人はすぐさま動いてくれた。
「ほらそこのお姉さん! 医者ぁ呼んでくれ! そこの兄ちゃんも煙草やめな! こちらへ坊ちゃん! お友達ですかい? 大丈夫ですよ、すぐ医者が来ますからね!」
「あ……あ……」
 老人がゲンジを抱きかかえて運んでくれる。ハンゾーはただ付いて行くことしかできず、己が無力に歯噛みした。
 シマダの名が出た途端周りの態度が変わった。シマダの力がなければ今頃ゲンジはどうなっていたか。
「……ゲンジは……ゲンジは……私の……」
 そしてゲンジは、シマダ家の子どもだと知る者は誰もいない。生まれてからずっと、離れから出たことがないのだから当然だ。
 もし、もしゲンジが一人だったら。自分が戻っていなければ。そう考えたら、恐ろしくてたまらない。

 やがて現れた医者と、連れ立ってきた人物にハンゾーは抗えなかった。
 吸入器で薬を与えられ、担架で運ばれるゲンジと共に、ハンゾーもやってきた長老に連れられて城へと戻る。
 知らせを受けたのか、離れへの門のすぐそばで待っていたアオイがゲンジに駆け寄った。その目に涙が滲んでいることに気づき、ハンゾーは目を逸らしてしまう。
 ゲンジ達は門をくぐり、離れの方へと向かっていった。残されたハンゾーに、長老が重々しくため息をつく。
「……分ったでしょう。若、あれはシマダの荷物です。もう二度とこのような……」
「荷物なものか……!!」
 長老を睨みつける。涼やかな顔をしている彼を射殺す勢いで、ハンゾーは叫んだ。
「荷物なものか! ゲンジは、私の弟だ!」
 言い捨てて、ハンゾーは周りが止めるのも聞かず離れへと走った。

 周りの静止も聞かず、ハンゾーは部屋へと入る。布団に寝かされたゲンジの呼吸は、徐々に落ち着いてきているようだった。枕元に座っていたアオイが微笑みかけ、ハンゾーは罪悪感で押しつぶされそうになる。
「……先生、ありがとうございました。また容態が悪いようでしたら、シマダの方にご連絡していただきますので、よろしくお願いいたします。シマダの皆さまも、ありがとうございました」
 深々と、指を付き頭を下げるアオイ。いつもそうして誰かに頭を下げているのかと、歯がゆく思う。本当はきっと、そんなことをしなくてもいいはずなのに。
「ハンゾー様、よければ少し、お話を」
「おい、貴様若に……」
 何かを言いかけた若い男を睨んで黙らせると、ハンゾーはアオイと共に奥の部屋へと入った。襖を閉め、向かい合って正座すると、ハンゾーは、深く、深く頭を下げる。
「……このたびは……真に、申し訳ありません」
「まあハンゾー様……どうかお顔を上げてください……誰もあなたを責める者などおりません」
 それでもハンゾーは頭を下げ続けた。アオイが傍により、体を起こさせても、目線を上げることができなかった。
「……ゲンジは、体が、弱いのですか」
「……はい」
「……なぜ、教えて、くださらなかったのですか」
 不意に泣きそうになって、ハンゾーは唇をかみしめる。まだ自分は感情も制御できない、何もできない子どもなのだと、思い知らされる。
「ここ数か月は随分と調子がよかったのです。それに……」
 アオイはそっとハンゾーの頬を両手で包み、顔を上げさせた。自身は少し体を屈めて、目線を合わせる。その目元は、少し濡れていた。
「……もし、知っていたら。きっとハンゾー様は、連れ出さなかったでしょう?」
「それは……当然で……」
「ありがとうございました、ハンゾー様」
 その言葉で、塞き止められていた涙が零れた。何故、どうして。
「……たしは……ッ……ゲンジを、し、しなせて、しまう……ところだったッ……!」
「いいえ……いいえハンゾー様。あなたは誰にもできないことをしてくださった。外を知らぬあの子に、素敵な一日を与えてくださった。だから、ありがとうございます」
「あ、おい……殿……っ」
 涙が止まらなくなったハンゾーを、アオイがそっと抱きしめる。柔らかな香りに包まれながら、ハンゾーはその体の、人より低い体温に悲しくなった。分かってしまった。彼女もまた、病を患っていることを。
「大丈夫です、ハンゾー様。あの子はちゃんと生きています。それにあのぬいぐるみ、ハンゾー様がくださったのでしょう? 抱きかかえたまま、離さないんですよ」
 涙混じりの笑い声に、ハンゾーはせめて声を上げずに泣くことしかできなかった。

 やがて涙が止まる頃、ハンゾーはアオイに礼を言った。情けないところを見られて、少し気恥ずかしかったけれど。
「アオイ殿」
 彼女の前に膝をつき、ハンゾーは首を垂れた。
「もう二度と、このようなことは起こしません。ゲンジは……ゲンジは私が、守ります。ゲンジは私の、弟だから」
「……はい。ありがとうございます、ハンゾー様」
 ハンゾーは静かに部屋を出る。襖を閉め、ゲンジのいる部屋を通り過ぎる。途中で立ち止まり、落ち着いた呼吸で眠るゲンジを見つめた。
 ふ、と瞼が持ち上がり、ゲンジの眼がハンゾーを捉えた。力なく笑いかけるゲンジに胸が苦しくなりながら、傍で膝をつき頭を撫でた。
「まだ、寝ていた方がいい」
「……は……」
「……?」
 か細い声を聞き取ろうと、ハンゾーがゲンジの口元に耳を寄せる。耳を擽る吐息と共に吹き込まれた言葉は。
「今日、は……ありがと……、……あ、にじゃ」
 止まっていた涙がまた溢れそうになるのを堪え、ハンゾーは笑って頷いてみせた。
「……また、一緒に行こう」
「ん……いく……」
「約束だ」
 小さな指が絡み合う。この小さな存在を、守らなければ。ハンゾーは改めて心の中で誓う。

 ――その誓いが十数年後に破られることになると、彼は思ってもいなかった。

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