「兄者、大丈夫か? 寒くはないか?」
「……貴様に心配されるほど柔な体ではない」
「ははっそうだな」
朗らかに返す弟に、ハンゾーは複雑な想いを抱く。一時的にオーバーウォッチに身を寄せることになったとは言え、まだ弟のことも、自分の犯した罪も、心の内で消化できたわけではない。だが弟ときたら、相変わらず昔と同じような笑顔を向けてくるものだから。
「信号は発信しておいたから、数日中に迎えが来るはずだ。野宿なんて修行でよくしてたし、大丈夫だろ?」
曖昧に頷きながら、ハンゾーは故障し不時着した小型の飛行輸送機を見た。
一応、オーバーウォッチに身を置くことになったハンゾーは、働かざるもの食うべからずと言わんばかりに任務に駆り出された。といっても、ゲンジがついていたし、荷の輸送という簡単なものだったのだが。
その帰りのことだ。ゲンジが少し寄り道をしたいと言って進路を変えた。目指した先は、オムニック僧達が多くいるネパールのシャンバリ寺院だった。
『ここで多くのことを教わった。俺のもう一つの故郷だ』
ゲンジ自身久々に訪れたというこの場所で、自分が知らぬゲンジの過去を教えられた。居候させてもらっていたという部屋は簡素なものだったが、捨てられたのだと思っていた昔の写真が飾ってあるのを見て、酷く心がざわついた。
二人の間に少しずつ亀裂の入り始めた――と言っても、次期頭領としての責任感から冷たく当たるようになったのはハンゾーだったのだが――頃に、『あの女性(ひと)』が撮ってくれた最後の写真。
写真を見つめたまま物言わぬハンゾーに、今度師匠を紹介したいと話していたゲンジは、果たしてハンゾーの心境に気づいていたのだろうか。
そして、ネパールを発ってしばらくしたころ、急に輸送機のメーターが機体の不調を訴えだした。徐々に高度を下げ始め、仕方なく不時着した場所は雪深い雑木林だった。
元々すぐ終わる予定の任務だったために緊急用の少ない食料だけしかなく、寒さと飢えを凌ぎながらオーバーウォッチからの救助を待っているのが現状だ。夜になって気温はさらに下がり、輸送機の中で非常時用の断熱シートに包まった。
「兄者、先に寝てくれ。オレは見張りをするから」
「……貴様は食事もとっていないだろうが」
「大丈夫だよ。ほら、半分機械だろ? 太陽光とか空気中の水分とかでもエネルギーを作れるから疲れにくいし、食べる量も頻度も少なくていいんだ」
なかなかエコだろ? そう言ってまた彼は笑うのだ。ハンゾーの気も知らず。
自分が見張るのだといって聞かない弟にため息をつき、自身の心を静めるためにもハンゾーは一度目を閉じた。暗闇の中でふと思い返したのは、オーバーウォッチに身を寄せてからのゲンジとの会話だった。
――――――
「どうだ兄者、オーバーウォッチの食事もなかなか美味しいだろう? いろんな国の人がいるから、味付けや料理も割と種類があるんだ」
新生オーバーウォッチの本部では、アテナというAIが食事を提供してくれる。もちろん手作りではなく、冷凍食品等をプログラムされたレシピに応じてアレンジするという簡単なものであったが、それなりに美味いものだった。
簡易ではあるがキッチンもあるため、料理が好きなものは時折自分で作って食べることもあるらしい。
ゲンジはいつもハンゾーの食事に付き合った。半分機械だからと昔ほど量は食べなくなっていたが、「兄者と食べる飯は美味いな!」などと嬉しそうに言うものだから、いつも断り切れないでいた。
『最近はゲンジ、よく食べるよね~』
そんな会話が耳に入ったことがある。普段はあれより食べる量が少ないのかと気にはなったが、自分といれば食べるのだからと深く考えることはしなかった。
「……っ」
はっと目を開けると、外は既に明るくなっていた。自身が思っていたより疲れていたのか……否、そうではない。ゲンジは一晩中見張っていたということなのか。
「兄者! 目が覚めたか?」
輸送機のドアが開き、ゲンジがひょこりと顔を出した。寝不足な様子もなくけろりとしているので、本当に眠りが少なくてもいいのかとまたハンゾーの心に影がさす。だってそれは。
「さっきウサギを仕留めたんだ。いい食事になるぞ」
そう言われれば、確かに外から良い肉の香りが漂ってくる。さすがに空腹を誤魔化すことはできず、外に出て食事にありついた。だがそこには一人分の肉しか置かれておらず、ハンゾーは怪訝な目を向けた。
「……お前は」
「え? ああごめん、保存食節約のために昨日はオレ食べなかったろ? 腹が減ってたからさ、先に少し食べたんだ」
だから遠慮なく食ってくれ! そう言うゲンジに何か違和感を覚えながら、温かい食事で空腹を満たした。
再び夜が訪れても、オーバーウォッチからの救助は来なかった。昨晩よりさらに冷え込み、断熱シートに身を寄せる。
「オレの分も使ってくれ兄者」
「いらん」
「……言っただろ? オレは大丈夫なんだ兄者」
「…………」
押し付けられたシートを拒否する気力もなく、先ほどより寒さが軽減したことに小さく息をつく。
「……すまない兄者。こんな体じゃなかったら、身を寄せ合って温め合うこともできるんだが」
「……っ少し黙っていろ」
苛立った声にびくりと肩を震わせたゲンジは、しゅんと項垂れて黙ってしまった。
――だって、しょうがないだろう。だってそれは、見せつけられるそれらは、ゲンジが如何に生身の人間から遠ざかってしまったのかを、ハンゾーに知らしめてくるのだ。
『お前のせいでこうなった』のだと、罪の大きさに押しつぶされそうになるのだ。
自分が見張りをするという彼を説き伏せ、先に寝かせた。微かな寝息が聞こえた頃、ようやくハンゾーは小さな、小さなため息をついた。
バイザーで隠された顔は、本当に寝ているのか怪しいものだ。だが、シマダ家として訓練を受けたのだから、少し呼びかけてしまえば彼はすぐ目覚めるだろう。だからハンゾーはただ黙って、その姿を見つめた。
ゲンジは、揺らぐことなく自分を『人間』だと言う。オーバーウォッチのメンバーたちも、そう言っていた。だが一歩街に出てみればどうだ。オムニックと間違われ避けられたり、中には暴言をぶつけてくる者もいる。あの、オムニックと人間が共存するヌンバーニですら、奇異の目に晒される。そして驚くべきは、オムニックにもゲンジのことを半端者だと忌み嫌う者がいることだった。
一体どれだけの間、このような悪意と恥辱を受けてきたのか。考えるだけでぞっとする。現に機械の体を嫌悪し、放浪していた時期があったというのだから、その苦痛は計り知れない。
本当は、こうして行動を共にする資格など自分にはない。一人罪を抱え生きていくべき罪人であるのに、ゲンジの言葉が、弱弱しい声が、足を踏み止まらせる。
『……から……どこにも、行かないでくれよ……兄者……』
どうするのが一番良いのか、ハンゾーは今もまだ、迷っている。
「……ん、兄者……交代だ」
声をかけられはっとする。もうそんな時間かと思う反面、昨晩はずっと眠ってしまったのだから交代は必要ないとも思う。
「いらん。寝ていろ」
「オレと違って兄者には休息が……」
「……っいい加減にしろ!」
また、びくりと肩を震わせる。怒られた子どものように不安げな表情に、僅かに戸惑った。
「……半分機械だからなんだ。貴様も人間だろうが。いいから黙って寝ていろ」
「……わかった」
大人しく、また寝る態勢になったゲンジにふんと鼻を鳴らす。何がおかしいのか、くつりと笑ったゲンジは話をしてくれとせがんだ。自分がサイボーグとして戦い、迷い、放浪した話をしたように、自分が知らないハンゾーの今までのことを話してくれと。
少し迷ったが、眠気覚ましにはちょうどいいだろうかと、何とはなしに口を開いた。
ぽつぽつと取り留めなく、今まで自分のところに送り込まれた暗殺者達の話や、出会った者達の話をした。何が楽しいのか、ゲンジは聞きながらうんうんと頷いたり、質問してきたりと落ち着かない。寝る気がないようだと呆れつつ、ふとハンゾーは懐かしい気持ちになる。
――そう、昔も時折こうして、病で伏せるゲンジに外の話を聞かせてやっていた。本当に、長い年月を経ても、ゲンジの根本はあの頃のままだった。
結局、朝日が昇り始めるころまでだらだらと話してしまった。色々な話を聞けたゲンジは嬉しそうに、今日はもっと大きい獲物を仕留めてくるぞと張り切って出て行った。
狩りならば自分のほうが得意なのだがと思いつつ、好きにさせる。その間に何か通信が入っていないかや、保存食の残りをチェックしていた。
そして、あることに気づいた。
「すまない兄者、今日はいい獲物が見つからなくて……?」
狩りから戻ってきたゲンジは、怒気を孕んだ兄の目に気づいてぎくりと体を強張らせる。ハンゾーは無言で顎をしゃくり、座るように促してくる。
恐る恐る座ったゲンジに、ハンゾーは静かに、だが怒りの滲む声で言った。
「……貴様、何も食べていないだろう」
「……いや、そんなことは……」
「昨日のウサギは毛皮が一羽分しかなかった。拙者が食べた量も一羽分だった。その上保存食の数もあれから減っていない」
「…………」
俯いて押し黙るゲンジにハンゾーはため息をつき、保存食の袋を投げてよこす。
「いくら食べる量が少なくていいからといって、丸二日も食べないなどどうかしている。倒れるつもりか? さっさと食え」
「……これは、兄者の分だ」
「……ッ貴様いい加減に」
「オレには必要ないんだ!」
今度はハンゾーが黙る番だった。否、言葉を失った。ゲンジは苦い顔をしながら、保存食をハンゾーの方へ押し返した。
「……本当に、食べなくていいんだ、オレは。食べたところでほぼ吸収されない。ただのゴミにしてしまう……貴重な食料を無駄にするわけにはいかないんだ」
ハンゾーはようやく、あの時聞いた言葉の意味を理解した。
『最近はゲンジ、よく食べるよね~』
あれは、量が増えたという意味ではない。普段から全く食べていないということを意味していたのだと。
ハンゾーはゲンジの前で静かに膝をついた。押し戻された保存食を拾い、封を切る。そして俯いたゲンジのバイザーを強引に取り去った。
「っ!? 兄、むぐっ」
口に押し込まれた保存食にゲンジは慌てるが、ハンゾーに押さえつけられている上吐き出すわけにもいかず、んーんーと唸りながらハンゾーの腕を叩いて抗議した。
「……共に食べたほうが、美味いのだろう?」
その言葉を聞いて、ゲンジが大人しくなる。それを見やると、ハンゾーは手を離して自分も保存食に齧りついた。
しばらく停止していたゲンジだったが、やがてもそもそと口を動かし始める。俯いたままで顔は見えなかったが、どうせまた情けない顔をしているのだろうとハンゾーはふんと鼻を鳴らした。
「こんな保存食が美味いのか貴様は」
「……ん……うん……美味いよ、兄者」
遠くから、オーバーウォッチの飛行艇のエンジン音が聞こえ始めていた。
「おい」
「……うん?」
「…………体のことで、もう隠し事をするな」
「…………」
「いざという時対処できん」
「……うん。ごめん、兄者」
「ふん」
ようやく顔を上げたゲンジは、やはり八の字に眉尻を下げた、情けない笑みを浮かべていた。