その日、新生オーバーウォッチの本部はいつもより賑やかであった。
「ゲンジー! ハッピーバースデー!」
「おめでとうございます!」
「あぁ、ありがとう皆。でもこの年になって、ちょっと恥ずかしいな」
「ワーッハッハ! 何を言う、幾つになっても祝われるのは良いことだ!」
ラインハルトの豪快な笑い声に皆もつられて笑う。その輪の隅で、ハンゾーは一人複雑な面持ちでそれを眺めていた。
一つため息をついて、そっと基地の外に出る。身軽に岩壁を登り、誰もいない基地の頂点に一人立つ。ジブラルタルと同じような、岩壁に囲まれ周囲の眼から隠された場所。山の向こうに朱い夕日が落ちていくのを眺めながら、ゆっくりと腰を下ろした。ハンゾーは今、『居候』という形でここにいる。
――殺したはずの弟が生きていた。それは、あの日からのハンゾーの罪の意識や生き方を大きく揺るがせた。が、当の本人はハンゾーに、好きなだけここにいていい、何ならオーバーウォッチのメンバーとして参加してくれるなら百人力だ、などと宣う。
タダ飯食らいとなるのは流石にプライドが許さず、『働かざるもの食うべからず』というゲンジの誘いもあって簡単な任務には付き合っている。その上、怖いもの知らずの若いメンバー達にはアルバイトだの非正規隊員だの言われ一方的に懐かれる。このままではなし崩し的に加入させられそうで頭を抱えるところだ。さっさと自分をつけ狙う暗殺者達の問題を解決できればいいのだが、なかなかこれも難しかった。
まあ、一番の悩みの種は、弟のことなのだが――。
「兄者! こんなところにいたのか」
ハンゾーよりもさらに身軽に、まるで重力など感じさせない素早さでゲンジが登ってきた。バイザーを取り、澄んだ雀色の瞳がハンゾーを真っすぐに射抜いてくる。まだハンゾーは、それを受け止めきれなくて視線を逸らしてしまうのだが。
「兄者も食べよう。今日はちょっとした御馳走だ。酒も少しなら……あ、日本酒はないが……」
「……ああ、後でな」
ゲンジは困ったように眉を寄せて笑い、肩をすくめる。遠慮することはないと言うが、あの楽しげな空気の中に入っていく気力はなかった。
「じゃあ好きそうなのを残しておくから、好きに食べてくれ。後から来るメンバーもいるらしいし」
そう言うと、来た時と同じような軽やかさでゲンジは下に降りて行った。
静寂が訪れる。夕闇の、朱と藍の混じる空を見ながら、そういえば祝いの言葉の一つも言っていないと気づき、ため息をついて額を押さえた。
――――――
半刻ほど瞑想してから下に戻ると、ささやかなパーティー会場は大分片付けられていたものの、顔ぶれの変わったメンバーが残り物を摘まみつつゲンジを囲んで話していた。
オーバーウォッチはメンバー全員が揃っていることは珍しく、いつも半数くらいは任務に出ていたり、ジブラルタルなど他の基地を拠点にしたりとまちまちだ。今もまた、遠く離れた地から通信で祝いのメッセージを伝えている少女がいる。
『やほーゲンジ! 誕生日おめでと! プレゼントにお土産買っていくからね~』
「ありがとうハナ。これから決勝か?」
『そだよ~もちろん私の優勝は間違いないわね! あ、優勝がプレゼントっていうのもかっこよくない?』
「はは、楽しみにしてる。頑張れよ」
一回りは年が離れている少女はやけにゲンジに親しいようだが、ゲンジも昔はよくゲームをやっていたからだろうか。やけに楽しげな様子を相変わらず悶々とした気持ちで眺めていると、視線を案じて振り返る。そこにはマクリーと呼ばれているガンマンが壁に背を預けて立っていた。何やら訳知り顔で笑いを浮かべているのが気に入らない。無視しようとすると小さく声がかけられる。
「言葉でもモノでも、何かやった方がいいんじゃないのかねぇ、お兄さん」
「貴様に口出しされる謂れはない」
「そうかい? 俺はダチのことを思って言ってるんだがな」
「拙者一人どうこうせずとも、あれには祝ってくれる人間などいくらでもいる」
こんな軽薄そうな男と友などと腹立たしい。しかもかつてはゲンジと同じ部署に所属していたと聞く。ますます気に入らない。苛立ちを隠しもせずにそう言えば、マクリーもまた額に皺をよせ、不機嫌そうに。
「まったく、命日には毎年家に戻ってたってのに、誕生日には何もしないのか?」
思わず殴り掛かりそうになった怒りはしかし、図星を突かれて急速に冷えていく。ああ、全くもってその通りだ。
すっかり意気消沈した様子のハンゾーに、マクリーは流石に言いすぎたかと気まずそうに頬をかく。彼もまた、ゲンジが大事な仲間であるがゆえに、いつまでたっても煮え切らないハンゾーに痺れを切らしていたのだ。
「……まあ、何をするにしてもあんたの自由だけどな」
邪魔したな、と言い残してマクリーはゲンジ達の方へと歩いて行った。ゲンジの隣に座り、肩を組んで親しげに話す。ゲンジも嬉しそうに答えて、笑う。
「…………」
二人の時、あんな顔は見せない。それはハンゾーがゲンジを受け入れられていないからだ。自ら壁を作り出してしまっているから。
――――――
「おや、ハンゾー、どこかへ行くのですか?」
オーバーウォッチで使われている小型船の乗り場へ行くと、ウィンストンが調整をしているようだった。
「少し借りるぞ」
「いつ戻りますか?」
「……明朝までには」
「分かりました。気を付けて行ってきてください」
「………………」
ハンゾーの物言いたげな顔に気づき、ウィンストンは苦笑いした。
「何故自由に使わせるのか……と言いたげな顔ですね」
「貴様ら仮にも命を狙われる仕事だろうが。こんな部外者を自由に出入りさせて、情報が漏れるとは思わんのか」
「まぁ、それはそうなんですが」
手元の機械に何かを入力し、数値を確認する。この人語を話せるゴリラは賢く、思慮深い。その彼の言葉は、オーバーウォッチの中ではハンゾーにとってそれなりに信用できるものだった。
「ゲンジがあなたの好きなようにさせてほしいと。あなたを信頼しているから大丈夫だと」
「……それだけか?」
「ゲンジはあなたを信頼している。私たちはゲンジを信頼している。……ま、不安になることもありますが、今はそれでいいんじゃないでしょうかね」
「…………かつての組織の瓦解を忘れたわけではあるまい」
「勿論です。ですがゲンジはあなたがずっと家に――自分の死に縛られていたから。オーバーウォッチに加入しようが、世界を放浪しようが、タロンに入ろうが、自分の意思で選べば良いと。あなたに自由になってほしいと言っていました。私もそれで良いと思っただけです」
ハンゾーは、言葉を返せなかった。ウィンストンも予想していたようで、それ以上話さず作業に集中し始めた。
無言で小型船に足を向けたハンゾーだが、乗る前に一度立ち止まり、『すぐ戻る』と言った。ウィンストンはそれに返事をし、そしてそれを信用したのだろう。ただそれだけだった。
小型船は自動操縦で日本のある場所に向かった。小型ではあれどワープホールにも対応し、到着までそう時間はかからない。それまで仮眠を取ろうと横になったハンゾーは、しかしなかなか寝付けなかった。
ゲンジは、ハンゾーを許したと言った。それがハンゾーには受け入れられなかった。自分で自分を許せないのに、当の本人に許すと言われて、その真逆の想いに心がかき乱される。
いっそ憎んでいてくれれば。恨んでいてくれればどれほど楽だったか。
彼の母と同じように、墓さえ作ってもらえなかった、最初から存在しなかったかのように抹消された憐れな弟。どうして自分を許すことができようか。
「…………」
――その時、ふと『知りたい』と思った。
どうして、自分を許せるようになったのか。
ジーグラー女史の話によれば、オーバーウォッチに来たばかりのゲンジはシマダ家の悪事を根絶させんと精力的に任務に打ち込んでいたということだった。そもそもサイボーグとして肉体を再生させる条件が、オーバーウォッチの一員となりシマダ家と戦うことだったというのだから、その時は当然憎しみ、恨みで満たされていたことであろう。
それをどうして許すことができたのか、それを知ることができれば、ハンゾーも自分を許す、手掛かりのようなものを得られるような気がした。
電子音にはっとすると、小型船が着陸態勢に入ったところだった。オーバーウォッチに貸し与えられた身分証を用いて数か月ぶりの故郷へ足を踏み入れる。時差の関係で、こちらは正午を過ぎた頃であった。
ハンゾーが向かったのは江戸の時代から続く老舗の呉服屋だ。
「いらっしゃ……」
昼時というのもあってか客は他にいなかった。中から現れた老いた店主はハンゾーを見て驚きの表情を浮かべる。ここは代々シマダ家の正装などを仕立ててきた御用達の店だった。当然彼は、ハンゾーのこともよく知っている。それこそ生まれた頃から。
「…………お元気そうで何よりです」
「突然申し訳ない。少し、入り用のものがあってな」
家を捨てたシマダの元頭領が戻ったなればそれは騒ぎになる。だがこうしてハンゾーが顔を見せたのは、この店主が信頼に値する人間であったからだ。そしてやはり彼は、すぐ冷静になり、何故ハンゾーがこうして姿を見せたのかを察したようだった。
(信頼……)
そう、ウィンストンも同じことを言っていた。シマダ家にいた頃は、陰謀渦巻く中で知恵を巡らし、戦ってきた。だが今はどうだろう。存外、武装で守りを固めるよりも、門を開いた方がいいこともあるのかもしれない。少しだけ、そう思えた。
ハンゾーが欲しいものを伝えると、店主は少し驚いたが、すぐに奥に引っ込んだ。しばらく待っていると、殆ど長さのなくなった、端切れのような反物を持って出てきた。
「ハンゾー様がいなくなって、形だけは残っているシマダではとんと注文がなく……これだけしか残っていませんでしたが」
「いや、十分だ。これを仕立ててくれ」
恭しく頭を下げ、金はいらないという店主に本来の額の倍を渡すと、ハンゾーはすぐに小型船へと乗り込んだ。
――――――
もうすぐ日が昇ろうかという刻限。ゲンジは一人、朝日の見える海側の崖まで来ていた。ぼんやりと明るい橙が混ざりつつある空を眺め、一人ため息をつく。
「兄者、遅いな」
パーティーの後片付けも終わったころ、ウィンストンから兄が一人で出かけたことを聞いてからというもの、ずっと待っている。どこかでこの前の暗殺者達に襲われてはいないか。小型船の不調で立ち往生しているのではないか。一人でいると様々な不安が生まれて落ち着かない。
アテナの情報によれば、小型船からの信号は正常であるということは分かっているのだが、行先は日本であるし、一人で行ってしまっている。どうにも心配だ。たった一人の血を分けた兄。かつて殺されかけたとは言え、ゲンジにとっては大切な存在だった。
「……」
あるいは、オーバーウォッチから離れ、新たな生き方を見つけるのかもしれない。それはそれで寂しいことではあるが、ハンゾーが決めたことならゲンジは受け入れるつもりでいた。仮にタロンなどの、世界に混沌をもたらそうとする組織につくのであれば、オーバーウォッチとして全力で止める。どこへ行こうとも、それが兄の意思ならばゲンジは嬉しかった。
シマダ家の頭領の息子として生まれ、自分の生き方に選択権などなかった兄に、何者にも縛られず生きてほしかった。
――そう思いつつも、こうして不安に苛まれる自分を未熟と笑いながら。
「……もう起きたのか、寝ないでいたのか知らんが、物好きだな」
「っ兄者! 無事だったか!」
「何が無事だ馬鹿者が。少し出ただけだろうが」
ふんと鼻を鳴らすハンゾーは少し疲れているのだろうか、ゲンジの隣にどっかりと腰を下ろした。ゲンジもその隣に座ってみる。
「兄者があまり遅いから、食事はもうなくなってしまったぞ」
「知らん。お前のための宴ならさっさと食べればよかろう」
相変わらずつんけんした兄に苦笑する。すると、唐突にぐいと頭を引っ張られる感覚にうわっと声を上げた。
「貴様、よくもこんなみすぼらしい布をいつまでも着けているな。見ているこっちが見苦しいわ」
「えっあっえっ兄者!?」
ぐいぐいと引っ張られ、しゅる、と布が解ける音がした。後ろを向こうとするゲンジを押さえつけ、ハンゾーが何かをゲンジの頭にするすると着けていく。
「全く、こんなみっともないもの晒しおって。色あせて紋様もろくに見えなくなっているではないか。仮にもシマダ家の青海波だぞ。この恥さらしが」
きゅ、と結ぶ音がし、ようやく頭が解放された。すると風でふわりと流されてきた布を見てゲンジは目を丸くした。
「これ」
「なじみの呉服屋に行ったら端切れが残っていたから作らせた。少しはマシになるだろう」
ゲンジが頭に着けていた色あせ、古くなった織物。それは銀色の真新しい青海波の織物に取り換えられていた。ハンゾーの頭に結われている金色の青海波と同じ、シマダ家の者だけが身に着けるものだった。
「……既に去った身であっても、それを着け続けるのならまともなものにしろ」
「う、うん……」
戸惑うゲンジの横でハンゾーが取り外した古めかしい織物をしげしげと眺める。
「しかしよくもこんな古いものを着けていたな。外そうとは思わなかったのか」
「……思わなかったな」
ゲンジはバイザーを外し、真新しい織物をよく見ようと手に取って眺めていた。
「……母上以外にもらった、初めての誕生祝いだったから」
ハンゾーははっとしてゲンジを見た。そう、彼の母が死んでから最初の誕生日に、ゲンジは正式にシマダ家に入ることを許された。その日に、ハンゾーが手渡したものは。
「なあ兄者、これは誕生祝ということでいいのか?」
「……知らん。これがみっともないから取り換えただけだ」
朝日が差し込み、二人を照らす。金と銀の青海波が、風に乗って波打った。
「ありがとう、兄者」
浮かぶ笑顔は、確かにハンゾーが望んだものだった。この笑顔が当たり前になった時、ハンゾーもまた自分を許せるようになるのかもしれない。
古びた織物をそっと握ると、また一つ、荷が軽くなったような気がした。